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チェンマイ市芸術文化センターで北タイの歴史文化を学ぶ


チェンマイの旧市街を見て回る前に、市内のド真ん中にある芸術文化センターでチェンマイの町に対する理解を得ておくことにする。学生時代に一単位だけ興味本位でアジアパシフィックのクラスを受講してみたりもしたが、タイ北部の歴史など一分一秒たりとも取り上げられることすらなかったので、事前知識は皆無。逆に偏見や下手な先入観も無くまっさらな無地状態で訪問出来て良いのかもしれない。

こちらは芸術文化センターの前に建つ三人の王像。左からパヤオ王国のカムムアン王、ラーンナー王朝の創始者メンラーイ王、スコータイ王国のラームカムヘーン王と、北部タイの歴史の大御所揃い。それぞれがチェンマイ王国の建国及び町の強力に協力を誓い合っている場面とのことだ。チェンラーイのメンラーイ王像でもそうだったっが、歴史上の王様が現代でも崇拝対象になっているようで、ひっきりなしにご年配の参拝者が訪れ、王像の前でひれ伏している。3王それぞれがチェンマイの歴史的に謂れのある人物で、チェンマイの歴史を語る大きな意味を示す大切な記念碑なのだろうが、観光スポットとしては地味な感が否めない。説明書きもタイ語のみで読めないし。

背後にある白壁の優雅な建物がチェンマイ市芸術文化センターになる。1924年に建設されたもので長らく県の役所として使われてきた建物が使われている。

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入館料は90バーツ(≒300円)。入園料を払うと、先ずは序論として、暗がりの部屋でチェンマイ市の歴史や文化に纏わる簡単なビデオを鑑賞することになる。どこぞやのお国の博物館と違って自分たちの主観・価値観をゴリ押しする洗脳的内容ではなく、館内の展示物も含めてニュートラルな紹介に徹しようとしている姿勢が見て取れて好印象。どう感じ取るかは見る側が判断するので、博物館に主観のゴリ押しは不要です。

続いて、考古学の世界へといざなわれる。

散在する石器の分析結果に拠ると、人類の祖先が70万年も前に北部タイを放浪してとされている。メーホンソンの神霊の洞窟なる場所では1万2千~7千万年前の石器や縄文土器、鹿・猪・牛・猿・リス・ジャコウネコなどの動物の骨や爪、ビンロウジ、豆などの植物の破片なども発掘されているそうだ。

この岩にへびりついた血痕にも似たシミは何でしょうか。

石灰石の絶壁に描かれたランパーン県プラトゥーパーの壁画だそうです。決してシミなんかではありません。数千年物前のアーティストにより、人間の男女の姿、猿・牛・リス・爬虫類の画や石弓を持った人間、動物を捕えた人間、動物を調教する人間の画など、2千もの絵物語が描かれているそうで、荒れて険しい環境の中で生活していた先住民の生活の様子を忍ぶことができる。オブルアン町のバーチャーンという場所の岩壁にも壁画が残されているそうだ。

◎一つの文化二つの谷間

森林地帯や険しい山々の間に流れる川の周辺が昔の農耕民族の生活の基盤である、そこが現在の北部タイとして発展の舞台となってきた。考古学者や歴史家の間では、タイ族やユアン族は11世紀に中国の雲南省から南下し、ラワ族などが既に住み着いた土地に移住してきたと考えられている。そこに、この地域の歴史上初のタイ人支配者が出現する。雲南省の景洪のタイルー族の有名な支配者の親族と考えられている、ランナー王朝の創始者・マンライ王である。チェンライを王都としてランナー王朝を創建したマンライ王は徐々に南に勢力を伸ばし、モン族が多く住んでいた仏教の町ランプーンを支配下に置いた。その後、拡張した領地の中心になる新しい町をつくることにし、建造されたのがチェンマイである。


彼は新しく作られる町の予定地を決める為、懇意にしていた二人の近隣国の支配者(建物前の王像で見たカムムアン王とラームカムヘーン王)に相談した。その結果、新しい町は西側が山で守られていたピン川の畔に決定された現チェンマイに決定されたのだ。

◎新しい町の創造

マンライ王即位パレードの様子。新しい王は町の北門から即位式に向かった。王の行列はラワ族などこの地域の先住民への情け深い素振りを見せながら門を通っていった。

占星術師たちはチェンマイの町の頭を東北の方角に置き、この方角に白象門(チャーンプアク)という特別な城門を造り、城門の前には守護神ライオンと像の彫刻が飾られた。町の西側は学問の区域で、東側は産業の中心地、そして南側は混乱と死のサインを表したたので、南門の外に町の火葬場が設けられた。

インタキンという町の柱は街の真ん中に置かれた。俗世界と超俗世界を繋ぐその柱はアミニズムとヒンドゥー今日の信仰を表している。 チェディールアン寺に祀られているインタキンの柱は慰安でも信仰の対象になっていて、5月から6月には特別な儀式の為に北部タイの至る所から信者が集まり、この聖なる柱にお供え物をする。


チェンマイの骨格を成す四角い城郭は今なお残る。現在の城壁内には寺院やチェディ、庁舎、学校、ホテルから市場、商店、住宅にいたるあらゆるもので埋まっている。


ワット・チャンマンの石碑のレプリカ。チェンマイの創立正確な日付が刻まれている。

◎環境と文化
チェンマイを中心とする北部タイの町の複合体はランナー(百万の田)と呼ばれていた。ランナー地域の黄金時代は強い王と組織化された政府が統治した1400-1525年であった。小道や赤土の道路、灌漑用の溜池、水路、水車などのインフラがこの地域を発達させた。

熟練の職人や建築家たちが樹脂や木材など地元の天然資源を活かし、北部タイの様式特有のスタイルを開発した。漆細工や化粧漆喰細工、ブロンズ製の仏像などが有名である。
若い男性の多くが出家して修行していたので知識能力も高かったと思われる。医療や法律の専門家もいた。

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同時に、城内にはお寺が沢山作られ、チェンマイは仏教文学やパーリ語教育の中心地となった。特にティロカラート王が仏教の僧侶を集めて小乗仏教の経典(三蔵)の編集をした後は宗教教育が広い範囲で支持されてきた。ランナー地域の僧侶たちは小乗仏教の発祥地スリランカへ勉強に行き宇宙の条理の新しい解釈を学んだ。

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ランナー地域はチェンマイの下で独立している自治体の集まりであり、各村々ではバーンという村文化が根を下ろした。稲作農家で形成された村にはそれぞれの村長がいて、お寺がそのコミュニティーの中心となった。村の集まりが地区で、更に大きい町はウィアンと呼ばれた。王室の町はチェンマイやチェンライのように、チェン○○という地名になる。

◎前世紀の変わり目に

20世紀のチェンマイの課題は交通と通信であった。
鉄道が初めてチェンマイにできたのは1919年。バンコクから路線を敷設するのは至難の業だった。テナッセリム山脈の西側の一部を形成するクンターンの山に長さ1362メートル、最大高さ5.75メートルのトンネルをつくるのに数千人の労働者により3年半もの時間が費やされ、鉄道敷設工事は10年かかった。工事中にたくさんの労働者がマラリアや熱病、酸欠や落盤事故で命を落とした。 鉄道がチェンマイへ来る前はチェンマイの人たちがバンコクへ行くのに船で根気のいる長い旅をしなければならなかった。その船はサソリ尾の船と呼ばれ、船底が平らになっていて走行するときに船尾がサソリの様に高く上がるのでその名がついた。

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↑馬やロバに荷を負わせて旅する人たちの姿に、象がチークの森の伐採現場で働く様子。
チェンマイは天然資源に恵まれていて自給自足の出来る町だった。鉄道が来る前にも昔からの交易ルートであったミャンマーからのシャン族の商人と雲南省の中国人の商人が牛やラバ、馬のキャラバンで塩や魚の干物、鉄製の道具を運ぶルートの他に新しい交易のパターンが始まろうとしていた。
19世紀の後半には遠くの大国との交易が加速した。シャム(タイの旧国名)とバウリン条約を結んだイギリスはイギリス製の商品を売ったりチーク材の森の伐採権を取って、丸太を運ぶのに像を使っていた。英国ボルネオ社が1864年にチェンマイの周辺の木の伐採権を取り、1889年にはボンベイビルマ社が同じ権利を取った。チェンマイの西洋人の会社や住宅はピン川の東側に作られ、今でもその面影がまだ残っている。

中国人の商人たちは川の両側特にターペー通りの周辺に住み着いて、酒造業の所有者をしたりした。扶南から来たホーと呼ばれた中国の回教徒は陸路交易でチェンマイと長い間取引をしていた。20世紀の変わり目より少し前に彼らはモスクを造った。

チェンマイにとって新世紀に入って一番大きい変化はシャムとの合併であった。これはヨーロッパの植民政策への対応で、その結果として法律や行政に関する変化が色々と起った。

◎歴史的な建造物

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チェンマイ美術文化センターは1924年に建てられた素敵なデザインのビルの中にある。このビルは宮殿の跡地に建てられたが、この地を寄贈してくれたのはダーラーラサミー王女だった。建物は最初、中央行政事務所として使われていたが、その後チェンマイの県庁になった。チェンマイ市当局は観光客に北部タイの歴史や文化伝統を理解してもらうために1997年にこのビルを修復して市立美術文化センターにする許可を申請し、1999年にようやく許可が下り、芸術文化センターとして一般開放された。

◎チェンマイの支配者たち

マンライの王朝は162年間チェンマイを治めていた。その後ミャンマーに216年もの間占領されたが、チェンマイは建国500年を迎えようとする大切な年に地元の人間の手に取り戻された。 その時活躍していたのはバンコクの支援を受けたランプーンのカウィラ王子であった。バンコクの政府は当時ミャンマーを追い出し、ランナー地域を敵国との緩衝地帯にしようとした。
ランナー地域はある時、政治的混乱に陥った。村や田畑は捨てられ、土地は草ぼうぼうになって荒れていた。南には虎、北には像がいる。国は安定していない、と当時のある年代記編者は書いた。 チェンマイの町は20年もの間、無人状態にあった。町全体が木や草、葦で覆われていて虎や熊、サイ、象、野生の牛、ライオン、猪、鹿など野生動物の棲家と化した。 カウィラ王子はそんなチェンマイの町の再建に取り掛かった。
彼は防備工事や寺院の建立をしたが、完全にミャンマーを町から追い出すまで数十年かかった。チェンマイはその後100年余りの間バンコクの属国となったが、実際の行政権はチャオルアンと呼ばれたチェンマイの王とその王室のメンバーと地元の役人たちの手にあった。

◎川の両側の暮らし

農作業をしている人、魚を取っている人、船で行き来をしている人、それはランナー地域の日常生活の風景である。
土地は豊かで川には魚がいっぱい泳ぐ。平和なときは良い生活が約束されていた。農業は天候に頼るものであった。時には人々はインフラ工事に駆り出されていた。
ランナー式家屋の先方は部分的に屋根のあるポーチになっていて、家全体は虫に食われないようチーク材の太い柱に支えられている。梯子がポーチにかかっていて、壁は竹を平らに伸ばしたものかチーク材の板、窓は上開きやスライド、横開きのものなど。屋根の材料は葉っぱ、草、木片が主流だが、最近は瓦葺の家も増えた。家の下で豚や鶏を飼い、外でバナナやいろいろな果物、野菜などを作る。水は大きな素焼きの水亀に入れられ、照明はガスランプ、蝋燭など。農家の人たちは主にお米を作っているが野菜や果物も小規模で作る。小さな村にも日用品や仏具などを売る小さな雑貨屋がある。井戸が各村にあって、時々水牛が井戸から水をくみ上げるのに利用される。
灌漑用の水車が重要な発明で、川の風景にアクセントをつけている。川に建てられた竹製の水車は水の流れで動き、水車の外側に短い竹筒が土手より高いところに水をくみ上げて田畑につながる放水路に流す仕組みになっている。水車は雨期の満ち潮の前に取り外される。

◎古都での生活ルーム

昔のチェンマイでは人の観察が一つの楽しみであった。扇風機やエアコンのない時代には食べ物を作る人たちや修理屋の人たち、大工さんたちなどがお店の中でも外でも仕事をしていた。道を歩くと活気のある共同社会に入った感じがする。夕暮れ、涼しくなって人々は仕事の手を休まる時にはガスランプが点され、スパイスの入った料理の匂いが空気に漂い始める。この時間帯は一番雰囲気が良いとされている。

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古都での生活の様子の再現。

20世紀の変わり目に町の人間模様に新しい人たちが加わった。人々の教化を目的に教会や病院、学校などを作ろうとして沢山の西洋人がチェンマイを訪れたが、タイムマシンに乗ったマンライ王朝時代の人たちがチェンマイの市場に行ってもそれ程ショックを受けないであろう。売っている食べ物や織物、手工芸品などが昔のままで熟練の職人さんがまだ銀細工やピューター製品、竹細工や木箱などを作っている。織工は北部独特の麻やコットン織物を作っている。チェンマイの人たちはこの地域の民族と同じような服装を着て同じ技術で織物を作っている。
この地域の主な天然染料の一つは藍である。赤の染料は一種の昆虫の排泄物、黄色はウコン、黒はマクルアの葵から取る。
シャン族から伝わってきたと思われる漆細工はランナー地域の伝統工芸品である。舞踊や音楽は伝統文化の重要なもので、北部タイにはハムという儀式的な歌や、ジョイという求愛の歌がある。後者は弦楽器のサローやスン、ピンピア等の伴奏が付く。

タイ語以外を話す山岳民族は正式に6種の部族に分類される。カレン族、モン族、ヤオ族、ラフ族、リス族、アカ族だ。彼らは元々現在のタイ王国の領土外に定住していたが、ランナー朝と周辺地域の度重なる合併併合により、タイの管轄下に住まうことになった。人口は少ないが、同じ境遇の少数民族としてはルー族、カム族、シン族もいる。この地域はいつの時代にも強い文化的アイデンティティと吸収能力で、開拓移民と訪問者を色彩豊かな人種のモザイクの中に溶け込ませる。

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建設中のアカ族の村の様子に、機を織るカレン族の女性。高床式のアカ族は床下で馬やラバ、水牛など大型の家畜を飼っている。二階は前方後方の二区画に分けられていて、前室は男性用の部屋兼応接室、後室は女性用の部屋になっている。機織はカレン族の母から娘に伝えられる伝統で、娘が家族や客のために織った掛け布は家族の誇りとされている。

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脱穀するカレン族。チェンマイはモチ米を主食とする北部インドから南部中国やベトナムにつながる地域に属している。この地域の人たちは指で食べる習慣を持っている。稲作りにおいても精霊の力を借りることになる。タイ語を話す稲作農家は田圃の真ん中に竹で編んだターレオ(鷲野眼)を差し込む習慣を持っている。それが作物を害する悪霊を追い出してくれると信じられているのだ。この地でよく食べられるのは竹筒で炊くカーオ・ラームや、ゴマと椰子糖で蒸すカーオ・ヌック・ンガーなど。米はヌードルの原料としてもつかわれる。


多民族な北部タイ。
展示物はジオラマやレプリカばかりで実際に発掘された価値あるお宝・財宝などは殆ど無いが、サクサクと北タイの歴史や文化を学ぶにはもってこいの博物館かと思います。場所も良いので、チェンマイ探索の前に立ち寄られることをお勧めします。

【チェンマイ市芸術文化センター】

住所:Phrapokkal Rd.
電話:0-5321-7793
URL:http://www.cmocity.com/indexEng.html
営業時間:火曜日~日曜日 08:30-17:00
入場料:90バーツ

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