サラエボ 元軍人による戦地巡りツアー

サラエボ観光の二日目は、退役軍人によるサラエボ戦地ツアーというものに参加してきました。

セルビア軍の砲撃台として使われた廃墟施設
1984年サラエボ冬季オリンピックのボブスレー会場(トレベヴィチ山)
戦場となった墓地
イエロー・フォートレス

これらの見所を足早に回る半日のツアーで、ガイドさんはボスニア側の元軍人。戦後、史実の血生臭い部分を教えようとしない腑抜けな国家教育機関に代わってオレが立ち上がってるんだと必死になって英語を勉強したんだと。スタローンを彷彿とさせるガチソルジャーで、血管ブチ切れそうな力の入れ具合で熱弁を振るって下さいました。自分にしかできない仕事を暑苦しいくらいの使命感と情熱をもって取り組んでるお姿は、社蓄教団の一兵卒からするとほんと輝かしく見えました。

市内でピックアップ頂き、トレベヴィチ山を登っていきます。外は凍える寒さですが、バンの中はスタローンの熱気で今にも湯気が立ちそうなくらいのアツさで煮えかえってます。

山の中腹に廃墟発見。このサラエボ市内を一望できる絶景廃墟は元々高級レストランだったのですが、内戦中はセルビア軍のスナイパーにより占拠され、砲撃台として使われたそうです。

今は荒れ放題の廃墟。観光資源として敢えてこのままの姿で放置されているのでしょうが、尿の匂いが充満していたりと、ちょっと一人じゃ来たくないレベルに荒れ果ててます。

ここから盆地の底に広がるサラエボの町に雨嵐の砲撃が加えられていました。因みにこのトレベヴィチ山の一部はボスニアヘルツェゴビナの構成体の一つでありセルビア人を主体とするスルプスカ共和国(通称、セルビア人共和国)側の領土となっています。

赤枠で囲った部分がボスニアヘルツェゴビナの中のスルプスカ共和国の領土。この境界線はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終わった時点での軍事上の前線に基づき引かれ、スルプスカ共和国の領土がボスニア・ヘルツェゴビナの全面積の49%を占めています。
共和国なんで自動車のナンバープレートや紙幣のデザインなんかも独自仕様ですし、もちろん独自の大統領、政府、立法府も持ってます。2022年には急進的な大統領が再選を果たしたなんてニュースもありますし、ユーゴ紛争は単に棚上げされてるだけで、世界の火薬庫の火種は燻ったままという印象をどうしても受けてしまいます。

スタローン氏のアツい独演を聞きながら更に山の奥へと車を進めていくと、1984年サラエボ冬季オリンピックのボブスレー会場跡に着きました。
1984年当時はボスニア・ヘルツェゴビナではなくユーゴスラビア社会主義連邦共和国時代ですね。
オリンピックが終わるとすぐにユーゴスラビアは混乱に陥り、オリンピックから僅か8年後にはサラエボは紛争の最前線となり、ボブスレーのコースは砲撃基地として、メダルの表彰台は処刑場として使われたそうです。

びっしりとグラフィティに埋め尽くされた退廃的な状態となっています。平和の祭典の会場が戦争の悲惨さ・人類の愚かさを伝える遺構として残されているのは何とも皮肉なものです。

今でこそ長閑なトレベヴィチ山でロープウェイなんかも運行される観光地となっていますが、紛争時には激しい戦いが繰り広げられたそうです。

山の中腹にある墓地ですらバトルフィールド最前線として砲弾が飛び交いました。

墓石が傾いていたり、思いっきり銃跡まみれになっていたりと生々しい傷跡が残されており。スタローンの演説にも一層リキが入ります。

最後は旧市街地の近くまで山を下ってきて、これまたセルビア軍の砲撃拠点として使われたイエロー・フォートレスからサラエボの町を眺めてツアー終了。
ここはサラエボでも随一の夕日のビューポイントで、夕日を堪能できるようにとツアーの最後に連れてきて下さったそうです。ただ自分はどうしてもサラエボを離れる前に離れる前に子どもの戦争博物館を見ておきたかったので、日が暮れる前に博物館へと向かいました。

ガイドさんご自身が戦争の当事者なので説明が主観的になりがちな部分もありますが、教科書からは学びとれない生の声を聞く為にもサラエヴォではツアーに参加されることを奨励します。

報告する

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。