サラエボのトンネル博物館と子ども戦争博物館で涙腺崩壊

-9℃としびれる寒さに思わず起床。
サラエボ2日目は朝一でトンネル博物館に行き、昼からは半日ツアーでサラエボ郊外へ。夕方に戻ってきてから子ども戦争博物館を見学という流れで動こうと思います。

トンネル博物館

トンネル博物館へはタクシーで移動。すると道中、サラエボのアイコニック的存在のHotel Holiday (旧Holiday Inn)の姿が視界に入りました。

1980年代末に始まった社会主義陣営の崩壊の波は1990年代にはユーゴスラビアにも押し寄せ、ユーゴスラビアから各民族が独立を求めて動き出します。まずはスロベニア、次にクロアチアが独立。その流れに乗ってボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言してみたところ、実質的にユーゴスラビアを支配していたセルビアが激おこ。ユーゴスラビア連邦軍を動員してあっという間にサラエボの町を包囲してしまいます。

結局、セルビアによるサラエボ包囲は1992年から4年にも渡り継続。逃げ場を失ったサラエボ市民に対して雨あられとばかりに砲弾が降り注ぐ地獄のような状況が続きました。物資も足りなければ外を歩くだけで命を狙われる。そんな惨状にあっても海外のジャーナリストの拠点としてサラエボ市内で唯一営業を続けたホテルがHoliday Hotel。このホテルからボスニアヘルツェゴビナ紛争の悲劇が世界各国に向け報道されていきました。

↑はトンネル博物館に掲示されていた写真ですが、ホテル前の大通りが焦土と化してます。
今でこそ復興を遂げ何の変哲もないごく普通の大通りですが、内戦当時はスナイパー通りと呼ばれ、少しでも動こうものなら狙撃されるというサラエボで一番危険な通りだったそうです。

そんな悲劇の舞台を通り抜け20分程タクシーで走ると、空港脇の平野に一軒の廃墟のような民家が見えてきました。この建物こそが、Tunnel of Hope(希望のトンネル)ことトンネル博物館になります。

セルビア勢力による包囲によりライフラインが絶たれて陸の孤島と化したサラエボ。セルビア市民の生活が困窮を極める中なんとか外部とのアクセスを確保しようとして考案されたのが、このトンネルプロジェクトです。
国連軍の管理下にあったサラエボ空港とこの民家の地下室を地下通路で繋ぐことで物資と人の輸送が可能となり、陸の孤島で困窮していた人々の命を繋ぎ留めることができた。まさにサラエボ市民にとっての希望のトンネルであり、文字通り人々の為の生命線でした。

元々は民家だった建物なので規模は小さいながらも、紛争時の悲惨な体験を伝える貴重な歴史遺産として民家の内部も一般開放されています。

当時のサラエボの勢力図。赤い部分はセルビア勢力で、サラエボからしたら完全に四面楚歌。詰んでます。ゲームでも諦めてコントローラーを投げつけリセットボタン叩き押すレベル。

写真コーナーでは、見るのも痛々しいほどの悍ましい地獄絵図が並びます。ここまで徹底的にやらかす鬼畜の諸行っぷりにも目を覆いたくなりますが、何より信じられないのがこの内戦が僅か30年前に起きたという事実です。

こちらはトンネルの位置関係を示すための航空地図。赤線の左側がトンネル博物館で、通りを挟んだ右側がサラエボ空港になります。
国連(United Nations)は空港まで平和維持軍を派遣しながらも何ら有効な手立てを打つことはできず、United Nothing(無力の集まり)だとディスられています。今回のロシア・ウクライナ戦争でも改めて国連の無能ぶりが浮き彫りになってますが、もはや存在自体がギャグ。国連の中の人ですら今の体制で平和維持機関としての機能を果たせると思ってないんじゃないですかね。

当時は800mの長さがあったトンネルのうちの15m程ですが、地下通路の中も見学できるようになっています。

トンネルの中は高さ約1.6メートルで幅約1メートル。工事は24時間、三交代制で進められ、作業員には1日1パックのタバコが支給されたそう。え?タバコ?と思うところですが、戦地では現金よりも現物の方が重宝するし、実際にタバコは需要が高くて物々交換で役立ったそうです。

それにしても、4年に渡って敵軍に包囲された状態で一方的に砲撃を浴び続ける生活がどれほど大変だったのか…。展示内容から当時のサラエボ民の苦痛・苦悩が痛いほど強く伝わってきます。

WAR CHILDHOOD MUSEUM

トンネル博物館の見学を終え、昼間は退役軍人ガイドさんによる戦地巡りの半日ツアーに参加。ツアー解散後は子ども戦争博物館に直行しました。

Last Entryの5分前に滑り込みセーフ。

ここでは、幼少期を理不尽で不条理な戦場で過ごさざるを得なかった方々の「戦争の記憶」が、それぞれの思い出の物と共に展示されています。

手作りの双六ボードや、くたびれた縫いぐるみなど、並んでいるのは世界中どの家庭でも見かけたであろう極々普通のおもちゃだったりするんですが、持ち主の思い出の言葉が添えられることで、リアルな内戦時の情景だったり人々の想いが浮かび上がってくるんです。教科書で歴史的事実を文字で学ぶよりもよっぽど心に響くし、深く考えさせられる。ここは涙腺崩壊注意です。

「現実逃避して、平和へと続くトンネルを抜けて、すべての子供を救いだす、なんて夢を見た」

「あまりにも早く押し付けられた、成長という贈りもの」

「かなしみ、よろこび、希望、空腹、初恋、恐怖、よりよき明日、不安、欲望、祈り、神への信仰!」

「チョコレートの包み紙を集めてた。300枚以上あった。でもひとつも食べたことないの。味を想像していただけ」

「人道支援物資バッグから取り出した石鹸をガブリ。お菓子だと思ったの!」

4年弱に渡るサラエボ包囲。戦時下とはいえ、当然ながらそこには市民一人ひとりの生活があり、苦しい日々の中でも希望を持ち続けようとする子どもたちがいた。この博物館ではサラエボ紛争を生きた子供たちの生の声を通じて、どんな戦場写真や教科書よりもリアルに戦争について学ぶことができます。

War Childhood(ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995)という本は、子ども戦争博物館の館長の著書。この博物館に来るにあたっての必読書です。

ということでサラエボ二日目の観光はこれにて終了。

他にもサラエボでは「人道に対する罪と虐殺に関する博物館」「Gallery 11/07/95」「Ratni muzej – War Museum 1992 Sarajevo」「Siege of Sarajevo Museum」など戦争の悲劇にまつわる博物館が数多くありますし、戦時中の痛々しい傷跡が残された建物がそのまま使われたりもします。戦乱の愚かさ、平和の尊さについて町全体で訴えかけてきて、それこそ町全体が大きな博物館といった具合。ダークツーリズムのメッカっすね。人生で一度は足を運んでおくべき町だと思います。

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