古代ローマの栄華が詰まったタイムカプセル ポンペイ遺跡

本日は、歴史ロマンに溢れた古代遺跡・ポンペイの町を歩いてきます。

遥か2000年前の西暦79年、ヴェスヴィオ山の噴火により一夜にして消滅したポンペイ。
町全体を覆い尽くした火山灰が風化防止剤の役割を果たしたことで、18世紀に再発見されるまで噴火当時の街並みが奇跡的に保たれ続けてきました。
馬車と人が行き交った石畳の公道も、酒場の壺に入ったた金貨や領収書の石板も、食卓に置かれたパンや調度品も、華美な装飾に彩られた邸宅も、アングラ感満載の売春宿のメニュー表も…2000年前の当時のまま。
壮大なタイムカプセルともいうべき奇跡の町ポンペイで2000年前にどういった暮らしが営まれていたのか、古代ローマ時代の世界にタイムトリップして見てきたいと思います。

ローマ式の都市計画に基づき開発されたポンペイの町の広さは約66ヘクタールで、現時点で全体の3分の2ほどの面積が発掘され見学可能な状態となっています。

当時の人口は1万人ほどで、フォルム(中央広場)、円形闘技場、劇場、浴場、運動場といった公共施設から、居酒屋やパン屋、売春宿といった商業施設、そして多くの裕福なローマ人達の別荘的邸宅が立ち並ぶ賑やかな商業都市だったようです。

円形闘技場

城門は東西南北それぞれに何か所か設けられているみたいですが、今回は東端の入り口から入場。すると、直ぐに巨大な円形闘技場が視界に飛び込んできました。
世界中で現存する円形闘技場の中で最古のもので、ローマのコロッセオよりも古く紀元前80年頃のポンペイ闘技場。収容規模は2万人で、混雑や騒音面のことを考慮して町のはずれに建てられたそうです。

“イタリア中部で行われた都市対抗戦でサポーターが暴動を起こし、子供を含む多数の怪我人と死者が確認されています。調査の結果、当局は当闘技場を10年間閉鎖する決定を下しました。尚、関係者への制裁につきましては…”

まるで現代のニュースキャスターが読み上げそうな内容ですが、これは今から約2,000年前に発生した悲劇。

西暦59年、剣闘士の試合中にポンペイ市民と隣のヌーケリア市のスポーツファンが衝突。最初はヤジの掛け合いだったのが、小石を投げ合う小競り合いになり、しまいには剣を取り合う暴動にまで発展。死者まで出たことから剣闘試合の興行が禁じられるまでに至りました。
まるで現代のサッカーに起こるフーリガン同士の乱闘事件ですよね。こんなエピソードが記録として残されているんです。

生活感がなくただただ廃墟然とした古代遺跡群と違い、遺跡の一つ一つに生活感が宿っているというか。実際に遠い昔にこの地に住んでいた人々の生活の息吹まで感じられるのがポンペイ遺跡の凄いところです。

公道

ポンペイの街では比較的裕福な市民や貴族など上流層だけでなく、飲食店の従事者や古物商、両替商、小売商、靴屋、織物商、陶器商、果ては奴隷を売る行商人など様々な商人が暮らしていたそうです。

地図を見ても「〇〇さんの邸宅」「パン焼き釜の店」「外科医の家」「ステファノの選択屋」「〇〇のワインバー」「娼婦の館」「〇〇浴場」など、生活感を感じさせるものばかりで、建物の一つ一つから当時のポンペイ市民の生活っぷりがビンビンに伝わってきます。

カウンターバー

「お客様各位へ。手前どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀などを用意しております。」
これらはかつての居酒屋の跡。カウンターでテラコッタ製の瓶を穴の中に入れ、食べ物や飲み物を保温していたようです。
食生活は健康的で、未精製の小麦、オート麦、大麦、それにひよこ豆や果物、木の実など、さながら現代の健康食品店なんかで売られていそうなヘルシーな食材が中心。更にはエジプト産レンズ豆、アラビア半島産ナツメヤシなど高価な輸入食材なんかも発掘されており、ポンペイ人の食生活ぶりから当時のポンペイ市民の生活水準の高さを伺い知ることができます。

サイコロ遊びを描いた石板なんかも。
酒場の賭け事ではアウトローな荒くれ者たちの争いが絶えなかったとか。ドラマROMAで酒場で賭博のペテン師が〇されたシーンが脳内再生されてきます。

パン屋

食生活といえばパン。ポンペイにはパン屋が約20軒jほどあったとされ、通りを歩いていると溶岩でできた石窯や石臼を構えた店舗跡をよく見かけます。
各分担の作業場が秩序立てて配置されていて、手作業を行う奴隷の為の作業標準なんかも確立されていたとか。

こちらは炭化したパン。「Panis Qadratus」と呼ばれる当時の典型的なパンで、焼く前にナイフで放射線状の切れ目を入れて取り分けやすいようにしていたそう。2000年前のパンですが、これほどふっくらとした形が保たれているのに驚かされます。

娼婦の館

食生活だけでなく、性生活も充実。

よくよく目をこらしてポンペイの町を歩いていると、道の上にさりげなく、あるいは壁の装飾として男のチ〇コが模られているのが目に入ります。これらは子供のいたずらというわけではなく、売春宿への道標ということです。ようは、「こっちに売春宿がありますよ。」という看板。

チ〇コに導かれるまま娼婦の館へ。
この売春宿で働いていた女性たちは主にギリシャなどにルーツを持つ奴隷で、料金は当時のワイン数杯程度だったとか。

娼婦は狼の遠吠えの真似をして客を部屋に誘い込んでいったようです。

海外の征服地からの帰化人や外国からの商人も多かったのか、入り口には絵画で描かれた指差しメニューなんかも。エロスは万国共通、言葉なんか要りませんからね。

独房のように仕切られた部屋全てに石造りのベッドが設けられています。生々しいというか、アングラ感が半端ないですね。

庶民の声が落書きという形で残されたりもしています。
「思いやりのあるメナンデルは2アス(200円くらい?)」
「6月15日、ヘルメロスがフィレテルスとカフィススと一緒にここでやった」
「男根が命じるのだ、愛せよと」
「来た、やった、帰った」

カエサルの「来た、見た、買った」をモジった落書きには教養すら感じさせられますw

犠牲者の石膏像

生々しさという点では、犠牲者たちの石膏像以上に生々しいものはないでしょう。

西暦79年8月24日、ヴェスヴィオ山の噴火により発生した火砕流によって豊かな暮らしを享受していたポンペイ市民の平穏な日々は一瞬にして奪われ、1700年に渡って灰の下での眠りにつくことに。

火山により犠牲になったのは、何かしらの理由で町に留まったり逃げ遅れたりした2000人あまり。既に肉体は火山灰の中で腐敗してしまっているのですが、腐敗したことによって生じた空洞に石膏を流し込むことで、犠牲者の生々しい死の瞬間が石膏像として再現されています。
子供を抱き抱える母親や、寄り添うように最期の時を迎えたカップル、一人手を合わせて祈りを捧げる男、鎖でつながれたまま手足を引きつらせて死んだ犬など…彼らの最後を思うと胸が詰まります。

悲劇詩人の家、猛犬注意

有力者の邸宅も数多く残る中で、最も印象的だったのは悲劇詩人の家。

家の壁に演劇を主題としたモザイク画が多く描かれていることが名称の由来。
規模的にはさほど広くはなく成り上がりの中流階級が住んでいた家屋という説が有力ですが、規模に対して内部の装飾の質だったり教養深い内容だったりから、家主が相当な有力者だったという説もあるんだとか。

あれこれ想いを巡らせ自分なりの仮説を立てるだけでも面白いし、ロマンを感じてしまいます。

玄関床には「CAVE CANEM(猛犬注意)」とラテン語で書かれたモザイク画を配し、訪問者に対し番犬の存在を知らしています。当時の犬は単にペットというだけでなく番犬の役割も期待されてたから猛犬も多かったのでしょう。歯を剥き出し手今にも飛びかかりそうな威嚇的なポーズが怖そうで、今にも唸り声すら聞こえて来そうです。

猛犬注意のステッカーなんかは今でも目にすることがありますからね。2000年前のポンペイにも21世紀に生きる私たちのそれと、ほぼ変わらない生活ぶりだったことが分かります。

笑い、泣き、日々の仕事をこなし、美しい部屋の装飾を眺めながらワインを飲んだり、時には娯楽施設や市場に出掛けて楽しい時間を過ごしたり、という住人の姿が頭に思い浮かんでくるようです。

ヴェッティの家

ヴェッティさんという方のお宅の玄関には卑猥な壁画が残されてました。これは恥ずかしいぞウェッティさん!と思わず哀れんでしまいましたが、故人の名誉の為に説明をしておきますと、これはポルノではなく当時の魔除けのお守りだとかw

貝のヴィーナスの家

2000年前の作品とは思えない斬新な意匠のモザイク画やフレスコ画で彩られた邸宅の数々。
邸宅の一つ一つから当時のポンペイ市民の趣味嗜好を窺い知ることができますし、家によって内装のセンスが1つ1つ異なるので歩いていて飽きが来ません。

浴場

ポンペイにはフォロ浴場、スタビア浴場、中央浴場の三大浴場を始め、少なくとも5-6か所の浴場施設があったようです。この中では最も古い紀元前80年建造のフォロ浴場が特にお勧めで、当時の浴室やサウナの形が残されているだけでなく、彫刻や壁画などの細かな装飾まで楽しむことができます。

カラカラ浴場などローマの遺跡とは違って決して壮大な作りではないけれど、生活感の強さや保存状態という点ではポンペイが上。本当につい数年前まで使われてましたと言われても納得してしまうくらいの状態が保たれています。

各種神殿

多神教だった古代ローマ時代の名残で、ギリシャ神のアポロ神殿とゼウス神殿、ローマ神のヴィーナス神殿にユピテル神殿、エジプト神のイシス神殿など、多種多様な宗教施設がポンペイ内に混在しています。
今日でいえばロンドンやニューヨークに匹敵するコスモポリタンな植民都市として、ポンペイにはローマ市民、海外の征服地から帰化した外国人、奴隷の身分から解放されて職人や商人になった人々が集まり、豊かな社会が築かれていたようです。

一神教でなく多神教、あの世の幸福よりこの世の享楽といった感じは各邸宅の装飾画からも伝わるところがあり、ルネッサンス文化の原点といった雰囲気を町全体から感じます。

秘儀荘

東の門からポンペイに入り、最後に訪問するのは西北の外れの外れに位置する秘儀荘。

オリーブオイルなどの農産物で富を築いた団体の所有物だったそうですが、秘儀荘とは意味深です。一体どんな秘密を抱えていたのでしょうか。

薄暗い内部の部屋には火砕流の熱に悶え苦しむ男性の石膏像が2体…。遺跡の外れにあるからか他に見学者はおらず、静けさと薄暗さが不気味に感じられます。

光が届かずいっそう薄暗い秘儀の間と呼ばれる空間には、何やら神秘的な壁画が赤い塗料でびっしりと描かれていました。当時この辺りで流行したディオニュソス信仰の入信儀式の様子が描かれているそうです。謎の宗教の謎の儀式が執り行われるお屋敷、ということで秘儀荘と呼ばれているのでしょうか。

ディオニュソスは葡萄酒の製造法を見つけてワインを世に広めた神。
日々の鬱憤を解消するために当時の社会では身分が低かった女性が集まり始め、ディオニュソスの名の下に酒を飲んで踊り狂い…
弱者が精神を解き放つ機会を与えてくれるディオニュソス神は庶民を中心に着実に信者を増やしていき、ポンペイでもここ秘儀荘で集団酩酊の密儀が頻繁に開催されていたそうです。

肉体は魂を閉じ込める牢獄と考えられていた時代ですからね。
意識化された現実の中では制約の中でしか生きることができないが、酩酊状態では理性の呪縛からも解き放たれ、生そのものが体験できる。雑念の排除。肉体からの解脱。社会的束縛からの解放。信者たちは秘儀と称して病的なまでな狂乱に明け暮れていたと言います。

2000年前の遺跡だというのに、遺構の一軒一軒にここまで生活感が感じられるのはポンペイならではでしょう。古代ローマの歴史に触れ、ワクワクドキドキしたい方には特におススメの遺跡です。

ポンペイ公式遺跡ガイドPompeii_JA (pompeiisites.org)

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