フエで参加するDMZ(非武装地帯)ツアー フエの世界遺産巡り8

フエ二日目は昨日にバイクをレンタルしたLittle Hue Travelで予約をしたDMZツアーに参加することになっている。DMZとはDeMilitarized Zoneの略で、いわゆる非武装地帯。ベトナム戦争時にベトナムを南北に二分した17度線に沿った地域のことを指す。ベトナム戦争中には激戦区として激しい攻防が繰り広げられていた為、多くの戦跡がこのエリアに遺っているのである。


ベトナムは第一次インドシナ戦争後のジュネーブ協定により1954年から1976年まで南北に分断されてた。この22年の長い間DMZとなっていたのが南北1600km以上に及ぶ現ベトナムの国土のほぼ中間地点を通る北緯17度線である。フエからだとそれなりに距離があるので一日がかりの小旅行になるのだが、ツアー代金はVND390,000(≒JPY2,000)と日本感覚で考えると非常にお手頃なツアーである。

当日は07:00-07:15の間にホテルにピックアップに行きますよーとのことだった。しかし…待てども待てども迎えが来なければ、領収書に記載されていた番号に電話をかけても繋がらない。日本人的感覚で06:45分からロビーで待機していたので置いていかれたということはないと思うが…。
ひだり みぎ
結局、8時過ぎにミニバンがやってきた。参加者が少ないのでバスではなくミニバンで移動することになったそうだ。これだけ遅れるならホテルに電話の一本でも入れてくれれば良いと思うのだが…。

何はともあれ、ようやくDMZを目指して走り出した我々のバス。先ずはラオスとの国境近くを目指していく。
道中では父が戦争で戦ったという愛国精神あふれるガイドが簡単にベトナムの近代史をおさらいしてくれた。
「ベトナムは歴史的に中国やフランスや日本や韓国やアメリカに蹂躙された悲しい国」とツアー参加者の同情を引き、いきなり話は第二次世界大戦に飛ぶ。第二次世界大戦が始まるとヒトラーにパリを陥落させられたフランスに代わって日本がやってきた。フランスがやられたのに今度は日本かよ!ここで芽生えるベトナム民族主義。そして、日本の敗戦をきっかけに各地でくすぶっていたベトナムの民族主義思想に火が点く形で蜂起が乱発、ベトナム北部ではホーチミン率いる一派が共産国のベトナム民主共和国として独立を宣言する。

しかし…ベトナムを含む旧フランスインドシナ諸国の再支配を目論むフランスはこの独立宣言を良しとせず、フランスとベトナム民主共和国との第一次インドシナ戦争にへと発展。その後、8年続いたフランスとベトナムの戦争は世界史の教科書にも出てくる有名なディエンビエンフーの戦いでの勝利を契機に一気にベトナムに有利に傾き、フランスは撤退を余儀なくされることに。

今度こそ独立か?しかし…スイスのジュネーブで開催された和平会談では、独立を求めるホーチミンの主張は通らず、北緯17度線でベトナムが分断される形で北にソ連・中国が肩を持つ共産国・ベトナム民主共和国、南に共産圏の拡大を阻止すべく介入してきたアメリカが後ろ盾となったベトナム共和国の二つの国がベトナムに存在することとなった。こっからはもう北の共産主義陣営と南の資本主義陣営の代理戦争。当時は冷戦の真っさなかで、ベトナムが共産主義になったら東南アジアが全て共産主義の手に落ちるのではと焦ったアメリカの軍事介入によりベトナム戦争がおっぱじまった。

1965年には南が北ベトナムに一斉攻撃を開始。250万トンとも言われる途方もない爆弾や枯葉材を容赦なく落とし続けるアメリカに対してゲリラ戦で応える北ベトナム。結局、戦局は泥沼化してアメリカは撤退、1975年に今の共産主義国家として南北統一が果たされた…というのがベトナム近代史の大雑把な流れになる。

こんな歴史があるもんで、ウキウキピクニック気分な旅にはならないのが悲しいところ。ツアーに参加したみなさん、ガイドの説明を聞きながら沈痛な面持ちで外を眺めている。

ひだり みぎ
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窓の外には雄大な川が流れていたり街頭でトウモロコシを干してたりコーヒー畑が広がっていたりと戦争の悲惨さを感じさせない長閑な景色が続く。コーヒーなんか皮肉なことに、ベトナム戦争で泥沼の戦いを演じたアメリカが消費量世界一だからなぁ。

Dakrong BridgeとRock Pile

そうこうしているうちに第一・第二の見所がやってきた。

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先ずはRock Pile。高さ230メートルの尖った丘にしか見えないが、戦略上重要な地点にあることから米軍の監視塔兼砲撃基地として使われていたそうだ。確かに周囲の丘よりは高く、DMZ周辺の敵軍監視には適しているんだろうが…正直今はただの小高い山にしか見えない。


続いて北ベトナム軍の補給ルート・通称ホーチミンルート上に架かるDa krong Bridge。北ベトナムの背後に控える怖くて大きい国からの人殺しグッズ詰め合わせや食糧なんかがわんさか運ばれた重要な兵站補給網。何百万もの人がこの橋を渡ってホーチミンルート、別名“血のルート”の流れを切らさず物資を運び、最後はやっとの思いで独立を勝ち取ったと思うと感慨深い…のだが、橋自体は1999年に再建されたものらしくて真新しい。

この後は更にラオス方面へと進んでいき、11時前には午前中のハイライトである米軍ケサン基地跡に到着した。ラオス国境から15km東に位置する米軍の軍事基地跡で、北軍の南軍に対するテト攻勢でも激戦が繰り広げられた激戦地中の激戦地跡だ。

ケサン基地跡(Khe Sanh Army Base)


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戦闘機の飛行場として使用されていた場所に現在は小さい博物館が建てられており、その周囲のただッ広い草原地に攻撃ヘリ・大型輸送ヘリ・戦車・装甲車なんかがポツンポツンと置かれていて、その中を瘦せ細った現地人数人がアメリカのコインなんかを売り歩いてる。

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撃ち落とされたヘリなんかもそのままの状態。

ひだり みぎ
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離着陸に特別な滑走路を必要としない多用途ヘリコプターUH-1Hなんかも展示されているが、当時はこの平野に赤土の滑走路があったらしい。

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北ベトナムはホーチミン・ルートの安全確保と第一次インドシナ戦争のディエンビエンフーの戦いのような象徴的な勝利を求めてケサン基地の包囲殲滅作戦を展開。北ベトナム軍が人的被害を省みず積極果敢な攻撃に出るのに対し、アメリカ軍は77日に渡る戦闘期間中に1,120回にも及ぶ物資の空輸を続けてなんとか応戦。最後は約114,000トンの爆弾を投下し火力の差で勝ったアメリカが北ベトナム軍の包囲を解くことに成功した。しかし、その2か月後には維持コストの関係もありアメリカ軍はケサン基地を破壊して撤収。戦術的に勝利しながらも最前線のケサン基地を放棄するという決定によりアメリカ国民の戦争に対する世論が変わり、この撤退を境にアメリカでベトナム撤退支持層の声が強まっていったらしい。

ひだり みぎ
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敷地内には迷路のように張り巡らされた塹壕も再現されている。これが結構リアルで鳥肌立った。

せっかくなんで博物館にも入ってみた。

北ベトナム軍がテト攻勢に備えて本格的にケソン基地の攻略を開始したのは1968年1月中旬。北ベトナムの正規軍第304師団が基地の西方から、第325師団が基地の北方からそれぞれアメリカ海兵隊2個連隊と南ベトナム政府軍レンジャー部隊が守るケサン基地に迫っていった…

ひだり みぎ
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生々しい写真の数々と、まさか戦死者から剥ぎ取ったものではないと思われるが、着古された軍服や兵士の持ち物なんかが飾りっ気なく山積みにされていた。

かなーりダークでヘビーな気持ちにさせられたところで、次なる目的地へと移動する時間がやってきた。
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お次は午後の目玉であるヴィンモックトンネルだ。

ヴィンモックトンネル(Vinh Moc Tunnels)


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ベトナムの地中村といえばホーチミン近郊のクチトンネルが有名だが、主にゲリラ戦展開用の軍事目的で造られたクチトンネルとは異なり、こちらは近隣住民のシェルター用に設けられたトンネル施設になる。

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手で掘った感満載の穴。こんな穴の中で生活してたんすか?



竹林の小路を進む中で、至る所に防空壕的な穴があるのが分かる。現在は人が入りやすい様に見せられているけど、確かにこれがジャングルの中にあったら上空からだと気がつかないよな。


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この大地の窪みは不発弾が落ちてきた衝撃で出来たクレーターだそうだ。この周辺だけでも10,000tとかの爆弾が投下されても戦い抜いた住民の逞しさとトンネルの丈夫さにただただ驚くばかり。

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ここでも簡単な資料館を見学する。ヴィンモックトンネルとは、南シナ海に面したビンモック村の住民が米軍の爆撃から身を守る為の地下シェルター。中には産科付きの病院や学校もあり、一番多い時で400人程が身を潜めて暮らしていたそうだ。外は爆撃まみれで、戦争はいつ終えるとも分からない。そんな中で最長6年にも渡り地下に住み着き、蟻の巣のように張り巡らした狭い穴の中でじっとアメリカの猛攻に耐えていたのだ

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最深部で地下3階程度の深さらしいが、トンネルはやっぱり手作りだった。トンネルマップを見ても本当に蟻の巣のようだし、何より深い。いったい掘るのにどれくらいの労力と時間が費やされたのだろうか。


こんな原始的な道具で400人が暮らせる地下のトンネル村を掘ったのか…。

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普通に生活してるし、なんと17人もの命が地下で誕生したらしい。すっごい暗くて大変な過去に聞こえるが、ガイドさんはこれでもかという会心の笑顔を振りまいて嬉しそうに説明してくれた。


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実際にトンネルに入ってみると、真っ暗なのは当然として、かがまなければ歩けないくらい狭く、そして蒸し暑い。

最後の見所・ヴィンモックトンネルの見学を終え、フエへの帰路にある最後の観光スポットへと向かう。

戦没者墓地

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最後の停車スポットはお墓で、ここまで沈み続けてきた気持ちを更にダークなものにしてくれる。

結局、朝の8時に出発したDMZツアーは丸一日かかりで、フエに着いたら夕方5時を回っていた。クチトンネルのツアーと比べて拘束時間が長いし、内容も更にダーク。リーゾナブルな価格で貴重な経験を積ませてくれるツアーだけど、歴史好きや軍事マニアくらいにしかウケないとは思います。今回もベトナム戦争に思い入れがあるという70代のメリケン夫婦2組とモノ好き韓国人男1人に私しか参加者がいなかったし。



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