太原発 山西省欲張りツアー 応県木塔・懸空寺・雲岡石窟

世界最安のマリオット系列ホテル(ポンズ調べ)で宿泊数を稼ぎにやってきた山西省の省都・太原。
ただホテルに籠るだけだと勿体ないので、山西省が誇る重要文化遺産3か所を一日で駆け抜ける山西省欲張りツアーなるものに参加してこようと思います。

訪問する文化遺産は応県木塔、懸空寺、雲岡石窟と中国の中でも屈指の観光名所3か所。陽の出る前から太原を出発し、総移動距離700kmを一日で走破する弾丸観光コースとなります。

A 太原
B 応県木塔:
世界最大かつ最古の八角木塔。ピサの斜塔・エッフェル塔と並ぶ世界三奇塔。

C 懸空寺:
米タイム誌が選ぶ世界で最も危険な建造物トップ10。断崖絶壁の岩壁に建つ古刹。

D 雲岡石窟:
中国の三大石窟の一つで、世界遺産。

中華文明発祥の地で、世界の中心・中原の一地方として古くから栄えてきた山西省。他省と比べると存在感が薄い地味キャラとなってしまっていますが、山西省内に残された歴史的・文化的遺産には超ド級のものも多く含まれています。
特に今回訪問する応県木塔、懸空寺、雲岡石窟は見所満載の中国でも指折りの観光名所であり、ツアー前日の夜なんか興奮して中々眠りにつけないくらいでした。
本当に一日で3か所を回りきれるかという点だけ気掛かりなのですが、果たして…

応県木塔

当日は市街地の渋滞を避けるよう6時半に太原を出発し、先ずは230km離れた応県木塔を目指します。
この塔は知名度こそイマイチですが、遼代の1056年に建てられた高さ67.32メートルの塔で、世界でも最大・最古の八角木塔というマジもんの史跡。1本の釘も使わず、柱と梁とほぞの組み合わせだけで7,400トンの木材を支えるというジェンガ名人もビックリの奇跡的古代建造物なんです。

何もない寂れた田舎町の中に突如として現れる1000年前の木の巨塔。ガイド兼ドライバー曰く、応県木塔を始め、複合的要因によって中国に残る元代以前の木造建築物の75%超が山西省に集中しているという。 

・建築文化を発展させた古代山西省の社会経済的繁栄
・中央平原の後背地にあり、戦争の主戦場になることが少ない立地
・木材の保存に最適な乾燥した気候条件

これら諸条件に加え、山西省の人々が古代の建物を代々大切に使い続けてきたことから、古代の木造建築が失われることなく今でも多く残されているそうです。

1000年の風格が感じられる木造塔。迫力に満ちていて、圧倒的な重厚感で迫ってきます。
それでも流石に経年による傷みも激しいらしく、残念ながら登楼は禁止されてしまってました。数年前だと二階部分までは上れたみたいなんですが…無念。

災害あり、政治的動乱ありと波乱万丈の歴史を生き抜いてきた古塔は、昔の人の知恵と美学を示すだけでなく、伝統を大切にし文明を継承することの大切さを後世に伝えているかのようにどっしりと佇んでいます。

歴史ある木塔独特の雰囲気に浸っていると、はいーじゃあ次行きましょーというガイドの大声が響き渡りました。ここでの滞在時間、10分w ガイドの判断によりサクッと見学を切り上げ次なる目的地へと向かいますw やっぱり一日で3か所を回るのは難しかったか…

懸空寺

応県木塔から車に揺られること1時間、かつての道教の聖地・北岳恒山にやってきました。

黄土高原特有の黄色っぽい台地を走り抜けた先に、何とも荒々しく禿げ散らかした岩山が見えてきました。こちら何の変哲もないただの禿げ山のように見えますが…

よく見るとwあんなところにw 岩山に彫り込まれた彫刻作品かのように、寺院が断崖絶壁にへばりついているw 山の崖に張り付き、まるで宙に浮いているかのように佇むこの寺院こそが、北魏時代の5世紀に建てられた懸空寺。 読んで時の如く、空に懸かる名刹です。

8世紀の文豪・李白がここに来て「壮観アルね」と呟いたことから、「壮観」の2文字がデカデカと岩に描かれてる。自らの呟きが後世にまで残ると知ってたら、こんな小並感たっぷりな一言で終わらせなかっただろうに。

岩肌に沿って急勾配を上がってみると、細い桟道も岩の凸凹に合わせて上がったり下がったり。気になる地上からの距離は最も高い地点で75メートルで、20階建てのビルに相当する高さになるそうです。
遥か大昔にこのような場所にこのような寺院を建てようと思いついた発想も凄ければ、実際に建てちゃう根性と技術力も凄い。

懸空寺は仏教・道教・儒教の三教混淆の寺院で、文革の頃までは実際に僧が住み修行が行われていたそうです。

釈迦・老子・孔子と仏教・道教・儒教の三開祖が仲良く一堂に会するという珍しい空間も残されています。

もともと北魏を興した鮮卑族は西域から入ってきた仏教を保護していましたが、華北を征服して中国下層民に対する支配を行なう必要から太武帝が道教を保護。次いで文成帝は仏教を厚く信仰し、今度は孝文帝の治世になると漢化政策を推進することから儒学を振興した。こうした経緯もあって、三教合一の寺院が建立されたのでしょうか。
実際、漢の時代にも「儒教は世を治め、仏教は心を治め、道教は身を治める」と3つの宗教を融合した三教合一思想が拡がったことがあったみたいですし。

ここでの滞在時間は1時間半。周辺の見どころまでを全てカバーするには短い時間でしたが、最低限の雰囲気を味わうくらいの時間は確保頂けました。

雲岡石窟

ツアーの最後は世界遺産にも登録されている雲崗石窟で締めくくりです。

ここ雲崗石窟は中国南北朝時代の僧・曇曜により、西暦460年に建て始められました。曇曜は北魏に滅ぼされた仏教国・北涼の出身で、仏教復興事業の監督役として文成帝によって招聘された人物です。

太武帝時代には仏教が激しく弾圧されたこともあり、再び廃仏の憂き目に遭うことがないようにと願った曇曜。皇帝が気変わりしても仏像を破壊できぬよう、メインとなる仏像5体は北魏の初代道武帝から文成帝までの5帝をモデルにして造ったそう。
造営工事は493年に洛陽へ都を移転するまで継続され、雲岡は5万1000体余りの仏像を有する一大石窟となりました。

実際どのようなものかというと、このように、東西1kmにわたって絶壁の岩盤が刳りぬかれ、洞窟内部に大小様々な仏像が刻まれています。

岩壁を刳りぬき、その内部の空間に石仏を彫るという石窟スタイルが功を奏し、風雨から守られた石仏は現代まで美しい状態が保たれています。担当事業での成果物を1500年先の未来にまで残した曇曜さん、ファインプレーです。
しかも、西域との繋がりがあった北涼出身者により設計されたことから仏像の多くはガンダーラ様式を含んだ造りとなっていて、ガンダーラ美術が東方に伝播したことを伝える重要な史跡となりました。

主要53窟は、東方石窟群(第1~第4洞)、中央石窟群(第5~第13洞)、西方石窟群(第14~第53洞)の3部分に分かれています。
その中でも一番の見どころは「曇曜5窟」と呼ばれる第16-20窟。曇曜が460年に建議した初期の大石窟群で、5人の北魏帝をモデルにした仏像が並んでいます。

こちらは最初期に切り開かれた第16窟で、北魏2代目・明元帝を象ったといわれる釈迦牟尼仏がデーンと彫り込まれています。顔つきは面長で鼻筋が通り、頭髪はガンダーラ風の波状という西域系美男といった印象。衣服は北魏が漢民族の服装制度を導入した時代のものらしく、胸前にネクタイのようなものを下げているのが特徴的です。

これがバリバリ漢族ですみたいな毛沢東モデルだったら違和感があったのでしょうが、西域風のお顔立ちをした鮮卑族の皇帝ということもあってかすんなり仏像として受け入れることができます。

第18窟の釈迦立像は王朝3代目の太武帝がモデル。目鼻立ちのはっきりしたキツめの顔立ちだが堂々とした体躯の像で、小さな仏像が無数に刻まれた「千仏袈裟」を羽織っています。仏教を弾圧した太武帝の粗野なイメージと、当時の遊牧民族の豪傑っぷりが伝わってくるような造りで、異質な風情に圧倒されます。

20窟の本尊は道武帝がモデル。元々は他の窟と同様に入口や明り窓を備えた洞窟内にあったそうですが、壁と屋根が崩壊して露坐の像となっています。

目力が強くふくよかな顔立ちと、堂々とした体躯。

中央石窟群の中でも第9窟から第13窟は五彩窟と呼ばれて、極彩色で飾られた細微な仏様、蓮花、飛天、神鳥等がびっしりと彫り込まれていて、時間を忘れ優雅さにいつまでも酔いしれてしまいます。

びっしりと掘られた仏像も、その一体一体がユニークなもの。西洋風だったり、ガンダーラ風だったり、こってこての中華風だったり、コケティッシュだったり…。一体一体吟味してたら、ここで無念のタイムアップ。見学できたのは正味1時間強というタイミングで閉館時間が来てしまったので、泣く泣く300km離れた太原へと引き返します。

やっぱり太原発で1日に3か所を詰め込むのは欲張りすぎましたね…見学に費やせた時間は3か所計2時間半。これに対して移動時間約11時間。丸一日ほぼ移動で終わってケツが痛いという思い出ばかりが残る1日となってしまいましたw

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