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旅順博物館と旧関東軍司令部


日露監獄旧址前から3番のローカルバスに乗り、旅順博物館・旧関東軍司令部跡へと向かう。

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五十六中学なんていう駅があるが、まさか連合艦隊司令長官の山本五十六に因んではいないよなぁ。

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運賃は2元。ローカルバスといってもかなり清潔。停車駅を表示する電光掲示もあるので言葉が聞き取れずとも自分の目的とする駅で降りる事ができるだろう。

旅順博物館への交差点にある勝利塔駅で下車。この勝利の塔は抗日戦争終結10周年とソ連の占領軍の引き上げを記念して建てられた。高さは終戦の年に因んで45メートルだそうだ。塔の先端にある星を乗せた15メートルの黄金色のオブジェが何とも共産主義国ロシアと中国の合作っぽい。
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塔身内には180段の階段があり上部へと登ることができると聞いていたのだが、門は閉まり係員も不在だったので断念。どうせ後で行く203高地からもっと良い眺めが見れるだろう。

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『英雄なるソ連の武装部隊は日本帝国主義の精鋭であった関東軍を粉砕。中国人民武装部隊と共に日本の侵略から中国を解放した。』

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勝利の塔のすぐ横は中国人民解放軍の現役の軍港だ。軍事機密保護の為に外国人による旅順訪問が制限されていた旅順。2009年に外国人の渡航が許可されるようになったが、今でも軍港周辺や軍港公園などは外国人立入禁止区域となっている。周囲を歩いていて理不尽に身柄を拘束されかねないお国なので、とっとと旅順博物館の方へと歩いて行くことに。

旅順博物館は帝政ロシア時代から使用されていた歴史ある建物で、当時はロシア人将校クラブとして利用されていた軍の施設だったが、日露戦争で日本が旅順を 占領した後の1915年に満豪物産陳列所として開設、翌年、関東軍都督府満豪物産館と名称を変更し、1917年に博物館として一般に公開されるようになった。
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主館と分館と分かれそれぞれそれなりの展示物を揃えているが、日本人にとっての目玉は何といっても大谷探検隊が第三次探検の際にトルファンで発掘した新彊ミイラだろう。

ひだり みぎ
ロシア人将校が使っていた時代には舞踏会が開かれていたであろう大ホールもあり、100年前に奏でられたはずの美しく優雅な音楽が聞こえ、社交に興じる100年前の軍服姿の将校達が頭に浮かんでくるようだ。

【閲覧注意!】
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南北朝~唐時代の高昌国の貴族のものと考えられているこちらのミイラ、保存状態はすこぶる良い。人間の原型を留めたお姿で横たわられているのを実見すると人間の生についても考えさせられ厳粛な気持ちになる。勿論、ミイラ以外にも明治から大正にかけて中央アジアやインドの仏教伝播ルートを調査した大谷探検隊が収集した文物が数多く展示されている。

因みに大谷探検隊を率いていたのは考古学者でも歴史学者でもなく、お坊さんだった。京都・西本願寺の第22世門主・大谷光瑞氏である。大谷氏は明治維新後に急速に西洋近代化を果たした日本における仏教の将来展望に危機感を持ち、早くにイスラムが浸透してしまった中央アジアを中心として仏教東漸のルートを踏破することで浄土三部経など仏典の起源を突き詰めたいとのことで中央アジアの仏教遺跡の調査、仏典史料をはじめとする文物の収集を行ったのだ。合計で3度の探検を組織し、碑文の拓本・古銭・染織断片・西域語による絵画や彫塑などの歴史的文物を発掘、収集品を旅順博物館へ寄贈したとされる。

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若き日の大谷光瑞(こうずい)氏。第三回の探検進行中に、探検の費用を本願寺の会計から不当に流用したということで1914年に責任をとって門主を辞され、その後は旅順に移って研究を続けられたそうだ。戦前、欧米諸国をはじめ日本でも多くのアジアをフィールドとした学術調査が実施されていたそうだが、未踏の地を目指す開拓者たちの野心・野望、先人達のチャレンジ精神に感服せざるにはいられない。

旅順博物館を外に出ると、中ソ友誼塔と関東軍司令部旧跡(背後の黄色い建物)の姿が目に入る。
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貝塚伊吹に取り囲まれ、緑の茂みの中からそびえ立つ高さ22.2メートルの中ソ友誼塔。1955年の2月23日に定礎し、当時の周恩来総理が自ら中ソ友誼塔定礎と題字したらしい。下層部には天安門、ソ連のクレムリン宮殿、鞍山鉄鋼の高炉、旅順港や中ソ両国人民のレリーフが彫られている。そして塔の先端には黄金のハトが羽を広げて飛びたたんとしている。中国人はハト食べまくりだが、中国でもハトは平和の象徴なんだろか…

こちらは関東軍司令部旧跡。満州事変後に奉天、後に新京(現長春)に移るまで関東軍司令部だった建物で、今は博物館になっている。
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関東軍は日露戦争で獲得した南満州鉄道遼東半島租借地の守備隊を前身とし、1919年に関東都督府が関東庁に改組された際に関東軍として独立。独立守備隊6個師団と内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団などから編成され、在満陸軍全部を統括して関東州(現在の大連・旅順周辺)の防備を担っていた。その後に満州事変を引き起こしてからの流れは世界史の授業で習う通りだ。

ひだり みぎ

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『日本が中国に全面的に侵略…』『関東軍の犯罪行為』『済南虐殺事件』『みだりに武力を用いて中国人を殺した…』などなど、ショッキングな日本語が並ぶ中に更にショッキングな写真が展示されているので、早足に見学を終えることにした。

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関東軍司令官オフィス。

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参謀部。真白い像が不気味で冷酷な印象を演出している。

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正面に見る中ソ友誼塔と旅順博物館。

続いては日露戦争中に激戦区となった203高地へと向かう。

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