犠牲祭期間中のダッカの町を歩いてみる2

前回からの続きで、引き続き適当にダッカの町でカオスにまみれながら歩いてみます。

相変わらず、10メートル進むふぉとに誰かしらから声をかけられるようなペース。渾身のドヤ顔をキメる者もいれば、写真を撮って!と言いながらスカした表情を浮かべる者など様々だが、共通するのは愛嬌の良さ。向こうがベンガル語で話しかけてきて私が日本語で返してるので、明らかにバーバルコミュニケーションは取れていない。それでも最後は謎に愛嬌のある笑顔で握手されたりサムズアップされたりハグされたり。ボディーランゲージだけでここまでお互い愉快な気分になれるのだから不思議である。

何やら観光地らしきスポットを発見。ラールバーグ・フォートと言い、1678年にムガル朝第六代皇帝アウランゼーブの息子によって建てられた城と庭園ということだ。
アウランゼーブといえばタージマハルを残した壮麗王ことシャー・ジャハーンの息子さんですし、17世紀といえばダッカがベンガル地方の主都として “黄金のベンガル”と謳われるほど繁栄を極めた最盛期。
これはきっとタージマハル顔負けの立派なインドイスラム建築が見れるに違いない!!と思って入ってみたのですが、タージマハルと比べると全然スケール感が違うというか、タージマハルと比べるのも失礼なレベル。それなりの趣は感じるのですが、規模感が全然違うし、次から次に写真撮影を求められてて自由に見学もできないというw

流暢な英語で話しかけてきてくれた上流国民の美人三姉妹様曰く、ここはバングラデシュの人がオシャレして写真を撮る場所らしい。そして外国人と写真撮影するのがブームとかw
ワイなんかと写真撮ってどうするんだと思いますが、たかだか1時間弱で10組以上の方々の撮影依頼に応じましたからねw 何のとりえもないただのオッサンなのにw

三姉妹様からは明日の夜のパーティーに招かれたけど、あいにくワイは明日出国予定。ここらへんで有名人気取りを切り上げ街歩きを再開します。

フォートからひたすら南に向け歩いていくと、ブリゴンガ川に行きあたりました。かつては黄金のベンガルを支えた町のライフラインだった川も今では工場排水や生活排水によって激しく汚染され、水は黒く濁っており、異臭を放っている。もはやヘドロといっていい状態にあるのだが、それでも人々の多くは生活や交通の面でこの川に依存したままで、この日も海水で体を洗い洗濯をする人で岸辺が賑わっていた。

水運の都として栄えた黄金のベンガルの賑わいが感じられる船着場を発見。陸もカオスだが水上のカオスぶりも中々のもの。

ガンジス川の支流が網の目のように張り廻らされた川の国だけあって、水上運輸が盛ん。汽船というよりも鉄の塊と表現した方が適切な物体が、けたたましい煙と臭いを吐き出しながら出発していきました。

自分も岸に停留していたボートに乗って対岸に行ってみる。

船頭から多少高い25タカを請求されましたが、他の乗客が「10タカだよ」と助けてくれました。1人で舟をチャーターするよりも、地元の皆様が利用する渡し船の方が安心安全かと。 リキシャの車夫との交渉も周りの人達が助けてくれたりと、ほんと感動するレベルで皆さん親切なんで。

若き船頭と愉快な仲間たち。

対岸のサウスダッカ。サッカー場でリフティングテクを披露したら外国人がいたぞー集まれーってなって、ここでも近所の人達との記念撮影ラッシュが始まりましたw

純真の塊、無垢の極致。会話は成立しないが何だか楽しいw

船頭ブラザーズ。

陽が暮れてきたのでボチボチ帰宅。悪い魂胆で声をかけてくる輩が殆どいないのが隣の隣国と違ってほんとポイント高い。

ここでもリキシャの車夫と価格交渉しようとしたところ、どこからともなく20人くらいの野次馬が集まってきて助けてくれた。もちろん何も見返りを求めることもなく。どんだけ男前なんですかダッカの皆さん。

三丁目の夕日ダッカバージョン (右)。

戦後復興期の日本がそうであったであろうように実に生き生きとして前向きな若者が多く、街全体が活力に満ち溢れたエネルギッシュな場所っすダッカ。 ココ最近は社蓄プレーにより疲労困憊ネガティブ気味の毎日だったけど、お陰でポジティブエネルギーを満タンまでチャージできましたわい。

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