歴史的に見て海事が非常に重要な役割を果たしてきたマカオ。海事博物館では歴史的な物品レプリカやジオラマが多く用いられ、海事事情を切り口としたマカオ史が時系列で学べます。
●海事博物館
・開放時間: 10:00~17:00
・料金: 10パタカ。日曜日は5パタカ。
近くには鄭家屋敷や媽閣廟などの観光地もあります。
ポルトガル人が初めてマカオに上陸した地点とされる博物館前の広場には、天安門事件の悲話などを掲げて民主化運動を呼びかける掲示板が。6月4日にデモが開かれるようです。
中に入ると先ず媽閣廟に関しての映像が。
マカオという地名は媽閣廟(A-Ma-Kau)に由来すると言われています。
意外に超アナログで、音声は席の隣に設置している受話器を耳に当てて聞くことになります。
言語は英語・ポルトガル語・中国語・広東語から選択可。
この厳めしいお方は鄭和。中国の海事の歴史を語る上では外すことのできない人物です。
1405年~1433年の当時の明朝からの国威発揚の命を受けて計7度の大航海に出向し、東南アジア・インド、メッカ、アフリカのマリンディ(現ケニア!)に達した。アフリカからはキリンやヒョウ、ダチョウなどを持ち帰り、皇帝に献上したそうです。 キリンは伝説上の聖獣“麒麟”に違いない!!ということで麒麟と命名されました。
大航海の目的は、明朝の勢威を対外に見せつけて、世界中で朝貢貿易を促せ!との大任を受けて出港。当時の船隊の主力は長さ125メートル、幅50メートルで積載量8000トンの宝船と呼ばれる超巨大船で、船団は62隻、総乗組員は2万7800だったと記録されている。鄭和の大航海から約100年後の1498年に喜望峰を回ったヴァスコ・ダ・ガマの旗艦が120トン、コロンブスのサンタマリア号も80トンなので、当時の中国の造船技術と規模がいかに規格外に発達していたのかが伺いしれる。数字を盛ってるんじゃないの?と疑いたくなるようなレベルだ。
当時の船。宝船と呼ばれるように、船内には仰山の財宝を積み込んでいる。
宝石類は立ち寄った港でその地の支配勢力に対しての儀式やお供えに使用された。
以後、航海技術の発達や新航路の発見によって、香料貿易業が発展していく。
胡椒・生姜などが主な商品。いち早く東洋の香料貿易の航路を確立したポルトガルが大航海時代をリードすることになる。
時は進み、これは17世紀のマカオ。
この頃から中国の生糸と日本の銀の交易などの東方貿易で栄え始め、経済上・戦略上の拠点としてオランダが何度もマカオ侵略を企てます。先に訪問したギアの砲台/灯台や、後に訪問するモンテの砲台は、対オランダ軍用の要塞の一部として設置されました。
灯台の横には教会が。ポルトガルの進出により、ヨーロッパの風習が一気に流入し始めます。
ポルトガルの黒船です。1618年までゴア-マラッカ-マカオ-日本間を渡る商業船として活躍。黒船つながりで、ペリーさんが浦賀に到着したのは1853年のこと。
これはアダマストール号の船首像
昔の乗組員たちがボロく脆い船で大海原への航海に乗り出す際に感じた恐怖や危険、困難を象徴している。この迫真の表情からは当時の船乗り冒険家の恐怖心などの心境が良く伝わってきます!
大暴れするアダマストール号の船首!(のイメージ)
この恐怖心に打ち勝ったポルトガル人は、大航海時代の主役とります。
そしてマカオの歴史に日本人の登場です。
1543年にポルトガル人が種子島に漂着したのが最初のコンタクトでした。ポルトガル人はライフルの射撃法や製造法を教えます。俗にいう鉄砲伝来です。この出来事が後に日本史の運命を大きく左右することになることは言うまでもありません。
その後、マカオは日本-中国-インドの貿易中継点としての繁栄を見せることになります。南蛮貿易の始まりです。中国ではインドの香辛料と日本の銀の需要が高まり、日本では中国シルクがバカ売れ。マカオ商人たちは間に入って利鞘を稼ぎます。
また、キリスト教や西洋医学もマカオ経由で伝播してきます。
時は清国時代へ。大航海時代前は世界の中心とも形容できるような国力を保持していましたが、清国時代は列強諸国に辛酸を舐めさせられることとなります。
これはアヘンの吸引器。アヘンの流入過多により国民の士気とモラルが低下、貿易上も英国に対して不利が続いて窮地に立たされることに。
大体こんな感じで時系列になっています。他にも当時の漁民生活や文化紹介などもあり、内容は非常に充実。船とか興味ねーよーと言う方でもマカオの歴史に触れることができて楽しめるかと思います。
コメント
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お~!
船とか…海ものって大好きなのでかなり気になります~
紀伊半島に行った時、「熊野水軍(海賊)の昔の基地」的なところがあって、かなりワクワクしました♪