広州文化公園に見た阿Q像

朝起きて珠江沿いを散歩していると、右手に大規模な公園が現れた。名を「広州文化公園」と言い、「文明的市民になろう。文明都市を築こう」と市民に呼びかけている。

ひだり みぎ
中国人の朝は早く、園内では既に老人や家族連れが社交ダンスやピクニックを楽しんでいる。

小鳥が囀る長閑な公園を歩いていると、何とも苦々しい表情の銅像にでくわした。

世界的文豪として知られる魯迅著の「阿Q正伝」の主人公像らしい。この何とも人間離れした原始人的な表情にはニーチェの反進化論思想、人間から猿への退化が再現されているようだ。

阿Qとは清朝末期の封建的農村に暮らした、名すら与えられぬ日雇い人夫の仮名称で、当時の中国人の国民性、普遍性を表した完全架空のキャラクターである。

彼は金も家もなく、ハゲで不細工な上に無学文盲な人間で、その為に貧村内ヒエラルキーでも最下層に属し、たまに人の手伝いをしては小遣い程度の駄賃をもらうような日暮しの生活をしていた。人々から罵倒され、こき使われ殴り殴られる日々にあったが、プライドや自尊心だけは人一倍。村人たちに罵られ殴られても眼をむいて言い返し、やり返す。そして喧嘩に負けては、「精神勝利法」と呼ばれる独自の思考法を働かせて結果を都合の良いようにすげ替えて、心の中では自分の勝ちなんだと言い聞かせることで心理的満足、空想の優越感を得るという、何とも痛い性格の主人公なのである。


罵倒する人々を背に敗走する阿Qの像。

そんな彼はある時、村の有力家である趙家の女中に『俺と寝よう!!』と何ともストレートな表現で求愛をしたことがきっかけで趙家の主の怒りを買い、村民からも干される羽目に。当然ながら日雇い労働の仕事依頼も入らなくなり、逃亡同然の形で村から離れることになる。 その後、城内で金を貯めて村に戻った阿Qは金の力でチヤホヤされるが、阿Qが場内で泥棒に加担した事実が明るみになると、またも求心力を失うようになる。その後、革命の余波が阿Qの村まで及ぶ。阿Qは革命になっても失うものは何もなく、世が変わればあわよくば趙家をやりくるめられるとでも思ったのか、革命機運に便乗して革命の目的すら理解せずに革命革命と騒ぎたてる。が、革命派の趙家略奪を首謀したとの濡れ衣を着させられ、『一罰百戒』的な意味合いで群衆の見守る中、銃刑に処されてしまい、物語が終了する。

作者である魯迅は1904年から1909年までを日本で過ごしている。仙台医学専門学校留学時代の授業で見た戦争報道のスライドショーで、ロシア軍のスパイ容疑で処刑される中国人の様子を喝采して見物する同胞の姿を見て痛く失望したそうな。そして、中国社会が抱える病根への処方箋は医学的治療ではなく、文学による民衆精神の改造だと考え、風刺作家としての文筆活動、啓蒙活動に従事するようになった。祖国への愛ゆえに

一見ユーモラスな語調で書かれた阿Q正伝にも中国人同胞の民族的意識の覚醒を促す為の叱咤のメッセージが込められており、物語の細部まで読み入れば読み入るほど阿Qの一身に描かれた中国人の国民性の暗黒面の要素を見出すことができる。

◎例1
「ただ他人とけんかをしたときに目をむいて、こう言った。『昔はオマエなんかよりずっと偉かったんだ!』」
いわゆる精神勝利法であるが、敗北する時には捨て台詞を吐いて勝った気になるという空虚な自尊心の満たし方だ。これは当時の一般庶民の骨髄にまで浸みこんだ中華思想を、自己欺瞞と虚偽として暗に批判しているのではなかろうか。中国人はまともに物事を正視する事が出来ず、欺瞞と詐欺を用いて逃げ道をつくりながら自分でまともな道だと思っている。実際、中華思想が蔓延るが為に一般民衆は西洋列強の先進性に対する自分たちの後進性に対して正視しようとしなかったが為に高い代償を支払うことになった。

◎例2
「最大の悩みの種は頭に数か所、いつからともなく瘡の痕が禿になっていることである。これだって自分の肉体の一部には違いないが、こればかりはさすがの阿Q自身も自慢にはならぬらしく、ハゲという言葉及び発音がそれに近い一切の言葉を嫌った。その範囲がだんだんと広がり、後に光るも禁句、明るいも禁句になった。もっと後になるとランプまでも禁句となった。その禁を犯すものがあると、故意であろうとなかろうが、阿Qは禿まで真っ赤にして怒り出す。」
自分の欠点を指摘されたり弱みに付け込まれると冷静さを失って不必要なまでに好戦的になる中国人の国民性が描かれている。例え自分の欠点を指摘されてもそれを認めず気持ちを荒げ、更に明確に指摘されて認めざるを得ない時には、必ずといっていいほど言い訳をして自己弁護を図る。このような屈折した物の考え方を批判しているように思われる。

◎例3

「造反だ~造反だ~」と叫びだす阿Q。

「一種の意見を持っていた。革命党は謀反人だ、謀反人は俺はいやだ、悪にくむべき者だ、断絶すべき者だと一途にこう思っていた。ところが ~(略)~ 『革命も好よかろう』と阿Qは想った。 『ここらにいる馬鹿野郎どもの運命を改めてやれ。恨むべき奴等だ。憎むべき奴等だ……そうだ、俺も革命党に入ってやろう』」
阿Qは始め、革命党に対してはうっすらとした反対意見をもっていた。しかし、自分が虐げられている現状を振り返り、阿Qは次第に「革命も良かろう」と思うようになり、ただ単に現状よりは良くなるだろうという浅はかな思いで辛亥革命の大義名分や目的も理解せずに「造反」を叫び出す。当時の貧農の多くは阿Qのように無知盲従で搾取されることに麻痺していて、虐げられていても悔しい気すら湧かず、ひたすら自己満足の精神勝利法を発動させるだけ。そして、革命が起これば世直しが起こると思ったものの、実際何をどう変えるのかという理想も目的も無く周りに流されて革命に乗っかった程度の考えでした。この国民の奴隷根性を改めなければ、いくら革命を繰り返しても根本的解決にならないという魯迅の思いが伝わってきます。現代の反日運動の参加者たちも、目的や背景も理解せず、ただ単にお祭り的ムードに乗せられているだけなのではないだろうか。

◎例4

女尼を罵倒する阿Qと、それを冷ややかに見守る群衆。

「向こうから来たのは、靜修庵の若い女尼であった。阿Qは普段から彼女を見ると悪態をつくのだ。~(略)~『今日は何故こんなに運が悪いかと思ったら、てめえを見たからだ。』と罵り、故意に彼女に聞こえるよう唾を吐いた。」
無知蒙昧な阿Qが唯一勝てる相手である女尼に対しては強く出る。当地の人間の一種の習慣なのだろうが、相手の立場ごとに自分の取る態度を露骨なまでに変化させる。自分より上と見積もった相手にはへつらうし、自分より下の奴らには見下した態度を取る。いつもは機嫌取りに徹する当社の運転手がオフィスの守衛やらレストランのウェイターにやたらと高圧的な態度を取るのもこの例に当てはまる。

他にも魯迅作品に関しての銅像も建てられている。

魯迅著「祝福」の主人公・祥林嫂が誘拐されるシーン。

浙江省の貧村の家に嫁いだが、半年後に夫と死別。若くして未亡人となった幸薄な祥は、婚家にこき使われた末に山奥の辺地へ逃亡。辺境の地にて下働きとして雇われていたが、元の嫁ぎ先に連れ戻され、花嫁として山奥に売り飛ばされてしまう。第二の夫との間に子をもうけるも、2番目の夫もチフスが原因で他界し、子も狼に食べられるという悲惨な運命を辿ることになる。最後はハッピーエンディング??とならないのが魯迅作品の辛辣なところだ。その後、贖罪のために全財産を投げ打って社に廟に入口の敷居を寄進したりするも、「不吉女」として周囲から冷遇を受け、最後は乞食に身を落とし、人々が喜びに湧く旧正月の雪の夜、ただ一人力尽き息絶えるという何とも悲惨なストーリーだ。

広州文化公園が何故に魯迅を推しているのかは分からないが、以前に呼んだ魯迅作品短編集の記憶が蘇ってきた。公園内に他に見どころは無く、歩いてすぐ側の沙面島を目指す。沙面は清朝時代に英仏の租界があった所で、現在ででも当時の西欧風建物が建ち並ぶオシャレスポットとのことだ。

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