今日は中国近代革命の先駆者と中国内外から仰がれる孫中山(=孫文)の故居を訪問してきました。
1911年の辛亥革命の結果、中国で300年続いた満州族の王朝である清朝が滅び、中華民国が成立。その辛亥革命を指導し、中華民国の初代臨時大統領に就任したのが孫文であります。
孫文は1866年11月12日広東省の香山県翠亨村の中農の5番目の子として生まれました。彼の生家は現在の中山市中心街からバスで1時間強のところにあります。
市内からは12番のバスで向かうことができます。内装はボロッちいですが、エアコンは一応完備している。
大都市のバスと異なるのは、『有人售票(チケット売りがいますよ)』ということ。チケット売りというか代金回収のあばさんがバス車内の同乗しています。乗車してからおばさんに行先を告げて、距離に応じた料金を払う仕組みです。市内から孫文故居までは5.5元(≒70円)。おばさんの能力は非常に高く、どんなに社内が混雑してようと乗車客全てから料金を徴収して回ります。
また、下車する場合はSTOPボタンが無いので、声を張り上げて『下一站有下(次降りますよ!)』と叫ばないとスルーされてしまうので要注意。バス停名が分かっている場合は『○○站有下(○○駅で降りますよ!』でも可。中国語が出来ない場合は代金回収のおばさんか運転手に次降りますよ!的なジェスチャーをすれば止まってくれます。
『孫中山故居站有下!』声を張り上げて無事に下りる事ができました。
バスを下車すると早速見えてくるのは『公為下天』の文字。マカオの孫中山記念館にもありましたこの文字、簡単に言えば『天下は公の為にあり!』との意味で、孫中山先生の三民主義の考えを顕現しています。
『→チケット売り場』との文字が見えますが、何でもお金を取る中国には珍しく、入場料は無料です。
右手から回って入場、 入場して並木通りを抜けていった先に見えるのは孫中山記念館です。(故居はそのお隣)
何やら騒がしいと思ったら…
それもそのはず、あたり一面を覆うように人・人・人!!!。どっかしらからのツアー大群が大挙して押し寄せています。孫中山先生の集客力に改めて最敬礼!
見学はお静かにとの看板もあるだけ虚しく、全くもって意味を成しません。中はホールなので、普段から大きい彼らの声が余計に響いて煩く感じてしまいます。
これだけ賑わっているのに記念品屋さんでは閑古鳥が鳴いています。
さて、怒涛の人と雑音にまみれながら記念館を回っていきます。先ずは孫文のご両親様とご対面。
孫文はアヘン戦争以後、列強諸国に蹂躙され、国民を犠牲にして延命を図る清朝政府の統治期の1866年に産声をあげます。父の孫観林は16歳で靴職人としてマカオへ出稼ぎに行き、32歳で帰郷した後に楊氏(名は不詳)と結婚した。
清朝は1839年から始まったアヘン戦争に大敗し、1950年には太平天国の乱で内乱が発生。当時の清朝は極東の病人とも形容されるほどに息も絶え絶え状態の死に体で、孫文は祖国の無力さを目の当たりにしながら育っていきます。
知識欲の豊富な少年だったそうです。9歳の時には村の私塾に通い始め、『三字経』や『千字分』を学習します。
孫文が通っていた塾があった寺院の外観写真と実際に使用された教本。孫文は生涯に渡って大変な読書家だったそうです。
こちらは孫文の妹に当時の伝統であった纏足を強制する母親に抵抗する孫文の画。幼少時代から清朝の伝統に疑問を呈すような革命家の精神が芽生えていたのか!と思ったら自分はちゃっかり辮髪姿でした。
孫眉さん
孫文の実兄。彼は18歳の時にハワイに渡り米作や酒造の事業で成功します。1878年、孫文が12歳の時に孫文は兄を頼って渡米し、西洋思想に触れることとなります。ハワイの高校を準主席の成績で卒業するとそのまま現地のカレッジに進学したが、キリスト教に傾斜する孫文に頑固な中華思想の持ち主であった兄が危惧を感じ、帰国させてしまいます。その後、広州のキリスト教系医学校に入学し、翌年には香港大学医学部の前身である香港西医書院に進学、5年間の医学教育を受ける。この頃、清仏戦争で清朝の非力と屈辱的外交姿勢が露呈。官吏は腐敗、指導者は私欲に走って、国の進むべき報告が一向に定まらない清朝を危惧し、革命を志すようになる。『打倒清朝。漢民族による新国家の樹立を図るべし。さもなければ今後、生き延びることはできない。』と公言し、反清復漢の同志を増やしていく。
『鉄橋の言いなりになる政府を打倒し、中華の威信を回復せねばならぬ。』ハワイなどで集めた軍事資金で清国軍の一部や農民たちの組織を影響下に入れて広東や福建に地盤を築いていった。1895年には広州武装蜂起を起こすも失敗。多くの同志は処刑され、首謀者であった孫文も時の人となり、清朝に1000元の賞金付きで指名手配されて祖国に足を踏み入れる事ができなくなり、外国への亡命を余儀なくされるも、海外から打倒清朝の活動を続けます。
清朝のお尋ね者となってしった孫文は、ロンドンで清国公使館に監禁されてしまう。あわや本国に送還されようとする間際、香港時代の恩師のジェームスカントリー氏が奔走してくれて釈放された。
その後もロンドンに滞在した9ヵ月間で大英図書館に入りびたり、ひたすら欧州の政経、歴史、法律体制に関しての猛勉に励み、孫文は次第に自らの革命理論を三民主義、五権憲法という体系に発展させていった。当時の大英図書館ではレーニンやガンジーも勉強に励んでいたそうです。日本の南方熊楠にも大英博物館の東洋図書館責任者に引きあわされている。
◎釈放後にイギリス政府・新聞界に宛てた書簡
貴紙の四面をお借りして、中国公使館からの開放をもたらしたイギリス政府に対する私の熱烈な感謝を表明頂けないでしょうか。また、新聞各紙の時宜を得た助力と同情にも感謝せねばなりません。イギリスに浸透する寛大な公共精神と、その人民の特質である正義への愛情を確信しました。律法政体と開明的人民が意味するところを今まで以上に切実に理解・感得し、我が愛する抑圧下の祖国において、進歩や教育や文明といった理念を追求するよう、より積極的に邁進して参る。
これは孫文の五権憲法論。
モンテスキューの3権(司法・立法・行政)に加えて、中国特有の『考試権』と『監察権』を加えている。考試権は漢代以来続いた官吏登用の手段としての科挙を引き継ぐもの。監察権は官吏の監督機関。政府を機能させる為の人材を確保するには、官吏の不正腐敗を予防し、摘発する為にも他から独立した公的な官吏と要制度と組織が必要であると考えた。中国の腐敗政体制を見て来た孫文らしい考え。
三民主義は民族主義・民権主義・民生主義からなる思想です。
16年間に11回もの失敗を重ねたものの、1911年、武昌での武装蜂起後にようやく長江以南の地域全体を支配下に置く事に成功。翌1912年1月1日に南金にて孫文が中華民国の成立を宣言しました。
そんな近代革命の先駆者の孫文、さぞかしストイックな人間なのかと思いきや、かなりお盛んな女性遍歴があったようだ。 (隣にいたおっさんがガラスに反射して写ってしまっています。心霊写真ではありません)
先ずは19歳の時に同じく広東省出身の盧慕貞さんと結婚をする。
その後、広東に正妻を置きながら、日本では大月さんという日本人女性と結婚、神戸にも愛人がいたそうだ。更に晩年には『彼女と結婚できるなら式の翌日に死んでも悔いはない』と27歳下の宋さんに求婚、文書で広東省にいる正妻との離婚手続きを踏んだ上で再婚したらしい。
記念館はこんな感じでした。1階では孫文の生涯の流れが時系列で紹介され、2階では孫文に縁のある人や孫文の政治理論などの紹介がされています。
この故居は孫眉氏の資金で孫文が設計をしたそうです。建物の中はあいにく写真撮影禁止でしたが、西洋風の外観とは異なり伝統的な感じの質素な中国式デザインでした。その他、当時の富豪層や豆腐屋、中山市が生んだ他の偉人の住宅モデルも公開されていました。
故居敷地内も人でごった返していています。超至近距離に他人がいても大声で話す中国人にこれだけ包囲されては落ち着いて見学など出来ません。
工芸館にはそれも孫文と縁もゆかりも無いような物ばかり売られていました。
敷地内は緑も多く、たくさんの家族がピクニック気分で寛いでいました。
『入場料無料』ほど中国の観光客をひきつける殺し文句はありません!
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