鴨緑江の遊覧船ツアーで北朝鮮の農村生活をウォッチング

鴨緑江の遊覧船ツアーに参加してきます。
河口断橋というアメリカ空軍に爆撃された橋のたもとから出航し、日本統治下で建てられたという前時代的な工場や女子刑務所といった建造物を見て回るというツアー内容のようです。

河口断橋

出航地点となるのは、丹東市寛甸県河口村に残る河口断橋。
鴨緑江で中朝両岸を結ぶ最初の道路橋として日本の統治下で建てられましたが、朝鮮戦争中の1951年に米軍機が爆破。以来、橋の中間部の200mほどが破壊されたままの状態で放置されているそうです。

ほんの70年前まで戦地だった鴨緑江。この荒涼とした河畔の風景を包む圧倒的静寂が実に不気味というか。得体の知れない北朝鮮の国家像への恐怖心、歴史・大自然への畏怖といったものが混じりあった感情に押し潰されそうになりました。

全長709.12m、幅6m、高さ25m、橋脚22基という鉄筋コンクリートの道路橋。竣工時は清城大橋と呼ばれ、鉄道が走らない道路橋としては当時の中国でも最大規模の橋だったそうです。米軍により破壊されるまでは朝鮮戦争で中国が北朝鮮を支援する上で極めて重要な役割を果たし、この橋から無数の中国人民志援軍が北朝鮮側の前線へと出兵していきました。
川辺に座り目を瞑ると、当時の様子が脳裏に浮かんでくるようです。

北朝鮮側の橋のたもとにはうらびれた平屋数軒が集落を成していて、19世紀の絵画の題材になりそうな農村風景といった感じ。
辺境の地の農漁村なんて、北朝鮮内の行政ヒエラルキーの中の最下層といってもいいくらいなんですかね。家屋の煙突から煙が出ているので実際に人が住んでいるようですが、20世紀の家屋としてはとてもお粗末な作りです。

毛岸英学校

河口断橋から出兵した志願兵の中には毛沢東の長男・毛岸英も含まれていました。彼はロシア語の通訳者として参戦しましたが、戦地で卵チャーハンを作っていたところ米軍の爆撃に遭い戦死。中国に戻ってくることはできませんでした。
橋のたもとには毛岸英学校が建てられており、敷地内には彼の胸像が設置されています。

遊覧船

そうこうしている内に遊覧船の参加者が規定の人数に達したようで、いよいよ出航となりました。

雨が降ったら湧いて出てくる傘売りが如く、何処からともなく現れる望遠鏡レンタルおじさん。
「右手に刑務所が見えますよー。女兵もいるよー。あっ、牛車もいる!!ここ望遠鏡必須!!望遠鏡ぅぅ!!」って航路上の見所を教えてくれるので助かります。

そんなこんなで出航。万里の長城からの遠景だと北朝鮮の大地には緑一色の絨毯が敷かれたような感じでしたが、近くから見るとポツポツと平屋の集落が点在しているのが分かります。

そして、ところどころ哨所も。

寒村に接近。まるで朝鮮戦争の頃からここだけ時間が停まってしまったかのような、掘っ立て小屋に近いような侘しい作りの木造家屋が並んでいます。貧しい国の人たちが暮らす様子をわざわざ覗きにいくなんて悪趣味で決して褒められたことではありませんが、それでもやっぱり好奇心が勝ってしまう。

記念すべき村人とのファーストコンタクトは協同農場員的な農夫集団。荷台に5-6人の男を載せたブリキの玩具ばりにレトロなピックアップトラックが超低速で走っていました。あまり煙は出ていませんでしたが、釜のようなものが積まれているので木炭車だったかもしれません。完全に新聞で読んだ戦前の世界。

困窮に喘ぐ人々の生活の様子を高みの見物するようで趣味が悪いのですが、井戸で水を汲む女性や、牛車で移動する初老男性、丸太?を背負い込み歩く若者、川の水面の一点を見つめ微動だにしない歩哨など、うら寂しい農村で日常生活を営む北朝鮮民の姿が確認できる度、遊覧船では歓喜の声が上がっていました。

中国の人たちは対岸を見つめ何を思うのか。

丹東市内で対岸に建てられた無機質な建造物を見て回る遊覧ツアーも悪くはありませんが、河口断橋の遊覧船ツアーの方が北朝鮮の田舎ライフが垣間見えて個人的には楽しめたかな。

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