ミンマン帝陵 フエの世界遺産巡り2

カイディン帝陵のお次はミンマン帝陵へ。

ミンマン帝陵は西洋文化と欧州先端技術を導入した代わりに介入を許した初代とは打って変わって中国の制度や文化を積極的に取り入れることでグエン朝の基礎を築いた第2代皇帝ミンマン帝(明命帝、在位1820〜41)の陵墓。儒教的思想を何より重視したミンマン帝が自ら設計にあたられたとのことで、親仏ヨーロッパかぶれのカイディン帝が設計したバロック調の廟とは全くもって異なる中国風の様式が特徴となっている。

ひだり みぎ
カイディン帝陵からは西に5キロ程の距離。フォーン川の西の畔に遺るので川を渡る。渡り舟でも出てるのかなぁと思いきや、周囲の景観にそぐわぬ立派な橋が架かっててビックリ。


橋を渡った先で迷ってしまったが、途中で地図を見て迷ってる自分を見つけた家族連れの地元民がミンマン帝陵の駐輪場までバイクを走らせ誘導してくれた。

ひだり みぎ
駐車料金5,000ドンを払ってバイクを停め、バナナ売りのオバサン軍団の攻撃をかわすと、謎のパフォーマンス集団がワーってやってきて、わーって去っていったw。近所に住む子供たちの獅子舞の練習かな。素晴らしいエンターテイメント精神ですw

ひだり みぎ

これも明や清の陵制に倣ってだろう、長ーい塀に囲まれていて門まで遠い。しかも、せっかく辿り着いた大紅門と呼ばれる正門は皇帝専用通路として、皇帝の棺が運ばれてから堅く閉じられているという…。なんか崩御された今でもたまーにこちらの帝陵にお戻りになられることがあるそうで、帝陵内は皇帝がお戻りになられる際にお使いになられる寝台なんかも置かれているらしい。

ひだり みぎ
正門脇の小門から中に入ってみると、正面は三日月の形をした蓮の池を配した中国風の大庭園となっている。当時の王朝は風水の考えをを非常に大切にしており、帝廟を建てる際には山と水という2点を重要視したそうだ。

城壁に囲まれた陵内中央部には、大紅門・碑亭・寝殿・陵墓など主要な建造物が真っすぐな参道の上に配置され、グエン王朝の最盛期を感じさせる威風堂々とした構成になっている。これもこれは明や清の陵制を忠実に真似たものだろう。

ひだり みぎ
死者の霊魂を護る家臣が見護る中、白い石を敷き詰めて作られた帝陵の参道は御陵のある西へ向かって真っすぐ伸びている。陵と優雅な大庭園が融合したスタイルにミンマン帝の政治思想が表れていて実に興味深い。

参道の主軸を西に進むと、先ず見えるのはミンマン帝の功績が書かれた碑石(聖徳神功碑)。
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陵は1840年から3年かけて建設されたが、設計長のミンマン帝は完成前の1841年1月に病が急変し崩御されたため、次代皇帝ティエウチー帝が完成させたそうだ。ミンマン帝の功績を刻んだ碑文は次代のティエウチー帝により造られたものとなる。


この先、だだっ広い庭園の前方には寝殿の前門である顕徳門が見える。

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こちらが顕徳門。真ん中の門は皇帝専用ということで、大紅門と同じく閉じられている。

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ようやく辿り着いたミンマン帝と皇后の位牌が祀られる崇恩殿。黄色い交趾釉の屋根瓦が美しい。

ひだり みぎ
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中華風の装飾が施された崇恩殿に中には皇帝と皇后の位牌が納められている。驚くべきことに皇帝には500人以上の側室と百人超の子供がいたらしい。絶好調!


ミンマン帝統治下で中国に倣って推進した強烈な中央集権化が北部・南部双方で反発を招いて大規模な反乱が発生したという事実は伏せ、ミンマン帝は文化・教育の向上に注力した賢帝として今なお尊敬の対象として崇められているといった風にここでは紹介されていた。キリスト教禁止の排外政策を採ったり中国以外の全方面に喧嘩を売るタカ派ってイメージだったんだけどな。やっぱり強いリーダーは正当化されるのかな。なんだかんだでグエン朝が最大版図を獲得したのも彼の時代だし。

この奥の古墳のような小高い丘にも明楼や円陵があり、中国の瀋陽の皇帝陵や北京郊外の清東陵や明十三陵を思い出させるような配置となっている。しかし、この日は何故だかクローズとなっていた。だから入場券を確認するような人がいなかったのかな…。

【ミンマン帝廟】

営業時間:夏期 06:30-17:30、冬期 07:00-17:00



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【2017年フエ旅行記】











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