瀋陽の近代建築遺構巡り

今回の中国東北三省の旅行で見てきた近代建築の多くは、20世紀前半にロシアや日本によって建てられたもの。ロシア建築を中心にヨーロッパの地方都市かのような情緒に溢れるハルビン、満州国の国都として都市計画に基づき建てられた超絶スケールの官庁街・長春など、それぞれの町ごとに開発コンセプトに違いがあるので、今のところ飽きずに楽しめています。
ではではここ瀋陽の近代建築はと言いますと、張作霖ら奉天派の中華軍閥と日本いう二つの勢力が同時に町の開発を進めていったというところに特徴があるそうです。

ということで…
本日はそんな瀋陽に残る日中近代建築の遺構を見て回りたいと思います。

瀋陽駅(旧、奉天駅)

日露戦争後に満州の経営の乗り出すにあたって設立された半官半民の国家企業・南満州鉄道。バカ広い満州の中でも奉天が国造りの最重要都市として相応しいと考えた満鉄は、奉天駅周辺に満鉄最大の鉄道付属地を設定し、市街地の建設を次々に進めていきました。

街づくりの中心として、1910年に竣工となった旧奉天駅。赤レンガ色と白のツートーンカラーが東京駅を彷彿とさせるのは、東京駅をデザインした建築家の学生さんが奉天駅を設計したからだそうです。東京駅が日本の顔だったように、奉天駅も満州の顔となるべく満鉄最大の規模で建設されました。

駅前からは放射状に5本の幹線道路が伸び、それら幹線道路脇に旧奉天郵便局や旧藤田洋行など日本占領期に満鉄により整備された建物が多く残っています。

おっ?通りの先に何か見えてきましたね…手前にある街灯や看板より遥かにデカくて遠近感がバグるのですが…

駅から東に伸びる中山路をまっすぐ歩いていくと、奉天市民の生活の中心だった旧奉天広場に出ます。円形広場の中心に建てられた日露戦争戦勝記念の碑が、ドでかい毛沢東の像に建て替えられていて実に印象的。
この毛沢東像を囲うようにして、旧ヤマトホテル(現、遼寧賓館)、旧横浜正金銀行(現、中国工商銀行)、旧関東軍司令部(現、瀋陽市総工会)、旧朝鮮銀行(現、華夏銀行)など多くの日本の建造物が残っているという構図が瀋陽ならでは面白いです。

旧朝鮮銀行奉天支店、旧関東軍司令部

100年前に建てられたクラシカルな建築群。現代の瀋陽の景観にマッチしているかというと微妙ではありますが、今も元気に華夏銀行・瀋陽市総工会として現役で使われています。

遼寧賓館(旧、奉天ヤマトホテル)

旧奉天ヤマトホテルは遼寧賓館という現役のホテルとして活用されていることもあり、実際に中に入ることもできるし泊まることもできちゃいます。
※2023年10月現在、ctripなどの予約サイトで空室表示されなくなっているようです。

奉天ヤマトホテルは奉天駅に併設されたステーションホテルとして1910年10月1日に開業。ここ奉天広場前の建物は新館として1929年5月10日に営業開始となりました。内外装はアール・デコ調のデザイン、客室は全室浴室付きで、館内にはバーやビリヤード室まで完備した最新かつ最高級ホテルとしてオープンしたそうです。

ロビーの天井や銅のシャンデリアは開館当初のまま今に至るそうです。

すげーなー。ここら一帯の日本人の住居もスチーム式の全館暖房システムや水洗トイレを備えるなど、なんと当時の満州国の都市部は日本国内よりも近代化が進んでいたとか。真っ白なキャンバスに新しい理想郷を築いたる!当時日本から満州に渡った人たちの気概が伝わってくるようです。


ロビー

ロビー中央のグランドピアノは1899年10月3日に作られたスタインウェイのもので、満州国時代を代表するスター女優・山口淑子(李香蘭)のデビューの舞台で伴奏に使われた他、張学良の夫人である趙一萩さんもこのピアノを弾いていたという歴史的遺産だそうです。今でも普通に新品でスタインウェイのピアノを買おうとしたら1,000-2,000万円くらいかかるみたいなので、もうこれは本当にプライスレスなピアノです。

一際華やかな中央宴会場。宴会場の舞台に木製の扉、天井の浮彫、青銅のシャンデリアなどは開業当時のまま使われ続けているそうです。
戦後に中国に接収された後も1948年には周恩来が要人を招いて建国計画を議論したりと、中国建国前後の動乱期にも活躍。ロビーの脇にはこのホテルに滞在したことのあるゲストリストも掲示されてたのですが、毛沢東や周恩来をはじめ、劉少奇、朱徳、張学良、金日成などなどエグすぎる面々の名前が記載されていて、改めて凄い歴史舞台に立っているのだと実感させられました。

山口淑子がデビュー前に荒城の月を歌った舞台も残されていたり、前に泊まった長春の旧ヤマトホテルよりは開業当時の状態が保たれているような印象。瀋陽の宿をここにしなかったことが悔やまれます。

張氏師府博物館

そして近代奉天を語る上で外せないのが張作霖・張学良親子。
張作霖爆殺事件(満洲某重大事件w)という中学生にはインパクトの強すぎる事件名でお馴染みの彼。当時は欲ボケした列強の噛ませ犬くらいの感想しかなかったのですが、実は奉天を拠点に中国東北部を牛耳る軍閥の親玉で、満州王と呼ばれるくらいの大物でした。
そんな彼の官邸兼私邸跡が“張氏師府博物館”として公開されているので行ってみることにします。

博物館前の広場には張作霖の長男である張学良が睨みを利かせています。張作霖じゃないのは大人事情によるものなのでお察しをw

張氏帥府は1914年から1933年の間に建てられた複合建築物。中国伝統建築と欧風建築の技術の粋がふんだんに詰まった芸術作品のような邸宅となっていて、各建物の内部には貴重な文物や美術品、歴史解説の為のジオラマなんかが展示されています。

中国共産党的には張学良推しなので、ここでも展示内容はほぼほぼ張学良とその夫人や弟たちといった感じでした。張学良が偉大なる愛国者であり中華民族の永遠の功臣と大絶賛される中、父の張作霖は元々が馬賊出身という卑しい身分であるは、外国帝国主義に仕えてるは、中国共産党創設の主要メンバーであった李大釗を処刑するはということで、中国共産党様からは完全に干されてしまっている模様。

こちらは大青楼と名付けられた洋館。1922年竣工。高さは37メートルで、当時奉天市で最も高い建物の一つだったそうです。
関東軍所属の暴走族の皆さんって張作霖を劣等民族の欲ボケした馬賊くらいに見下してた節もあるんで、こんな豪奢な建物に住んでていけ好かなかったみたいなとこがあるんじゃないかなと思わずにいられない。

張作霖爆殺事件後、張学良は関東軍からの脅迫に屈することなく満州に一斉に青天白日旗(中華民国の国旗)を掲げ、蔣介石の国民政府に臣従して抗日戦を展開する姿勢を表明。以降、中国国民党の幹部として活躍するようになります。

が…どうも中国国民党が戦うのは中国共産党ばかり…。この状況に業を煮やした張学良は蒋介石に対して中国共産党と停戦して抗日戦を展開するよう訴えて、最後は蒋介石を襲撃して監禁(西安事件)。解放された蒋介石は考えを一変し、日本に抵抗するため国共合作を受け入れ手を取り合いましたよ、と。

因みにこの西安事件の首謀者として張学良は反逆罪で逮捕され、50年以上に渡って台湾での幽閉生活を余儀なくされたそうな。

1991年に釈放された張学良氏。中華人民共和国で余生を送るよう丁重に招請されるも謝絶し、ハワイのホノルル市へと移住。100歳まで隠棲し、2001年に死去されました。

ここら辺の歴史も世界史で学んだつもりだったんですが、理解が薄かったというか。ここに来て世界史の授業で学んだ点と点が線に繋がったような気がしますし、もちろんここのは中国側の目線に立った解説になるんですが、色々と腑に落ちるところが多かった。

瀋陽金融博物館

最後は張氏帥府の入場券とセットになっていた瀋陽金融博物館を見て〆めたいと思います。ここは張氏帥府の隣にある辺業銀行の跡地で、なんとこの銀行も張作霖が設立したものらしい。張さんこれは満州王って呼ばれますわ。敬意を込めて、これからは満州牛耳りおじさんと呼ばせてもらいたい。

中華人民共和国の歴代紙幣などの膨大な金融資料などの展示や、金融システムの発達の歴史に関するなどが並びます。人民元の偽札防止策の進歩の歴史なんかが面白かったです。

土から掘り返されたばかりの燕国時代の硬貨からから大清宝妙、辺業銀行発行紙幣まで。

金運がアップしそうなパワースポットも。

ナイジェリアとかベネズエラとかレア国家の紙くず紙幣まで売られてますw ちな10ナイジェリアナイラは0.093元の価値しかありませんが、ここでは希少価値を乗せまくって50元で売られてました。

貴重な第四版人民元。毛沢東・周恩来・劉少奇・朱徳の中華指導者欲張りセットの100元札。続く第五版からは毛沢東が全札に採用されるようになってしまいました。

商品を見てたら色々と店員のお姉さんが解説してくれて、何か買わないと悪いなと思い北朝鮮紙幣を買っちゃったw 将来的な値上がりに期待w 金日成さんの肖像部分を折り曲げると不敬罪になるらしいので、扱いには要注意ですねw

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