旧満州国の首都・長春 国都建設の夢の跡

旧満州国の国都として満州の荒野に人工的に建設された新京(現、長春)。
昭和初期の日本人が理想郷を実現するべく築いたこの町には、満州国建国から90年以上経った今でも主要施設や社会インフラの基盤が当時の姿のまま残されていて、町全体が満州の歴史を後世に伝えるテーマパークかのようになっています。

本日は、そんな日本人の帝都建設の夢の跡を歩いてみようと思います。

町の中心は長春駅から南にまっすぐと伸びる大同大街(現、人民大街)と、それに並行して作られた官庁街の順天大街(現、新民大街)の周辺エリア。今なお残る満州時代の建物の多くも、この二本の大通りの周辺に固まっています。

皇帝宮殿(現、地質宮)

町歩きのスタートは皇帝宮殿(現、地質宮)前の文化広場から。
地質宮は満州国の宮殿として建てられる予定だったのが、太平洋戦争の勃発により基礎工事だけを終えた状態で建設中止に。その後、作りかけの建物を接収した長春市政府が元の設計図に基づき1954年に完成させたそうです。

この皇帝宮殿からまっすぐ南に伸びるのが、満州国の首都機能の中心を担った新民大街。大街というに相応しい幅60mもの大通りの左右に各省庁の建造物が立ち並ぶ様は圧巻の一言で、歩いていると国都建設のための建設ラッシュに沸いた往時の勢いが伝わってくる勢いです。

国務院

皇帝宮殿から最も近い位置に建てられたのは、満州国国務院(現、吉林大学医学部院)。国の最高行政機関であり、日本の国会議事堂を模して建てられたそうな。

体制上は国家元首である溥儀の直属の組織という形にはなっていたようですが、実態としてはお飾り皇帝の溥儀には何の権力も与えられておらず、満州の実権を握っていたのは国務院でも皇帝溥儀でもなく暴走族集団の関東軍司令部と官僚の一部という腐った状況だったようです。もうそりゃ建国の経緯からしてね…


建国宣言で掲げられていた「王道主義」「民族協和」といった理想主義的な理念も、結局は完全なる絵空事に終わってしまいました。

軍事部

国務院の対面にあり、まるで行政に睨みを利かせるブルドッグかのように建つこちらの厳つい建物は、軍事部(現、吉林大学白求恩医学部付属第一医院)。
軍事・治安を担当していた部署で、その役割からか、国務院と比べると威圧的で物々しい雰囲気の建物になっています。およそ病院には似つかわしくない外観だと思うのですが、現在は吉林大学白求恩医学部付属第一医院として使われていて、この日も普通に患者さんと思しき方々が頻繁に出入りをしていました。

経済部

続いて現れるのは経済部(現、吉林大学第三医院)。
経済部というと経産省的な役割をイメージしますが、財政部と実業部を前身として新設された部門だそうで、税務や金融などの財務周りや国有財産の管理、物価統制や貿易統制といった役割まで幅広く担っていた部門だそう。
建物は長春に残る旧満州国の行政機関の中では一番地味で堅実なスタイルで、こちらも今は吉林大学第三医院という医療施設になっています。

司法部

和風なようで、でもどこか西欧風でもあり、よくよくみたら窓周りなんかに中華風テイストも取り入れられているという摩訶不思議なスタイルのこちらの建物は司法部(現、吉林大学白求恩医学部)。
法院・検察庁を監督し、民事・刑事・非訟事件・その他司法行政に関する事項を掌っていたそうです。

満州国交通部

渋みのある褐色タイルと石材への彫刻が独特の雰囲気を醸し出しているこちらの建物は交通部(現、吉林大学公共衛生学院)。
国土交通省的な部門のようで、鉄道・陸運の監督業務をから、水運や船舶の管理を主に担っていたそう。

満州国総合法衙

順天大街の南端に位置するロータリーで一際強烈な存在感を見せつけているのは総合法衙(現、人民解放軍第461病院)。
「総合法衙」とは馴染みのない言葉ですが、満洲国の最高検察庁、最高裁判所、新京高等検察庁、高等法院などの主要な司法権力機関が置かれていたそうです。

中央銀行

中央銀行(現、中国人民銀行長春中心支行)。

満州国は傀儡国家ながら歴とした国家ではあったので、当然ながら中央銀行もありました。満州円の発行から国家資金の保管に管理、金融市場のコントロールなど中央銀行としての機能、商業企業や公共部門への融資業務といった一般の銀行業務としての機能を果たしていたそうです。

関東軍司令部

今や典型的な中国の地方都市といった具合に高層ビルが乱立する旧大同大街の周辺エリア。そんな中にも場違い・時代違いに思える満州時代の建物が残っています。

特に目立つのが、実質的に満州国を支配していた関東軍の司令部旧址です。他の遺構のほとんどが日中洋の折衷式スタイルで建てられている中で、この建物は超ド・ストレートな純日本式。なんとも恣意的であり、関東軍の狂気のようなものが伝わってくるような佇まいです。
日本人の夢の跡なんて書いちゃいましたけど、やっぱり当地に来て“偽満州”に関する遺構や展示品を見ていると、色々と思うところが出てきます。

神武殿

純日本式といえば、市街地ど真ん中の公園に残る神武殿も異彩を放っています。神武という名前から神武天皇を祀った宗教施設と思うところですが、神道の祭祀施設を備えた総合武道場として建設されたそうで、柔道・剣道・弓道・相撲などの演武や試合を通じて満洲における武道精神の宣揚を図る場として活用されていたそうです。

長影旧址博物館

満州映画協会(満映)の撮影所として建てられた建物は、今は博物館として一般開放されています。ただ、満映博物館ではなくあくまで“長影旧址博物館”ですので、満映の後身である長影(長春電影制片廠)時代の展示がほとんど。満映に関する博物館だと思って行くとがっかりしてしまうかもしれません。

甘粕ニキが理事室から毎日見下ろしていたという撮影所前の広場には、これまたなんともご立派な毛沢東の像が立っていました。

中はオシャレで現代的な作り。長影は満映を源流としていることもあり、博物館に入るなり満映に関する解説から始まります。

満映こと満州映画協会は満州国と満鉄による半々の共同出資で1937年に設立されました。国策会社故に文化芸術の表現を目的としているといより、満州国の理想を満州人に宣伝することが主な目的とされていました。必然的にプロパガンダ的だったり啓蒙的な内容の映画ばかりだったそうで、大陸では人気がなかったようです。そりゃそうですよね…

で、満映時代に関する展示コーナー終了w 気づいたら早や満州国崩壊後の解説に入っていましたw

1945年、満州を“解放”した中国共産党は満映を接収し、国営の東北電影制片廠として運営。国共内戦を経て1955年からは長春電影制片廠に改名し、以来、中国における一大フィルムメーカーとして数々の有名作品を世に送り出し続けてきたそうです。

市場開放と経済成長により今や世界有数の市場規模となった中国映画産業。しかし、現在に至るまでの道のりは戦争と革命に揺れ動き続けた中国社会の歩みと同様、大波乱の連続でした。
日中戦争や国共内戦といった冬の時代を経て、春が来ると思ったら中華人民共和国の建国以降もさらに厳しい真冬の連続。反右派闘争や文化大革命といった社会的・政治的な混乱や大変動に直面しながら、中国人の芸術家たちはそれでも映像を紡ぎあげてきました。

作品の一点一点に関する具体的な解説なんかについても見れたりして、中国語が分かればきっとそれなりに楽しめる博物館なんだろうなぁと。“鉄鋼戦士”だとか“人民的戦士”だとか、解説を読むまでもないハードボイルドな人民解放軍礼賛モノばかりでしたがw

報告する

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。