アヘン戦争博物館・海戦博物館

今日は中国の広東省東莞市の虎門鎮に関して。ここは清国と大英帝国によるアヘン戦争の舞台となった場所で、中国人旅行者の間でもアヘン戦争に因んだ観光スポット(=愛国主義教育基地)が多数あることで有名です。

時は18世紀後半、清朝は半ば鎖国状態とも言える程の貿易制限策を取っており、欧米諸国との交易は広東省の広州一港に限定、更に清朝政府の許可を得た特権商人としか取引できない体制を敷いておりました。当時の英国は中国から中国茶・陶磁器・絹を輸入していましたが、その反面、中国への輸出が殆ど無いことから輸入超過となり、当時の国際貿易の決済に使用されていた銀が英国から大流出、大きな通商摩擦が重商主義の英国内で問題視されるようになりました。

更に北米に目を向けるとアメリカ独立運動の機運が高まっていたことから北米対策への負担も増え、台所事情が苦しくなります。こういった状況で先ずは“開国”を求めて清政府に使者を派遣。しかしそこは中華思想どっぷりの当時の清朝、英国からの派遣団に対して『三跪九叩頭の礼(3回跪いて、頭を9回床につけて礼を見せる)』を要求するなどして話が噛み合いません。従来の中国の歴代王朝と周辺諸国との関係では中国王朝が上位に立ち、相手を服属させる関係を結ぶ一方で、内政の干渉はしませんよという攘夷関係を採っていましたが、誇り高き英国人にはこの考えは通用しませんでした。

そこで英国紳士は考えた。当時のインドで生産したアヘン(麻薬)を売ってみようと。アヘンを清朝に輸出し、そのインドには英国製の綿織物を輸出。そこで得た代金で英国が清朝からの諸物品を輸出する、いわゆる三角貿易の開始である。
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英国にとってはこの策が功を奏し、清朝ではアヘンが空前の大ブーム(?)になります。1838年には清朝の年間歳入の3分の1以上の額のアヘンを輸入するほどまでになってしまった。清朝政府は国家財政破綻の危機を感じてアヘンを禁止、その取締役大臣に林則徐を採用します。

林さんは断固たる決意を持って欧米諸国のアヘンを押収。虎門に造った二つの巨大な人工池にてアヘンを石炭と一緒に投入することで化学変化を起こさせて処分したという。この清朝の対応に対して英国では清国への出兵が議会で可決され、1840年のアヘン戦争へと発展します。

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後に英国自由党首相の座に上り詰めるウィリアム・グラッドストーンは議会で『大義無き戦争は英国末代までの恥となる!』と出兵反対を強く訴えますが、出兵賛成271票に対し反対が262票と僅差で出兵が決議されてしまいます。

前置きが長くなりましたが、虎門に林さんがアヘンを投げ捨てた人工池跡が残されてます。
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この敷地内には人工池の他、林則除記念館・アヘン戦争博物館も入っていて、『全国重点文物保護単位』『国防教育基地』『全国禁毒教育基地』『全国愛国主義教育示範基地』『AAAA級観光景区』を兼ねているという、何だかおどろおどろしい場所のようだ。

敷地の中央にどっしりと鎮座しているのが林さん。
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列強にたいして気後れしない林さんの民族的気概と、母国・国民の為に立ち会がった愛国主義的精神は現代の愛国主義教育の中でも大々的に取り扱われている為、若い世代の中国人なら誰しもが知っている程の有名人物です。

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文字通り命を賭けて国防に貢献した愛国者たちのレリーフ。中国でも軍人はやっぱりゲートルを巻いたりしてたんですね。筋骨隆々とした屈強な男どもから成る精鋭部隊も動員されましたが、結果は近代装備を配した英国の圧勝に終わりました。。

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開戦前には珠江河口に砲台11基、大砲300発を設置、60隻のジャンク船に漁民や農民から成る民兵も組織しました。アヘン戦争時もほぼ国民皆兵体制だったのでしょう。

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玩具の大砲を使った的当てゲームなんかも楽しめたりします。

博物館は敷地の一番奥にあります。
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愛国主義教育基地でもあるこの施設には多くの人が訪れていました。

先ずはアヘンの紹介。
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アヘンの流入は貿易赤字を引き起こしただけでなく、清国内のアヘン吸引の悪弊によって国民の健康が著しく害され、社会の風紀退廃や軍兵のモチベーション低下にも繋がり、清朝内でアヘン厳禁派が台頭、アヘン取締りの動きが加速します。

アヘンを池に処分する愛国者たちの画(右)に実際の池(左)
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1月間かけて1,500トンものアヘンを廃棄。化学反応による煙がもくもくと立ち込めていたことから、当初は焼却処分をしていると思われていたそうです。

続いて獅子洋にかかる虎門大橋のすぐ横にある海戦博物館へ移動。
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夏真っただ中で観光シーズンのはずであるが、海岸沿いは手入れがされておらず非常に汚い。

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虎門大橋は全長15.6km。まさにここがアヘン戦争の舞台でした。開戦が避けられないと悟った林さんは沿岸防備を固めます。

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広州に入る前に珠江の入り口である虎門で英国艦隊を迎え撃つ作戦でしたが、相手の大砲とは射程差が大きかったので清朝の射程外から攻撃を受けてしまう。世界の中心を自負していた中国の防衛体制はいとも簡単に瓦解してしまいます。今の中国の海防意識の強さはこの時の苦い経験から来ているのでしょう。

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海戦戦略も欧米諸国のそれと比べて非常に単純幼稚であったとされています。中華思想にかまけて他国侵略に対して十分な対策を取っていなかったことから清朝の防衛体制・軍事態勢は余りに脆弱でした。陣頭指揮を取れるような優秀な人材にも乏しかった為、軍の統制すらままならなかったとか。

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敵軍の上陸を許し、あっさり広州を包囲される。その後アモイ・上海までも北上され、首都である南京に迫られた時点で清朝が屈服。不平等条約が調印されてアヘン戦争が終結した。条約の内容は①香港の割譲、②賠償金支払い、③広州、アモイ、福州、寧波、上海の五港の開港に自由貿易の承認などで、この不平等条約から列強諸国の清朝に対する植民地化が開始され、中国は“国恥”と呼ばれ、中国人が東亜の病人と形容されるこ屈辱の時代に突入することになります。日本国内ではアヘン戦争で隣国が完膚なきまでに叩きのめされたことから開国派が台頭し、明治維新へとつながっていきます。

この博物館は愛国主義教育基地としての機能の他に、青少年禁毒教育的重要施設の役割も兼ねています。同じ過ちを繰り返さない為にも麻薬なんかに手を出したらダメなんだ!

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男の表情と握りしめた拳から強い決意が伝わってきます。

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こうなったらダメだぞ!

アヘン戦争後の“国恥”とも形容される時代は愛国主義教育の主要プログラムの一つです。如何に中国が騙し虐げられ、多くの志ある有能な民が命を捧げて母国を守ろうとしたか。この国恥は共産党が帝国主義の象徴であった当時の日本軍支配から解放して“新中国”を打ち立てた。そして世界に蔓延していた当時の強権主義・覇権主義に異を唱えたんだということが強調されています。ここら辺が共産党の反日教育により国民の不満の目を逸らされていると言われる所以です。

それにしてもかつて覇権主義に反対した国が今や率先して…おっと、ここら辺でこの話は止めておくことにしましょう。

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コメント

  1. 旅行好きサラリーマン

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    >masahiro020さん
    流石の好奇心です!アヘン戦争は現在の中国史、近代世界史を語る上でも非常に重要なイベントだと個人的には思っていますので、確かに行く価値は大いにありです!金南駅からは確かに直線距離にしたら近いですが、虎門大橋を通らないといけないので金南駅からタクることになるかと思います。市内から金南駅まで地下鉄で1時間強、金南駅から博物館までタクシーで約30分強程度かと。バスならば広州のバスターミナルから定期的に虎門バスターミナルまで出ています。40元ちょい、これもやはり1時間半程度の時間がかかってしまいます。私がフルアテンド出来ればよいのですが。。。

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