見どころ満載 イラン考古学博物館(国立博物館)でペルシャの歴史をおさらい

さてさて、お次はテヘランで最も楽しみにしていたイラン考古学博物館(国立博物館)へと向かいます。長~い歴史と凄~い文明を誇ってきたペルシャの地で見つかった紀元前6000年から19世紀に到るまでの国宝級美術品を集めたイラン最大規模の博物館ですからね。きっと見所満載に違いありません。


博物館は大きく分けてイスラム化前後で建物を分けて展示しているみたいですが、残念ながらイスラム化後のイスラムコレクションを展示する別館は休館中。ということで、この日は8世紀のウマイヤ朝支配後にイスラム化する以前のペルシャの歴史に絞ってみていきます。


開口アーチ門のエントランスが美しいイラン考古学博物館本館。時代を遡ってアケメネス朝、アルサケス朝、ササーン朝時代のペルシャの様子をぱっと覗いてきます。

建物の中は長方形になっていて、入り口を右に進んで反時計回りに進めば年代順に歴史を追えるようになっています。

ということで、時代は一気に有史以前に遡って紀元前2,400-2,800年、初期青銅器時代に造られたとされる美しい造形の青銅器から。4,000年以上に存在していたくびれ美人が見事な頭上運搬を披露してくれてますw


古代オリエントに栄えたエラム王国のチョガザンビル遺跡で見つかった、紀元前1,250年頃に神への供え物として作られたとされる牡牛の像。身体に刻まれた楔形文字がメソポタミア文明との文化的繋がりを示しています。


決して焼き肉屋のこれじゃありません。

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その古代エラム王国の中心地が、イランで初めて世界遺産に認定されたチョガザンビル遺跡。バベルの塔のモデルとも考えられていたジッグラトと呼ばれる聖塔は破壊されてしまっているが、マンションの完成予想図のようなクオリティの復元図に拠ると、メソポタミア文明特有の大きな階段状ピラミッドのような形状だったよう。
古代ペルシャ文明レベル高すぎぃぃ。


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時は進みアケメネス朝ペルシャ(B.C.550- B.C.333年)時代の宮殿ペルセポリスへ。ダレイオス大王の謁見図のレリーフには、中央に鎮座するダレイオス1世と背後のクセルクセス1世に謁見する高官のシーンが描かれてます。


古代ペルシャのシンボル的国宝で、保存状態も極めて良好。硬い石灰石の浮彫で髭のチリチリ感と髪の毛のふっさふさ感をここまでリアルに表現するとは!


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ペルセポリス宮殿の謁見の間へと続く階段もバッチリ残っています。北向きの階段脇にはペルシャ人とメディア人の高官が交互に並ぶ様が、南向きの階段脇には贈り物を献上する属国の使者が鮮明に彫り込まれてます。今にも各国使節団が動き出しそうなくらいリアルで、見れば見るほど気味が悪くなる程です。

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種馬や布を持ち込むカッパドキア人、正装ドーティを纏ったヒンドゥー教徒のインド人、弓矢斧など尖塔道具を納めたソグディアナ人、半袖+ブーツでカジュアルな装いのアッシリア人など、各国からの使節団の格好や献上品が絵心たっぷりに描き分けられてるのには驚かされます。


こちらはダリウス1世の謁見の間にあったとされる、彩釉煉瓦によるペルシャの兵士像。紀元前6世紀頃の作品とは思えぬクオリティの高さ。


更に時は流れてアルサケス朝パルティア(B.C.248-A.C.226)時代。王族の威厳や優雅さたっぷりに威風堂々と構えるパルティア王子像がデーンと構えます。



パルティアは遊牧民の族長が興した王朝で、東はパキスタン西は現トルコまでを支配下に置くなど版図を拡大。地中海周辺国を巡りローマともドンパチやりあってたからか、石像のお顔立ちが気持ち西洋風になってきた気がします。

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農耕民族系イラン人が226年に興したササン朝(226-656年)。農業で鍛えた身体でローマ軍をも破ったことからササーン朝時代の遺跡でも多量の西洋風モザイク画が発掘されています。どれも保存状態が良くてびっくりするわ。
やっと日本で水田じゃー!土器じゃーってやってる中で卑弥呼が出てきたのがここら辺ですからねw 歴史の違いをまざまざと見せつけられます。

【グロ注意】こちらはソルトマンと呼ばれる岩塩鉱山で出土した人間の頭蓋骨とレザーブーツを履いた左脚の骨だそうです…。


面白がってカツラや付け髭なんか着用させたるなやと思ったら、なんと頭髪も髭も本物。DNA鑑定によるとB型・37歳男性、1,700年前ササン朝ペルシャ時代の御仁で、鉱山内で起きた不慮の事故によりお亡くなりになられたそう。

ここからペルシャの地は美味いや美味いやウマイヤ朝の台頭によりイスラム化。その後、ウマイヤ朝(661-750年)、アッバース朝(750-1517年)、セルジューク朝(1038-1157年)、イルハーン朝(1256-1335年)、ティムール朝(1370-1507年)、サファヴィー朝(1501-1736年)、ガージャール朝(1779-1925年)、パフラヴィー朝(1925-1979年)、イラン革命でイスラーム共和国(1979年-)と続いていきます。
歴史の層が厚すぎますよ、イランさん…

世界史だと中央アジアの歴史ってさらっと流されちゃった記憶がありますが、ウマイヤ朝後のペルシャコレクションもきっと凄かったんだろうな~

【イラン考古学博物館(国立博物館)】

テヘランの町をぶらぶら バザール、アーブギーネ博物館(ガラス&陶磁器博物館)

やってきましたイランの首都テヘラン。
テロ支援国家、悪の枢軸、核開発問題、経済制裁、大規模デモなどなど、何かときな臭い感じでフレームされがちなイランですが、来てみたら全然全然平和なところっす。

寧ろ、人がやたらとフレンドリーなのに驚かされたりします。


通りを歩いていたら「おー、マイフレンド!イランは最高だろー。どこ行くんだ?送ってってやるぞー」なんて軽いノリで声をかけられたり、一緒自撮りしよう!と求められたり。通りを歩いているだけで何故だかナーンを寄進されたこともありましたw
エジプト人やインド人のようにウザくもなければ見返りを求められることもなく、良い意味でイラン人のホスピタリティには何度も驚かされました。

人も良ければ、首都の貫禄たっぷりの街並みも良いっすね。
沢山の人、沢山の車、排気ガス、砂埃り、タバコ、香辛料、ガソリンの匂いにケバブ屋の煙…色んなものが盆地の底で混ざり合ったエネルギッシュな町で、ぺルシャ人の生命力の強さが感じられます。それでいてエジプトやインドよりは秩序だってて洗練されてるし。
ひだり みぎ
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目に入るもの全てがエキゾチック!

ただ、銀行行っても屋台行っても、数字もエキゾチックすぎて読み取れないので少々辛いところ。
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銀行に英語名つけるくらいならエキゾチックすぎて数字もアラビア数字にしてw

グランドバザール

とりあえず人の流れに沿って歩いていると、気づけばバザールに行き当たりました。都市圏人口1,400万人という超巨大都市テヘランのバザールだけあって、世界でも最大規模のバザールらしいっす。

さあ、ここでものを言うのは敵国通貨のUS$。経済制裁などの影響でイランリヤルが絶賛大暴落中で、イラン国外から来た旅行者にとってはウハウハバブリー状態。胃拡張修行や土産物の調達が捗ります。


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風情たっぷりのバザール内。金銀宝石に絨毯、ドライフルーツや香辛料などなど、中近東らしい商材を扱う個人店舗がひしめきあって活気があります。欧米企業から強烈な経済制裁を喰らってるのに商店のには軒先にはみ出してくる程の物資が並んでて、アメリカに真正面から対抗し続ける地域大国の自力の強さが伺えます。実際、ABCD包囲網どころじゃないくらいのえげつない制裁を喰らい続けてるのに、ここまで長い間よく耐え忍んでるなって思う。

ひだり みぎ
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職人の技術力の高さにも目を見張るというか、冴えない個人商店風の店舗に置かれてる銀細工や象嵌細工などでも本当にクオリティが高くて驚かされます。絨毯とか陶器とか、小物の生産技術を芸術の域まで昇華させちゃうような職人肌の人が多いですよね、ペルシャ人。


ナーンとかも一々くっそお洒落ですし。美意識が高いんでしょうな。

そんなペルシャ職人たちの粋を堪能するべく、お次はガラス&陶磁器博物館ことアーブギーネ博物館という場所に向ってみました。

アーブギーネ博物館(ガラス&陶磁器博物館)



ペルシャ富豪の邸宅のような佇まいの博物館。ガージャール朝時代の1910年に時の権力者のお住まいとして建てられたそうな。


権力者の館だけあって内部もゴージャスだし、個人コレクション程度の小さな博物館なのかなーと思いきや、かなーりの規模感。紀元前400年から現代に至るまでのガラスと陶磁器の数々が年代順に展示されています。


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ガラス化粧瓶のショーケースも宝石店ばりw


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東地中海スタイルの要素が混じったササン朝(226-651年)ペルシャ時代の陶器。造形センスもさることながら、機能性も現代作品と変わらぬ領域にありビビります。ただの農業頑張るマン集団じゃなかったんですね、ササン朝ペルシャ。


2-4世紀頃のミニ香水入れ。ササン朝ペルシャの貴婦人もダマスクローズの香水とか使ってたのかなー。


こちらは有名なササンガラスかな。Probablly Sasanian Timeって自信なさげに書かれてたけどw

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年月を経たが故の深みからきてるのか、在りし日は更に美しい色相なのか、神秘的な配色の小物が盛り沢山。古くシルクロードを伝って奈良時代の日本の正倉院に納められたという切子硝子椀のようなササンガラスもありました。シルクロードの東の終着点とされる奈良に伝わった切子硝子椀のまさに西側のルーツと呼ぶべき芸術品ですからね。これは感動ものです。

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12-13世紀になると、だいぶテイストが変わってきますね。いわゆるペルシャブルー的な作品も多くなってきます。

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14世紀になると、金色のラスター彩の陶器が多くなります。


こちらの優雅な曲線を描いた印象的な形のガラスアートは18世紀のもの。戦地へ赴いた夫を待つ妻が涙を溜めたとされる涙壺だそうです。

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この19世紀の陶器の円卓も超大作。イラン最大の民族叙事詩であるシャー・ナーメのハイライトシーンがびっしりとガラス上に描かれてます。日本でいうとイザナミとイザナキの黄泉国での夫婦喧嘩みたいなシーンが描かれてるみたいなことになるのでしょうか。

いやー、素晴らしいっすペルシャ文化!この調子で絨毯博物館や宝石博物館も行きたかったのですが、残念ながらアーブギーネ博物館の見応えがありすぎて、ここで時間を使い果たしてしまいましたw

いやー、テヘラン良いっすよ!もちろん地方都市の方が遺跡が沢山あってペルシャ文化に浸るには良いんでしょうが、テヘランもテヘランでテヘランなりの楽しみ方が沢山ありまっす。

【Abgine Glassware Museum】

所在地:Tehran Province, Tehran, District 12, 30th Tir St, イラン
電話:+98 21 6670 8153

ビザンツ時代からの歴史が詰まったアヤソフィアと大宮殿モザイク博物館

続いては、イスタンブールの歴史の象徴・アヤソフィアへ。

知名度でこそトプカプ宮殿には劣るかもしれませんが、歴史的重要性という意味ではイスタンブール屈指の存在の建物です。キリスト教世界とイスラム世界との激しい覇権闘争の舞台として壮絶な歴史を辿ってきたイスタンブール、そのの為政者に翻弄され続けながらもイスタンブールの町の中心に立ち続けてきたわけですからね。

アヤソフィアの歴史、さらっとおさらいしておきましょう。

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360年 コンスタンティヌス帝が当方正教会の大本山として建造
404年 火災で焼失
415年 テオドシウス2世が再建
532年 反乱で崩落
537年 ユスティニアヌス帝が再建(現在のアヤソフィア)
1453年 コンスタンティノープルを征服したオスマントルコ帝国のメフメト2世がモスクに改装
1935年 トルコ共和国が無宗教の博物館として一般開放
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元々はコンスタンティノープル(今日のイスタンブール)を征服したコンスタンティヌス大帝によりそう当方正教会として建てられたのが、オスマン帝国が当地を統治することになりモスクとしてリニューアルオープン。20世紀になりトルコ共和国が建国されると世俗化され、無宗教の博物館として利用されることになりましたよ、と。

イスタンブールの長く壮絶な歴史の中で、為政者や宗教が変わっても常に信仰の中心で有り続けてきたわけですから、まさにイスタンブールの歴史の生き証人っすね。

アヤソフィア


トプカプ宮殿の入り口脇に威風堂々と建つアヤソフィア。尖塔の1本だけが赤いのは、この1本のみがメフメト2世により建てられたオリジナルのものだから。この1本のみが赤レンガで建てられて、後代に追加された3本の尖塔は石灰岩と砂岩で作られている為に白くなっているそうです。

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恐る恐る身廊へと歩を進めてみると、キリストとイスラムが融合した独特の厳かな雰囲気にただただ圧倒されます。

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メフメト2世がコンスタンティノープルを攻略すると、アヤソフィアの十字架は取り除かれ、キリストのモザイク画は漆喰で塗り潰さた。ギリシャ正教の大本山が格式高きモスクへと姿を変え、難攻不落と言われたビザンツ帝国千年の都がキリストの都からアッラーの都へと転換した。そう考えると、遥か昔から続くキリスト世界VSイスラム世界の争いの象徴ともいうべき存在ですよね、アヤソフィア。そう考えると、なんか鳥肌が立ってきます。


頭にショートケーキがのっかってますよ、でお馴染みビザンツ絶対倒すマン・メフメト2世。彼の名が語られる際には「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血にまみれた君主」などおどろおどろしい枕詞がずらりと並べられますが、実際にはヨーロッパ文化への造詣も深い文化人で、町の攻略後の略奪行為を最小限に食い留めたり、捕虜となったビザンツ貴族の身代金を自ら払って解放を保障するなどの慈悲も示していたらしい。
総攻撃前には降伏開場も呼び掛けてるわけだし、更にはコンスタンティノープルを落とした後もキリスト教やユダヤ教も認めたり、破壊者というよりは逆に有能な文化人っぽい印象があるんすけどね、メフメト2世さん。現代でも貴重な歴史遺産をぶっ壊して回るテロリストがいるわけですし、真に野蛮で無知な暴君だったらアヤソフィアなんか、いの一番に破壊されていたことでしょう。

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ミフラーブ上部の半ドーム屋根の部分に、黄金に輝くキリストと聖母のモザイク画を発見。メダリオンに描かれた装飾アラビア文字の煌めきと同居する黄金のモザイク画が、イスタンブールの歴史の変遷と歴史の重みを感じさせてくれます。


熾天使の絵もバッチリ。



身廊の前室には10世紀のモザイク画“キリストと皇帝”。キリストを囲むように大天使と聖母マリアのメダリオンが描かれ、左には膝まづく礼拝中の皇帝の姿が。

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壁面には漆喰の下から出てきた金地のモザイク画が多数。モザイクを剥がさずに漆喰で覆い隠すだけに留めたオスマン帝国グッジョブ!


イスラム的幾何学模様の中に埋もれるように残る『聖母子、ユスティニアヌス1世とコンスタンティヌス1世』のモザイク画。

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手すりの幾何学模様や金色に輝くアラビア文字が描かれた巨大なメダリオンがイスラムを感じさせるが…モスクのようでモスクではない、教会のようで教会ではない不思議で神秘的な聖なる空間。東洋であり西洋でもあるイスタンブールならではの博物館、個人的にはトプカプ宮殿より印象に残りました。

土産屋も、キリスト的な物とイスラム的な物が共に揃っています。


キリストグッズメインと見せかけての…

ひだり みぎ
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イスラムグッズギャラリー。街角の個人商店ではみかけないような、かなーり上質な品々も揃ってます。

【アヤソフィア(Ayasofya)】

所在地:Sultan Ahmet Mahallesi, Ayasofya Meydanı, 34122 Fatih/Istanbul
電話:+90 (212) 522 17 50
公式ホームページ:http://ayasofyamuzesi.gov.tr/en

大宮殿モザイク博物館

また、モザイク繋がりで言うと、アヤソフィアの近くある大宮殿モザイク博物館なる小さな博物館も見逃せません。
“大宮殿”と名前にあるのは、コンスタンティノープル時代に東ローマ皇帝が住んでいた宮殿跡地に残されたモザイク画が公開されているかららしいっす。

宗教的な意味合いは殆どなく、日常生活の一場面や神話の一部をモチーフにしたものばかりで、アヤソフィアのモザイク画とは違った魅力が味わえます。

7500万~8000万個のガラス粒やテラコッタ(1㎡あたり40,000粒!)を詰め込んで作られたビザンツ職人渾身の力作。


顔一個を表現するだけでも膨大な作業量を要することが分かります。


ヤシを取るオッサンの姿もこの通り忠実に再現。

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生々しい弱肉強食の世界。

ビザンツ宮殿跡!という点を楽しみにいったら失望すること必至ですが、当時の社会の雰囲気を味わうにはアリっすかね。20分くらいでサクッと見て回れる小さな博物館です。

【大宮殿モザイク博物館(Museum of Great Palace Mosaics)】

古代のお宝ざっくざく イスタンブール考古学博物館

続いてはイスタンブール考古学博物館へ。

世界でも十指に入る博物館だとトルコさんが自画自賛してるので、期待値は高いのだが果たして…。

世界でも十指に入るかはさておき、東西の十字路に栄えた全盛期のオスマン帝国の版図はメソポタミア、アラブ、エジプトという肥沃な三日月地帯も含んでいるので、ギリシャ・ローマ・ビザンティン時代の出土品だけでなく、シュメール、ヒッタイト、アッシリア、パルティアなど東西の貴重な美術品も多く収蔵されているのは確かでしょう。


元々は1891年にオスマン帝国の文化遺産を保護するための帝国博物館として勅令によって創立したという歴史もあってトプカプ宮殿の外庭という一等地にあるのだが、観光客で溢れ返っているトプカプ宮殿やアヤソフィアと違って訪問者は殆どいない。世界でも有数の博物館、やはり看板倒れだったか?

ただ、膨大な数の発掘品が収蔵されているのはやはり確かなよう。オスマン帝国が没落していった時代にイギリスやフランスによって貴重な遺産が略奪される姿に見かねたスルタンによる命令で、オスマンの威信をかけ各地からの出土品を収集して囲い込んできたみたいっす。

敷地内に入ってみると、建物の中に陳列し切れないのか、中庭にまで2千年前の貴重な遺産が規制線やガラスケースもなく無造作に置かれてましたw ゆるいなー、この感じ。まぁ遺産の国外散逸を防ぐという目的は果たせてるんで、これはこれでトルコ的には良いんすかねw

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残念ながら考古学博物館の本館は改装中でしたが、敷地内には3つの博物館が共存しているようです。

考古学博物館(本館・分館)
古代オリエント美術館
イスラム装飾タイル博物館

考古学博物館のチケットで3つの博物館が楽しめるので、ちょこっとだけ得した気分になりますね。

古代オリエント美術館


先ずは、古代オリエント博物館へ。

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古代オリエントというだけあって、アラビア半島やエジプト、メソポタミア、アナトリアからのシュメール、バベル、ヒッタイト文明など、イスラム以前の古代文化にかかわる展示品が中心。貴重な展示品も多いけど、床にゴロンと置かれてたりとラフな感じがまた堪らんっすねw

結構なお宝もあるんですけど、お宝をお宝と感じさせないあたりがトルコっす。古代オリエント美術を我らが遺産!とばかりにアピールして大事に展示する大英博物館やルーブル博物館とは大違い。

ちな、ルーブル博物館に展示されているオリエント美術の収蔵品リストはこちらのルーブル博物館公式ウェブサイトルーブル博物館公式ウェブサイトルーブル博物館公式ウェブサイトで確認できます。

古代オリエント博物館で最初に視界に入ったのは、古代アッシリア時代、アッシリア帝国の首都ニムルドで発掘されたティグラト・ピレセル3世の横顔。この二次元感とパンチパーマ感が古代メソポタミアっぽくて堪らんっす。


シリア北部のユーフラテス川の畔で見つかったアッシリア人の石碑。これは残虐行為で知られた恐怖のアッシリア人ですわ。めっちゃ強そうで悪そう。

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更に時代を遡ってシュメール文明の遺産。イラクのアッシュール遺跡で見つかったシュメールの守護神・ラマッスとシャルマネセル3世の未完成の像。

そして、シュメールと言えばギルガメシュ。ギルガメシュと言えばギルガメッシュナイト。

こいつこそはギルガメシュ!?と思ったけど、こちらはアッシリアの御仁。ピレセル3世~シャルマネセル5世の時代の政府高官で、Bel Harran Beli Usurという方らしい。
いくらマイナーキャラクターの遺産とはいえ、2,700年前の貴重な出土品が床に適当に置かれてるのに驚きを禁じ得ません。


こちらはバベルの塔やユダヤ人の捕囚でお馴染みバビロンにあるイシュタル門の施釉タイルの像。お宝もんがゴロゴロと並んでます。


妙に写実的で商人のように腰の低いおっさんはシュメール人によるアダブ王朝の統治者。今にも動き出しそうなくらいリアルです。

メソポタミア文明だけでなく、エジプト文明もカバー。

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古代エジプトといえばミイラ。木の箱の中に身体の一部分をミイラ化したものを入れ、セケルセケル鳥を上に載せる。こうすることで死人が不死になると信じられていたそうな。まさかトルコでミイラを見ることになろうとは。

紀元前13世紀にはエジプト新王国のラムセス2世がシリアに進出。ムワタリ2世率いる小アジアのヒッタイトと現シリア西部のカデシュで激突、史上初めて成文化された平和同盟条約が結ばれました。
条約は全18条。国境の明確化、領土不可侵、第三国から攻め入られた場合の相互軍事援助、政治的亡命者の引き渡しなどなど。エジプト側ではカルナック神殿にヒエログリフで刻まれた条約文が見つかり、ヒッタイト側では楔形文字で条約文が記された粘土板が当時のヒッタイトの首都で見つかってます。

これがその粘土板。お宝中のお宝なので、流石にこちらはガラスケースに納められてました。

『古より、神々はエジプトの王とハッティの大君との間に敵対関係を生じさせる事はしなかった。ところが、ハッティの大君、わが兄弟ムワタリの治世に、偉大なファラオ、ラムセス・メリアメンとの間に戦争があった。しかし、今日この日より、ハッティの大王ハットゥシリはラー神とセト神がエジプトとハッティの間に今後、永遠に戦いが起きないようにするために築いた条約に同意する。
我々の間に平和と友愛は永遠に守られるであろう。ハッティの子らとその子孫は偉大なファラオ、ラムセス・メリイアメンの子らとその子孫の間も平和であろう。なぜなら彼らも平和と友愛を守って生きているからである。』

エジプト側でもヒッタイト側でも記された条約の内容はほぼほぼ同じようですが、ヒッタイト側の文章では「エジプトが請うて講和に至った」と書かれ、エジプト側では逆のことが書かれているなど、互いに都合良く解釈された部分も散見されるそうなw

去年、韓国による日本製バルブへの反ダンピング課税に関するWTOの決定に対して日韓共に大々的に勝利宣言してましたが、どの国のどの時代でも為政者って本質的な部分は変わらないんすねw

イスラム・装飾タイル博物館



お次はイスラム感満載のタイル博物館へ。


ここでは、セルジューク朝~オスマン帝国時代の陶器やタイルが年代や産地別に展示されています。乾いた土色の出土品ばかり見てきたので、タイルの色彩が艶やかに映ります。


キュタフヤ、イズニク、チャナッカレの陶磁器を中心に約2,000点が展示されていますが、博物館というにはやや規模が小さすぎますかね。

考古学博物館

考古学博物館のメインホールは改装中でしたが、一番奥の別館的な建物には入ることができました。ギリシャ、トラキア、ビザンツ、シリア、パレスチナあたりでの出土品をメインに展示しているようです。
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暗がりの中に無造作に置かれた古代文明の権力者たちの石棺コレクションがいきなり目の前に広がり、お葬式会場のような独特の雰囲気。


お休みのところ失礼致します。精細な彫刻がびっしりと施された棺桶だけでなく、リュージュをしてるようなタイプの物も。何千年も前のものとは思えない程つるつるした棺で、かなーり不気味です。

棺の歴史に唸りながら奥へと進んでいくと、更に意味ありげな墓石が。

トルコ西部のアイドゥンで見つかった2世紀の剣闘士Mentor氏の墓石。
“私メンターは数々の名門スタジアムで皆を打ち破ってきた、そして、運命によって死を迎え、この墓に眠る”。
これだけ立派な墓石が遺されるわけなんで、ローマからやってきたスター剣闘士が遠征中に客死したとかなのかな。想像力が駆り立てられます。


トリポリで発見された2世紀の石棺。古代によくこんな精巧なものを作ったものだと感心しますわ。お目当てのアレキサンダー大王の棺や立像は改装中の建物中にあるらしくて見られなかったすが、それなりに楽しめました。


敷地内の土産物屋もなかなか内容が充実してました。ポストカードや栞も1枚40円程度と良心的な値付けですし、外の土産物屋で売ってるものよりクオリティが高かったです。

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ソクラテス先生とエロスの夢の競演。ソクラテス時代のアテナイはトルコ関係ないだろ!という突っ込みは無し。

ヨーロッパ大陸とアジア大陸とに跨り、太古の昔から東西大国の影響を受け続けてきたトルコ。その考古学博物館だけあって内容は非常に充実してました。
古代ギリシア~ローマの古典美術から、メソポタミア、エジプト、アナトリア各地の遺跡で見つかった数千年前の発掘品まで、東西で見つかった様々なお宝を鑑賞できるのはトルコの博物館ならではじゃないですかね。人気無いみたいですが、個人的にはお勧めの博物館です。

【イスタンブール考古学博物館(Istanbul Archeology Museum)】

所在地:Cankurtaran, Alemdar Cad. Osman Hamdi Bey Yokusu Sok, Istanbul
電話:+90 212 520 77 40
入館料:50リラ(≒860円)
開館時間:09:00-20:00(4月~9月)、09:00-18:00(10月~3月)
休館日:月曜日

ディルムン文明から現代まで続くバーレーン史を学ぶ バーレーン国立博物館

バーレーンに来るまで全くもってバーレーンに関する知識が無かった自分。
バーレーンと聞いても、10年くらい前までサッカーのワールドカップアジア最終予選やアジア杯でゴリゴリのカウンター戦略を貫く嫌な相手だったくらいの印象しかない自分の無知を恥じ、先史時代からイスラム化して近現代に至るまでのバーレーンの歴史の変遷を見学できる国立博物館に足を運ぶことにした。

あ、あとバーレーンといえばこれもありましたね…

茂原まで自動で!茂原まで自動で!何言ってるか分からないけど、世界には松木以上にウザっ苦しい解説がいるものだと衝撃を受けた。


しょっぼしょぼだったクウェートの国立博物館と違い、少なくとも外観は産油国の国立博物館らしい立派な造りのバーレーン国立博物館。


先ず、床びっしりにバーレーン中心部の航空写真が貼ってあっていきなり驚かされる。床に航空写真は斬新なアイディアだわ。地元民の方たちは自宅を探したりしてめっちゃ盛り上がってた。

館内は順路的なものがなくどのように周っていくべきか分かりづらいのだが、ディルムン文明など先史時代の歴史の解説から現代のバーレーンの生活様式の紹介まで幅広く展示されているみたい。

最大の目玉は古墳。いきなり古墳どやぁあ!って来る。バーレーンには多くの古墳が遺されてるどやぁ!ってことらしいんだけど、日本の凝った古墳と比べると単純で、正直、土を盛っただけにしか思えなくもない。


古墳の再現。ワイの通った小学校の校庭にもこんなのあったで。土山だったけど。


やっぱりただの山やんけ!と思ったら、それぞれの古墳の地下には石棺が納められ、死者が丸くなった姿勢で様々な副葬品とともに埋葬されるなど、ただのこんもりとした砂の山ではなかった。


しかも、紀元前3000から紀元600年までに造られた15万もの古墳が奄美黄島程度の面積のバーレーンに残されているのだと。古墳大国バーレーン!ただの山やんけ!なんて礼を失した発言をしてしまい申し訳ございません!

そして次なる目玉はバーレーンの伝統技術に関する説明コーナー。湾岸アラブの世界へと脈々と受け継がれてきた伝統技術がマネキンなどを使って解説されています。

ディルムン文明時代から商業を支えてきた陶業を生業とする職人さん。迫真の表情で土器をこねくり回してて、余りのリアルさにドキっとした。


海産物もメソポタミア文明との主力交易商品の1つ。椰子の枝を使って舟を作ってみたり、仕掛けを作ってみたり。当たり前だけど全て現地で取れる材料を使っての手作り作業。凄いっすね昔の人は。


その後、手作り感満載の椰子の枝製の小舟を使った小規模な漁業からダウ船での真珠産業へと進化。1850年代から1930年にかけては真珠産業の黄金期を迎え、20,000人を超えるダイバーが500隻以上のダウ船を用いて真珠産業に従事していたそう。「バーレーン産の真珠はダイヤモンドよりも価値がある」「バーレーンが稼ぎ出す富のうち、実に3/4が真珠由来」とか、当時の真珠バブルっぷりを表すちょっと信じられないパワーワードも並んでいた。

大型のダウ船の船員団はキャプテン以下、キャプテンのアシスタント、ダイバー、シンガー、クック、プラー(ダイバーを縄で海から引き上げる役)など総勢60-80名のチームで構成されていて、総収穫数に対するシェア分けは役割ごとに決まっていた。

しかし、バブルは永遠には続かぬもの。アメリカ発の世界恐慌や日本の養殖真珠産業の発展などにより、1930年を境にバーレーン真珠産業は衰退期へ。
特に日本が大量供給する養殖真珠が真珠の希少性を暴落させ、天然真珠の採取に頼りっきりだったバーレーン経済は破綻騒ぎの大パニック状態。餓死者まで出てこれはやばい!…外貨が稼げなくなり進退窮まったバーレーンはここで石油採掘に舵を切り、1932年、無事に油田ジャックポットを引き当て再び経済楽勝モードの路線に乗りましたよ、と。

最近では伝統的な真珠採取の作業がパールダイビングとして観光コンテンツ化されてるらしいけど、ちょっと日本人は参加しずらいっすね、これw いやいや、あんたんとこが真珠産業をご破算にしてくれてなければいまだに価格破壊が起きずにウチらはウハウハだったんすわとか嫌味言われそうw


採取後は、真珠貝の口を開け真珠を取り出す作業が待っている。ただ、真珠産業で全員が全員潤ってたかというとそうでもなかったようで、真珠商人たちが富裕を極める一方、現場で命を張って頑張るダイバーの皆様は過酷な労働待遇にあったそう。館内には奴隷契約のコントラクト的な資料なんかも掲示されてました。

いやー、なんかすみません。パールダイビングはめっちゃ興味あるんですけど自粛しますw


ということで外に出ると既に真っ暗。隣の国立シアターが燦々と眩いばかりの輝きを放ってました。油田が見つかってほんと良かったっすね!なんかすんません!

【Bahrain National Museum(バーレーン国立博物館)】

営業時間:08:00-20:00
入場料:BD1