宿泊記 繁華街ド真ん中で便利なクラウンプラザベイルート

レバノン二泊目は、ベイルート西部の繁華街ド真ん中という立地にあるクラウンプラザベイルートに泊まることに。

ベイルート随一の繁華街といわれるハムラ通り(Hamra Street)。最先端のファッションブランドショップが立ち並ぶ、レバノンの若者文化の発信地となっているそうだ。小洒落たレストランや飲み屋なんかも多いし、日本で言えば渋谷みたいなイメージの場所になるのかな。通りを歩くのもオシャレな感度高い系若者や白人観光客ばかりです。
ひだり みぎ

同じ中東とはいえ地中海側に来るとドーハとは雰囲気が全く異なるのが面白い。街の中心地は西洋的、人々は陽気で開放的。湾岸諸国と比べると印パ系出稼ぎ労働者も少ないし。これは確かに中東のパリですわ。


ワチャワチャした繁華街のド真ん中に建つクラウンプラザ。ショッピングモール的な建物が隣にあるからか、ホテル前のスペースは常に現地の家族連れや感度高い系の若者で賑わっている。

中東にあっても国民の4割がキリスト教徒という宗教的異端児レバノン。クリスマスが過ぎ去った12月27日でもクリスマスツリーがロビーに飾られているのもレバノンらしいというか。
ひだり みぎ
ホテルのスタッフもフランクな対応で垢抜けた感があるし、今まで訪問してきた中東の雰囲気とは文化も人も全っく異なります。

部屋:クラブルーム

ただ、部屋は開放的ではなく寧ろ暗いし天井低いしで圧迫感があるくらい。しかも、禁煙指定だったのに、喫煙部屋なのかタバコのような匂いが充満した部屋をあてがわれるという不運も重なり良い印象は無い。
ひだり みぎ

クラブルームとはいえラウンジアクセスは付かない点を強調された。スパイア会員であれば無料でラウンジアクセスが付く中国のクラウンプラザが恋しいです。

ひだり みぎ

水周りも湿気が籠ってるわ暗いわで、やっぱりインターコンチネンタルから引っ越してくると格下感は否めない。


禁煙部屋リクエストも通ってなかったぽいし、スパイア会員として認識されていないのかもしれない…とも思ったけど、フルーツ盛りが送られてきたので認識はして頂いてたのでしょう。

ひだり みぎ

まぁ部屋に関してはクラウンプラザなんで極々一般的なビジホっすね。

ひだり みぎ
特徴的なのは部屋からの見晴らしくらいでしょうか。内戦時代からの廃墟かのような古めかしいビル群の向こうに広がる地中海まで見渡せます。ビーチ沿いの代表的な観光地であるコルニッシュやハト岩なんかも徒歩圏内と、西ベイルートの観光の拠点としても適してそう。

プール


ホテル最上階にあるプールは営業時間が07:00-19:00と短く利用できず。19:00クローズって…

レストラン

やっぱりこのホテルの魅力は一にも二にも便利な立地。意識高い系のオーガニックフードやビーガンレストランから伝統的レバノン料理や屋台フードまで、飲食店のオプションが多くて助かります。

迷った末、レバノンでの最後の晩餐はコンシェルジュお勧めの近所のレバノン料理屋“t-marbouta”で頂くことに。ここは食材からレバノン産にこだわった地元民の間でも有名な名店らしい。


地元の富裕層御用達レストランということで満員御礼状態、10分程待って賑やかな店内へと案内された。これは期待できるぞ~。

レバノン料理といえば他の中東料理のように香辛料一辺倒の味付けをした品は少なく、魚・野菜に加えてレモン、オリーブオイル、ハーブ類、ヨーグルトを多用したヘルシー料理という印象があるが…メニューを見てもさっぱり何がなんだか分からない。

とりあえずメインは店員お勧めのSojokとKibbehなる郷土料理をオーダー。地中海に面してるだけあって寧ろギリシャやトルコの食文化に近いんすかね。非常にさっぱりした味付けで美味しかったです。


名物のサフランケーキも癖のない上品な味付けで大満足。

クウェートとかバーレーンとか、食事が不味いわ高いわで苦労しましたが、その点、レバノンは良いっすわ。

また、他のイスラム諸国と異なりハムラ通りには良い感じのバーも多く、夜はまだこれからとばかりにオシャンティーな若者達で賑わってきたけれど…ワイは明日朝2時半起き。5時のフライトでベイルートを発つので今日はもう泣く泣くお開きにすることに。

クラウンプラザはベイルートの国際空港までも車で15分。便利な立地にありますので、観光の拠点には良いかと思います。

所在地:Hamra Main Street, P.O.Box 113, Beirut, 7512, Lebanon

レバノンワインのテイスティングツアー Chateau Ksara

バールベック・アンジャールとベッカー高原の代表的遺跡を2か所周り、最後はレバノンワインのファクトリーツアーでレバノン旅行を締める。

レバノンワインと聞いてもピンとこない人が殆どではないでしょうか。中東のアラブ人がワインかよ!という突っ込みもそうだけど、どうも「レバノン」と「ワイン」という単語が掛け合わさるのにしっくりこないというか…

ただ、じつはレバノン、民族的にはアラブ人といってもキリスト教徒の人口が4割を占めるという宗教的には特異な国。地理的にも砂漠が無いどころか高い山があってスキーリゾートもあるような中東らしからぬワイン作りに適した国で、なんとワインはフェニキア人の時代の6,000年前から作られてきたのだと。これは意外過ぎる事実。オスマントルコ時代にはワイン文化が断絶したものの、20世紀のフランス委任統治領時代にレバノンワイン業界はアゲアゲ状態に持ち返し、今でもフランスの品種・醸造技術を用いたフランスのニュアンスを持ったワイン作りが盛んなんですと。レバノンワイン6,000年の歴史。これには中国人もびっくりアルね。


ちょいと前はシリア軍や日本赤軍が拠点としていて危なげなイメージがあるけれど、今では多くのワイナリーが拠点を構える長閑なベッカー高原。東西を3,000m級の山脈で遮られた海抜900メートルの水源豊富な高地にあり、気候はワイン作りに適した半大陸性。夏は暑く乾燥しているが、冬は寒くて雨も雨量も豊富。ワイナリーの説明員曰く、ブドウ畑の天国なんですと。

数あるワイナリーの中で、今回お邪魔するのはレバノンワイン界の名門シャトー・クサラ(Chateau Ksara)。イエズス会が1857年にレバノンで設立したワイナリーを起源とするレバノン最古のワイナリーである。

ザビエルハゲという髪型で後世に名を残したフランシスコザビエルらが1534年にパリで設立したイエズス会。本国フランスと同じくレバノンでも修道院が細々とワインの生産を開始。シャトー・クサラは、1857年にイエズス会が創業したワイナリーを源流とする由緒正しきワイナリーということらしい。

名門だけあってホームページのデザインも格好いい。

1880年代には仏領アルジェリアからカリニャンやグルナッシュといった南仏品種を持ち込み宗教活動用のワインの生産を拡大、近代フランス流ワインを武器にレバノンワインの生産の85%を担うまでに成長していった。
その後、1972年には修道院所有の全商業資産を売却するとのバチカンの方針を受け経営権がレバノン人実業家に譲渡。それでもレバノン人事業化の手の元でも生産は順調に拡大を続け、今日でも年間300万ボトルをつくるレバノン最大の生産者として、今や世界40か国にまで販路を拡大しているそうだ。


そんなレバノンのワインシーンをけん引し続けてきたシャトー・クサラ。こちらの本社社屋では、定期的にアラビア語・英語・フランス語のテイスティングツアーが開催されている。

テイスティングは3種類から選択可能。
レギュラーコース:エントリーレベルのワイン3本。US$3.3。
アマチュアコース:スーペリアレベルのワイン4本。US$6.6。
プロレベル:プレミアムレベルのワイン4本。US$10。
吾輩はワインド素人のアマチュア未満だが、恐れ多くもプロコースを選択した。


品種を見ても、
白:シャルドネにクレーレット
赤:シラー、カリニョン、カベルネ
などなどフランス系の品種が並ぶ。やっぱりレバノンワインといってもフランスワインに近いものなのでしょう。

申し込みを終え、先ずはテイスティングに先駆けワイナリーツアーへ。

このワイナリーの特徴はなんといっても全長2kmにおよぶローマ時代の天然の洞窟だろう。ワインの成熟の為に使われていて、中には1930年代のお宝ブランデーも眠っている。今は門外不出でテイスティングにも出てこない本物のお宝だそうだけど。


ひだり みぎ
最後はお洒落なカウンタースぺ-スで白、ロゼ、赤、白デザートと順にテイスティング。特に癖もなく、香り、口当たり、余韻全て平均点レベルで特に印象に残らなかったというのが率直な感想でした。正直、もうどんな味だった覚えてすらないっす、ごめんなさい。

ということで、なんとも締まりのない最後となってしまったレバノン観光。程よく酔ったところで切り上げベイルートへと戻ります。
ひだり みぎ
ベッカー高原からベイルートへと峠越え。運転手曰く、「あと2時間遅かったら積雪で道が塞がれ帰れなかった」というくらいの雪が降り始める。この峠を越えたら地中海だし、レバノンでは朝に海水浴、午後には上質なスキーリゾートへなんていう楽しみ方もできるらしい。

歴史あり。遺跡あり。美味い酒に食べ物あり。リゾートあり。ほんと来る前の印象とだいぶ変わったわ、レバノン。ノリで来てしまっただけだけど、来て見てよかったっす。
【Chateau Ksara】

レバノンの地味世界遺産 ウマイヤ朝時代の都市遺跡・アンジャル遺跡

バールベック遺跡での観光を終え、お次はアンジャール遺跡なるウマイヤ朝時代の都市遺跡を見にいくことに。

アンジャール遺跡なんて聞いたこともないし、どうせベイルートに戻る道中に立ち寄るオマケ程度のしょぼしょぼ遺跡っしょ。なんて思って運転手の話を聞いていると、どうやらアンジャール遺跡もバールベックと共にベカー高原に残る代表的な遺跡で、世界遺産にも登録されているらしい。しょぼしょぼ遺跡とかバカにしてすまなんだアンジャール、という懺悔を旨にベカー高原を南下する。

場所はシリアとの国境から3km程のところ。ローマ帝国皇帝直属シリア州時代に栄えたベイルートとダマスカスのちょうど中間地点にあり、バールベックからはレバノン-シリアの国境に沿って南へと走ることになる。

峠を一つ越えれば直ぐシリアという場所だけに、多くの小規模難民キャンプが視界に入り込んでくるのだが、今にも風で吹き飛んでしまいそうなベニヤ板とビニールシートを寄せ集めて作ったような手作り感あふれる仮設小屋ばかり。というのも、レバノン政府は国連難民条約にも加盟しておらず、公的には国連機関が難民の定住キャンプを建設することを認めていないない。故に、これらのシェルターの殆どはレバノンの公的セクターから支給される限られた建材を使って難民が自力で建てたものになるそうだ。
ひだり みぎ
未だにカオスな内戦状態が続くシリア。総人口の1/3にあたる実に560万人もの人が国外での難民としての避難生活を余儀なくされていて、人口400万人のレバノンにも100万人もの難民が入り込んでいるそうだ。400万のレバノン人口に対してシリアからの難民が100万人とか…電力や水、教育といった公共サービスが圧迫されるだけでなく、労働市場に低賃金の労働力が供給されることで失業率の悪化に拍車がかかるといった社会問題に繋がっているのだと運転手が嘆く。パレスチナ人難民の流入がレバノン内戦に繋がったという問題も忘れているのか!と難民シェルターが目に入ってから運転手が明らかに不機嫌モードになってしまった。

話題を変えようとしても難民キャンプが視界に入る度に「あぁまたか。ここにもキャンプあそこにもキャンプ…。日本は良いよなあ。海に囲まれて平和だし皆金持ちで…」と運転手の嘆き節が始まって気まずかったので寝たふりを決める。

昼飯はシリアとの国境まで最寄の町で。特に治安が悪いといった感じもなく、ただただ普通の寂れた辺境の町といった感じ。運転手も治安自体はシリアも問題ないと言っていました。問題ないからシリアの人は早くシリアに戻ってくれと言いたかったのかもですが。

ちな、現在のアンジャルの町は1939年からアルメニア人が入居してきて、今では100%アルメニア人の町になっているそうだ。は?アルメニア人?と思ってしまうところだが、1915年のオスマントルコでのアルメニア人虐殺事件で迫害された多くのアルメニア人がレバノンに流入してきたそうで、今でもアラビア語を話さないアルメニア人がレバノン人口の4%を占めるとか。色々と複雑すぎだろレバノン。

ということで、ガイドのおっさんも勿論アルメニア人。

山の裾野にひっそりと残るアンジャール遺跡を案内してもらう…はずだったのだが、予約をしていた12:00になってもガイドが現れず、一人虚しく遺跡を見て周ることに。

アンジャールの町は705年頃にウマイヤ朝のカリフ・ワリード1世により建造された商業都市で、南北385m、東西350mの城壁に囲まれ要塞機能も備わっているのが特徴。地中海とダマスカスとを結ぶ隊商路上の要衝として栄え、600もの数の商店・要塞・宮殿・モスク・浴場などが整然と並ぶ大きな都市だったそうだ。

綺麗な長方形をした城壁の各辺の中央に町への出入り門が設けられていて、幅約20mの道路を十字に走らせることで町が南東・南西・北西・北東の4区画に綺麗に分けられている。アンジャールの町はウマイヤ朝時代に発展したが、町の基礎はそれまで一帯を支配していたローマと後に続くビザンツ時代の物から引き継がれた為、こういったローマ式の十字型の街になったそうだ。


南門から北門へと歩いてみる。



往時はそれなりに活況を呈していたようで、最盛期には中央道路の両側に600もの商店が並んでいたという。


道路が交差する十字路の中心には4本の列柱が各コーナーに設けられている。4本のうちの1本は原型をとどめているのだが、中々の規模である。


南東は大宮殿とモスク、南西は居住区、北東には小宮殿と公衆浴場、北西には小宮殿と居住区という区画構成になっていたそうだ。



アンジャールは王都ダマスカスから40km離れているが、カリフの為の夏の離宮機能もあったため、宮殿跡なんかも残っている。

ひだり みぎ
色違いの石を交互に積み重ねてるあたりがイスラム様式なのか?とも思ったが、煉瓦と切り石を交互に積み重ねるのはお洒落目的ではなく地震の衝撃を和らげる為の知恵によるものだそう。


こちらはモスク跡だったかな。戦略的な立地条件にあり商人が集まり一時期は賑わいをみせたアンジャールだが、他王朝との戦いに巻き込まれた為、僅か15年程しか使われなかったそうな。

うーん。面積こそ広いが、発掘・復元が進んでいるのは主に東側の2ブロックのみで、見るべき範囲自体は非常に狭い。ダマスカスやアレッポといったシリア内の古都が破壊されつくしてしまった今、ウマイヤ朝時代の遺跡ということで考古学的な価値は高いのだろうけど…。見所は極めて少ないので30分もあれば見て周れるくらいのもんですので、わざわざ立ち寄ることもないかもしれないっすね。

ベイルートからバールベックへの日帰り旅行

レバノン2日目はシリアのパルミラ遺跡・ヨルダンのペトラ遺跡と並んで中東三大遺産と呼ばれるバールベック遺跡へ日帰りで行ってみることにした。

場所はレバノン山脈とシリア国境の間のベカー高原、ベイルートから渋滞が無ければ車で片道2時間程のところにある。肥沃な土壌を持つベカー高原一帯は紀元前からフェニキア人の信仰の地として栄えていたのだが、紀元前1世紀頃に大正義・ローマ帝国の支配下に。バールベックの遺跡もレバノンにあるけどフェニキア人の遺跡ではなく、ローマ帝国により1世紀頃に建てられた神殿跡になるらしい。
同じく世界でも最大規模のローマ神殿跡とされていたシリアのパルミラ遺跡はイスラム過激派による暴挙で逝ってしまったし、バールベックだけは行ける時に行っておかねば!ということでベイルートから日帰りで行って参りました。

ただ、やっぱり場所がちょっとね…地図を見ると、だいぶ近くにダマスカスって文字が見えるのですが…


治安マップが真っ赤っかに燃え上がる“悪の枢軸国”シリアとの国境まで直線距離で10km。中東の情勢によっては自粛しようと思っていたけど、レバノンに入ってから最新状況を確認してみたら外務省が定める治安の危険レベルが2に引き下げられているではないか。この好機は逃さまいと、早速、フェニキアホテルのコンシェルジュお勧めのツアー会社Lebanon Tours and Travelsにコンタクトし、Private Day Tour from Beirut Anjar, Baalbek & Ksaraというベイルートからの日帰りプライベートツアーに申し込むことに。

ツアー当日は朝08:00にフェニキアホテルを出発。濃霧・暴風雨というあいにくの悪天候の中レバノン山脈を越えていく。
ひだり みぎ
「峠では牧歌的で美しい景色が楽しめるんですよねー、晴れてれば。」とは運転手談。景色が良ければ見えていたのであろう美しい風景は残念ながら霧と曇った窓ガラスの二重ブロックにより全然見えませんw


ベイルート市内の渋滞と濃霧による鈍行運転で思った以上に時間がかかり、フェニキアホテルを出て3時間弱ほどかかってバールベックの街に到着した。

バールベックの巨石 南方の石

着いたぞ、と言って降ろされたのは住宅街の一角に設けられた小さな公園のような場所。確かに遺跡よろしく古そうな石やらが無造作に散らばっているが、これが世界最大規模のローマ遺跡と名高いバールベック遺跡?


思ったよりショボいし、観光客も他に誰もいないようで、遺跡脇に土産屋を構えて遺跡周りを代々清掃してきたという一族の男がワイ一人に対して全力で営業トークをしかけてくる。運転手まで「この一族は偉大。バールベック遺跡がここまで注目を集めるようになったのも彼らの貢献によるところが大きい。(だからなんか買ってやれ)」とか加勢してくるしw ちょ、おまwww 味方だと思った運転手に後ろから刺されて、しょうもないメダルを購入する羽目に。


ショボいと言ったが、野ざらしで横倒しになった一枚物の巨石の存在感は半端ない。メダルが売れてゴキゲンな土産屋店主に拠ると、この巨石のサイズは高さ約4m、幅約5mで、重量は2,000トンにもなるという。いやいやいや、それは流石に盛ってるでしょおやっさん!鼻毛がもっさーって出てて実に胡散臭いし!と思ってググってみたら、この石は確かに有名な巨石でらしい。オカルト話が好きな一部の好事家の間では有名なオーパーツで、神殿の南にあることから、「南方の石」と呼ばれているそうな。

ひだり みぎ
紀元前3000年頃にレバノンの先住民だったセム族により切り出された物であると推測されているらしいが、今から5,000年も前にどうやってこの巨石を切り出せたのか。そしてどのようにここまで運搬してきたのか?もしかして現代人の我々が知らない高度なロストテクノロジーが古代文明にあったのか!?もしくはとんでもない巨人が存在してたのでは!?なんて話らしい。

バールベック遺跡

巨石から北に1km、今度こそバールベック遺跡に辿り着いた。

駐車場脇に遺るのがヴィーナス神殿らしいのだが、ベイルートのローマ浴場跡と同じく考古学的に非常に貴重な遺跡が普通に現代人の生活圏に埋もれた感じで遺されているのが面白い。

これまた鼻毛ボーボーな管理人にUS$10の入場料を払って敷地内へ。運転手は運転手であってガイドではないので、一旦ここで別れることに。


ギリシャ人からヘリオポリス(太陽の都)と呼ばれていた栄光の地・バールベック。紀元前64年にローマ帝国の属州に組み込まれて以降、歴代ローマ皇帝が200年以上の長い年月を費やしこの地に神殿を建造していったそうだ。バールベックを含むシリア属州は五賢帝時代のローマ帝国がイケイケガンガンだった頃の最東端。強国パルティアの領土と東に接していることもあり、ある程度重要な位置づけの場所だったんかな。


エントランスに立てかけられていた復元図によると、当時はこんな感じで「ジュピター神殿」「ヴィーナス神殿」「バッカス神殿」の三部構成だったそうだ。ローマ帝国というとキリスト教というイメージが強いけど、バールベックが築かれ始めた頃はペイガニズムに基づく信仰の場として人々が礼拝する為の神殿が建てられていった時期っすからね。

エントランスの階段を上った先にはもう遺跡感全開。
ひだり みぎ
ひだり みぎ
悪天候ということもあるんだろうけど、何が凄いって他に誰もいないんすよ観光客。世界遺産なのに。

ひだり みぎ

ひだり みぎ

レバノンで楽しむローマの香り。確かにローマっぽくなってきた。

ひだり みぎ
祭壇と思しき一室はローマ帝国の本丸ローマに建てられたパンテオン神殿と同じ天井に穴が開いた丸屋根構造。


メインの建物以外は無造作に瓦礫がゴロゴロと転がっているような感じなんですが、柵もないし完全にお触りし放題という素晴らしいサービス精神。世界遺産なのにw

ひだり みぎ
いやー、凄いっすねこの規模感。世界に現存するローマ神殿の中でも最大規模らしいっす。

ひだり みぎ
瓦礫の大きさも半端ない。列柱の基礎だけでも私の背より高いとか。


修復中で足組に隠れちゃってるけど、ジュピター神殿を構成していた6本の列柱。規模でいうと、今でこそ列柱が遺るだけの状態になってしまっているが、中央の高台の上に立つジュピター神殿が最大の物だったそうだ。高さ20m、直径2.5mという大きさの柱からして当時の神殿の大きさが伝わってくる。


これで終わりじゃない。高台から横に目をやると、パルテノン神殿かのような建造物が視界に入った。こちらがバッカス神殿らしい。

コリント式の柱が神殿の内陣を取り囲むパルテノン神殿のような作りのバッカス神殿。高さ28m、幅34m、奥行き69mとスケールだけで言うとパルテノンを遥かに上回るし、現存するローマ神殿の中で最も保存状態の優れた遺跡ともいわれるだけあってほぼほぼ完全な神殿の形が遺っている。


屋根のみ欠落しているものの、神殿前面の階段からエントランス、内陣に回廊まで見事に残っている。日本では弥生時代で石器じゃ青銅器じゃとやってる頃にこんな建物を造っちゃうローマ帝国最強っすわ。




ひだり みぎ
壁民に浮き彫られた神話上の人物や植物も残っているし、神殿内部まで見応え十分。ローマ帝国でキリスト教が国教と定められた後は神殿の破壊が進んだそうだが、高台に建てられたジュピター神殿とは違い、バッカス神殿は発掘されるまで土に埋もれていた為に風化を免れたそうだ。


バッカス神のレリーフ。日本ではジュピターやヴィーナスと比べると知名度が低いが、ギリシャ神話に出てくる酒神・萄酒と享楽の神ディオニュソスのローマ神話版で、「豊穣と酒と狂乱の神」らしい。確かにリゾート地でウェイウェイしてそうな感じで描かれててぐう裏山。


ひだり みぎ
遺跡を見終わった後は、保存状態が良く価値の高いレリーフなどが展示された博物館を見て…と思ったんだけど…博物館内で待機してた運転手が「もう出発しないと最後のワイナリーに寄る時間が無くなるぞー」なんて脅してきたので博物館内は駆け足で。

広いとは言っても3-4時間ほどあれば十分に楽しめるので、バールベック遺跡だけを見るのであればベイルートから公共交通機関を使っての日帰り旅行も余裕そうっすね。

自分はこの後アンジャールの遺跡へと移動していきます。

中東のパリことベイルートの町を歩く

ノリでやってきたレバノン。

レバノン=中東のスイス、ベイルート=中東のパリなんて呼ばれて風光明媚な観光都市くらいのイメージのブランディングがされているようだが、吾輩がレバノンと聞いて思い浮かべるのはもっぱらダークサイド系。レバノン内戦、イスラエルによる空爆、シリア・パレスチナ難民、ヒズボラ、テロ、そしてここにきてのカルロスゴーンw
あとは、中東なのに砂漠が無くて自然が豊かだったり人口の4割がキリスト教徒だったりするし、中東の国というよりは、中東の中の欧州への海の玄関口的なイメージ。南欧と中東を混ぜ混ぜしたような。それくらい大雑把なイメージしか持ち合わせてない未知の場所なんですが、果たして首都ベイルートはどんな街なのでしょうか。


実際、宿泊先の前の通りは南欧のリゾート感があって中東感は皆無。女性がヒシャブではなくスーツパンツやノースリーブのシャツを着てたりするし、人々もノリが開放的で南欧っぽい。

ひだり みぎ
そして、くっそ大都会。長く続いた内戦で首都ベイルートのダウンタウンも瓦礫の山と化したらしいですが、中東のビジネス・金融センターとして栄えていた頃の栄華を取り戻すべく再開発が進んでいて、建設途中の高層ビルもバンバン建っている。

ひだり みぎ
ひだり みぎ
ひだり みぎ
中東のパリことベイルートの優雅な町並み。ダウンタウンはパリっとしたスーツを着こなしてカフェでミーティングする若いビジネスマンや買い物を楽しむイケイケお姉さんさん達で溢れていて、やっぱり想像してたレバノンとちょっと違った。アラブのイスラム圏では殆ど公にないアルコールも気軽に飲めたりするし、印パ・アフリカ系出稼ぎ労働者は皆無。湾岸諸国とは全くもって雰囲気が異なります。

Place de l’Etoile(エトワール広場)

ひだり みぎ
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ベイルートの中心広場には誇らしげにエトワール凱旋門のオマージュ的ロレックスの時計台が建つ。時計塔を中心に通りが放射状に広がっていて、建物ものパリ風でおしゃれなカフェやブティックが軒を連ねているのだが、時折流れてくるアザーンやアラブ語の放送が当地が中東であることを思い出させてくれる。

ベイルートスーク

エトワール広場近くにスークと書かれた場所を地図上に発見。ただ、中東の伝統的なバザールではなく、普通にオシャレでハイエンドな西洋風ショッピングモールで期待を裏切られた。屋台で売られるのはケバブではなくクレープだし、スーク内の匂いも香辛料じゃなくて品の良いパフュームで、聞こえるのも物売りの掛け声ではなくポップな洋楽。
ひだり みぎ

おしゃれレストラン、おしゃれブティック、おしゃれ映画館が並び、明らかに中東のスークではない。俺らはヨーロッパに近い存在なんだ!というメッセージをこめて西洋風に再開発されたんですかね。

まぁ元々がアラブ人の町ではなくフェニキア人により開かれた町で、ローマ人が発展させた町っすからね。ベイルートスークから徒歩数分、市街地のド真ん中にローマ遺跡があるくらいだし。
ひだり みぎ
今やどこからどう見ても瓦礫の山にしか見えないけど、町のド中心に建つ現代建築と共存する形で古代ローマ時代の神殿やら浴場跡なんかが保存されている。ただただ放置されているだけのようにしか見えないけど、この中東の地にローマ帝国が存在したことを証明するようなローマ列柱が並んでいて実に感慨深い。

ローマ浴場跡

ひだり みぎ
ベイルート市街地の中で数ある考古学的発掘地の中でも最大の物がローマ浴場跡。中東のこの場所が確かに古代ローマの一部だったという歴史ロマンを感じさせてくれる。


日本で言うと丸の内のド真ん中みたいな場所のビルの谷間に忽然と本格的な遺跡がさらっと現れるんですからね。え?内戦による廃墟じゃなくて?と突っ込みたくなるけれど、ローマ帝国時代の建造物の廃墟らしい。

Mohammad Al-Amin Mosque

ローマ浴場跡から東に100m程の場所にも実にレバノンらしい場所がある。

並び立つセント・ジョージ教会とモハメッド アル アミン モスク。イスラム教徒が6割、キリスト教徒が4割という人口構成のレバノンの首都ベイルートではイスラム教徒地区の西ベイルートとキリスト教徒地区の東ベイルートに居住区が二分されるそうですが、ここでは両者が隣り合って共存してます。これも他のアラブ諸国ではなかなか見れない光景でしょう。


ひだり みぎ
ラピスラズリ色をした丸屋根と四本のミナレットが特徴的なモハメッド アル アミン モスク。マムルーク朝、オスマントルコ、レバノンの独自スタイルを混ぜ合わせた独自の建築様式で建てられているそうだ。


モスク前は武装した治安維持部隊が目を光らせているなど、ここら一帯だけ少しだけ物々しい雰囲気。なんでも、内戦時はこのモスクの前が東西の境界線になっていたそうで、今でもモスク前の広場では政治的な集会が開かれたりするそうな。

Place des Martyrs(殉教者広場)

ひだり みぎ
なんたって、モスク前の広場は殉教者広場なんて名付けられてるくらいですからね。広場の中央に建てられた殉教者の銅像は腕が欠けてるし、体中に銃創が生々しく残ってるし。ここだけちょっと物々しい雰囲気でした。

教会群

東ベイルートにはモスクもあるけれど、やっぱり多いのは教会の方。ローマカトリック、ギリシャ正教会、アルメニア教会など、様々な宗派の教会が並び立っていて、イスラム原理主義者激おこ必至な街並みになっている。

ひだり みぎ
ステンドグラスが美しいセントルイス・ローマカトリック教会。



こちらはアルメニアン正教会のCathedrale Armenienne Catholique St. Gregoire – St. Elie。

ひだり みぎ
そしてギリシャ正教会の聖ゲオルギオス大聖堂 。


中央分離帯ブロックにも日本で言うところの道祖神や地蔵的な感覚でマリア様などの像が祀られていたり…

教会とモスクが隣り合って建ってたり、内戦時にできた銃創が残った像や古い廃墟のような建物やローマ遺跡が気高い洗練された洋風の街並みに同化するように残っていたり。治安自体は安定していると感じたけど、歴史的にも文化的にも複雑だし、地政学的にも難しい国なんすね。
地域大国に囲まれた歴史ある中東の小国レバノン。現在の小康期の先に待つのは、経済的繁栄の復活か、はたまた宗教的政治的混迷による治安悪化の再来なのか…観光的には世界遺産級の遺跡も多いので、イラクやシリアコースを辿らなければ良いですが。