レバノンの地味世界遺産 ウマイヤ朝時代の都市遺跡・アンジャル遺跡

バールベック遺跡での観光を終え、お次はアンジャール遺跡なるウマイヤ朝時代の都市遺跡を見にいくことに。

アンジャール遺跡なんて聞いたこともないし、どうせベイルートに戻る道中に立ち寄るオマケ程度のしょぼしょぼ遺跡っしょ。なんて思って運転手の話を聞いていると、どうやらアンジャール遺跡もバールベックと共にベカー高原に残る代表的な遺跡で、世界遺産にも登録されているらしい。しょぼしょぼ遺跡とかバカにしてすまなんだアンジャール、という懺悔を旨にベカー高原を南下する。

場所はシリアとの国境から3km程のところ。ローマ帝国皇帝直属シリア州時代に栄えたベイルートとダマスカスのちょうど中間地点にあり、バールベックからはレバノン-シリアの国境に沿って南へと走ることになる。

峠を一つ越えれば直ぐシリアという場所だけに、多くの小規模難民キャンプが視界に入り込んでくるのだが、今にも風で吹き飛んでしまいそうなベニヤ板とビニールシートを寄せ集めて作ったような手作り感あふれる仮設小屋ばかり。というのも、レバノン政府は国連難民条約にも加盟しておらず、公的には国連機関が難民の定住キャンプを建設することを認めていないない。故に、これらのシェルターの殆どはレバノンの公的セクターから支給される限られた建材を使って難民が自力で建てたものになるそうだ。
ひだり みぎ
未だにカオスな内戦状態が続くシリア。総人口の1/3にあたる実に560万人もの人が国外での難民としての避難生活を余儀なくされていて、人口400万人のレバノンにも100万人もの難民が入り込んでいるそうだ。400万のレバノン人口に対してシリアからの難民が100万人とか…電力や水、教育といった公共サービスが圧迫されるだけでなく、労働市場に低賃金の労働力が供給されることで失業率の悪化に拍車がかかるといった社会問題に繋がっているのだと運転手が嘆く。パレスチナ人難民の流入がレバノン内戦に繋がったという問題も忘れているのか!と難民シェルターが目に入ってから運転手が明らかに不機嫌モードになってしまった。

話題を変えようとしても難民キャンプが視界に入る度に「あぁまたか。ここにもキャンプあそこにもキャンプ…。日本は良いよなあ。海に囲まれて平和だし皆金持ちで…」と運転手の嘆き節が始まって気まずかったので寝たふりを決める。

昼飯はシリアとの国境まで最寄の町で。特に治安が悪いといった感じもなく、ただただ普通の寂れた辺境の町といった感じ。運転手も治安自体はシリアも問題ないと言っていました。問題ないからシリアの人は早くシリアに戻ってくれと言いたかったのかもですが。

ちな、現在のアンジャルの町は1939年からアルメニア人が入居してきて、今では100%アルメニア人の町になっているそうだ。は?アルメニア人?と思ってしまうところだが、1915年のオスマントルコでのアルメニア人虐殺事件で迫害された多くのアルメニア人がレバノンに流入してきたそうで、今でもアラビア語を話さないアルメニア人がレバノン人口の4%を占めるとか。色々と複雑すぎだろレバノン。

ということで、ガイドのおっさんも勿論アルメニア人。

山の裾野にひっそりと残るアンジャール遺跡を案内してもらう…はずだったのだが、予約をしていた12:00になってもガイドが現れず、一人虚しく遺跡を見て周ることに。

アンジャールの町は705年頃にウマイヤ朝のカリフ・ワリード1世により建造された商業都市で、南北385m、東西350mの城壁に囲まれ要塞機能も備わっているのが特徴。地中海とダマスカスとを結ぶ隊商路上の要衝として栄え、600もの数の商店・要塞・宮殿・モスク・浴場などが整然と並ぶ大きな都市だったそうだ。

綺麗な長方形をした城壁の各辺の中央に町への出入り門が設けられていて、幅約20mの道路を十字に走らせることで町が南東・南西・北西・北東の4区画に綺麗に分けられている。アンジャールの町はウマイヤ朝時代に発展したが、町の基礎はそれまで一帯を支配していたローマと後に続くビザンツ時代の物から引き継がれた為、こういったローマ式の十字型の街になったそうだ。


南門から北門へと歩いてみる。



往時はそれなりに活況を呈していたようで、最盛期には中央道路の両側に600もの商店が並んでいたという。


道路が交差する十字路の中心には4本の列柱が各コーナーに設けられている。4本のうちの1本は原型をとどめているのだが、中々の規模である。


南東は大宮殿とモスク、南西は居住区、北東には小宮殿と公衆浴場、北西には小宮殿と居住区という区画構成になっていたそうだ。



アンジャールは王都ダマスカスから40km離れているが、カリフの為の夏の離宮機能もあったため、宮殿跡なんかも残っている。

ひだり みぎ
色違いの石を交互に積み重ねてるあたりがイスラム様式なのか?とも思ったが、煉瓦と切り石を交互に積み重ねるのはお洒落目的ではなく地震の衝撃を和らげる為の知恵によるものだそう。


こちらはモスク跡だったかな。戦略的な立地条件にあり商人が集まり一時期は賑わいをみせたアンジャールだが、他王朝との戦いに巻き込まれた為、僅か15年程しか使われなかったそうな。

うーん。面積こそ広いが、発掘・復元が進んでいるのは主に東側の2ブロックのみで、見るべき範囲自体は非常に狭い。ダマスカスやアレッポといったシリア内の古都が破壊されつくしてしまった今、ウマイヤ朝時代の遺跡ということで考古学的な価値は高いのだろうけど…。見所は極めて少ないので30分もあれば見て周れるくらいのもんですので、わざわざ立ち寄ることもないかもしれないっすね。

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