駆け足で巡るミハイロフスキー城とストロガノフ宮殿

前回のエントリー(血の上の救世主教会)からの続き。

こんな感じで歩いていきます。

血の上の救世主教会からミハイロフスキー公園を東に突っ切ってミハイロフスキー城へ。
ミハイロフスキー城から南下し、ネフスキー大通り経由でカザン聖堂・ストロガノフ宮殿へ。
ストロガノフ宮殿からホテルへ。

17:55発のロシヤ航空運航便でモスクワへと飛ぶことになっているので、ここからは駆け足でパパパっと行きます。

ミハイロフスキー城(Mikhailovsky Castle)

血の上の救世主教会からミハイロフスキー公園を突っ切ると、正面にミハイロフスキー城の姿が見えてきた。

ミハイロフスキー城は、ロシアロシアロマノフ朝第9第皇帝のパーヴェル1世の宮殿として1797-1801年に建設された。どうやらパーヴェル1世は幼き頃から実母であるエカテリーナ大帝から疎まれており、母帝や臣下の手により暗殺されるのではとの恐怖に苛まれるあまり、政敵から自らの身を守る為要塞として、この城を建設したのだと。

ただ、偉大なる皇帝にして偉大なる母であったエカチェリーナ2世も寄る年波には勝てず、1796年に御年67にして崩御。大帝の跡を継ぎ即位したパーヴェル1世は自身の母という脅威から解き放たれたことで、ここぞとばかりに母帝の政治を全否定。エカテリーナ二世からの反動政治路線への舵取りを進めていった。戴冠式の日に男系男子による帝位継承のルールを定めて女性天皇を禁じてるくらいですからねw 「前任者による押さえ付けが厳しく今まではくすぶってたが、俺ちゃん皇帝になったからもう無敵!誰にも何にもいわせない!」独裁的創業者が死去して一気に態度を変貌させる中小企業二代目跡取り社長かw

こうした流れから建造が始まったミハイロフスキー城なのだが、やはりエカテリーナ二世派から刺客が送り込まれるのではとの疑心暗鬼が解けなかったのでしょう。時代錯誤にも四方を川と水濠で固め、跳ね橋まで付け守りが固められてるw 窓や扉には当然ながら鋼鉄製の格子が張り巡らされ、胸壁まで設けるほどの防御意識の高さw まさかこの頑丈な防備が身内に対するものだとはwww しかし、貴族の立場を強化した前帝とは反するパーヴェル1世の政治路線が貴族の反感を買い、この城に住み始めて40日後の1801年5月12日、城内の寝室にてパーヴェルの存在を良しとしない近衛将校により謀殺されてしまったそうだ。なんで、パーヴェルの息子でありエカテリーナ二世の寵愛を受けていたアレクサンドル1世も、パーヴェル1世の暗殺劇に噛んでいたとかいないとか…
ひだり みぎ

パーヴェル1世の死後は帝室一家はエルミタージュの冬宮に戻り、ミハイロフスキー城はパーヴェルの亡霊が出るとせず20年以上の長きに渡り放置。その後は工兵学校の校舎などに使われるなどしてきたが、現在は国立ロシア美術館の分館として利用されている。

と、いいますことで、早速、国立ロシア美術館との共通チケットでミハイロフスキー城へと入城したいと思います。

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四方に砲台を設置するなど外は立派な城なんだけど、内部はフェミニンな感じのデザインで流石に皇族の宮殿っぽい。悲惨な死を遂げたパーヴェルの幽霊がいまだにミハイロフスキー城に出没すると信じられているそうだが、果たして…

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生活感のある展示品が多いのだが、王が実際に使っていた私物?説明の大部分はキリル語で、英語による説明は殆どない為、内容はよく分からない。


絵画コーナーもあるが、エルミタージュ美術館新館と国立ロシア美術館を巡ってきた後だとがっかり感しか味わえない。すまん、パーヴェル。


因みにパーヴェル1世のご尊顔はこちら。ロシア皇帝って浮世絵離れしたイケメンが多い印象だったが、パーヴェル氏にはなんか妙に親近感を覚えるというかw

ひだり みぎ
うーん、この…。

ミハイロフスキー城の見学を終え、霊に取りつかれても困るので足早に立ち去ることに。

【ミハイロフスキー城】

所在地:Sadovaya St, St. Petersburg.

ネフスキー大通り(Nevsky Street)

ここからはサンクトペテルブルクの目抜き通りであるネフスキー大通りを通って宿泊先の近所にあるストロガノフ宮殿へと向かう。

旧海軍省とアレクサンドルネフスキー大修道院間の約4.5kmを結ぶネフスキー大通り。華やかな道の両側には、百貨店やオシャレなレストランだけでなく、カザン聖堂やストロガノフ宮殿を始めとする歴史的建造物も多く建ち並ぶ。銀座に宮殿や聖堂要素をプラスしたような感じといったところか。

ひだり みぎ
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まるで建築物の博物館と言わんばかりに重厚感溢れる建物が次々と並び、どこを切り取っても絵になるインスタ映えストリート。


凄い高級なブティックなんだろうなーと思いきや、案外ZARAとかだったりするw

カザン大聖堂(Kazan Kathedral)

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ネフスキー大通りに面して半円状に弧を描くように建てられたこちらの迫力ある建物はカザン大聖堂。例のパーヴェル1世が聖母カザンのイコンを納める為に建てたそうだ。血の上救世主教会イサク大聖堂が博物館と化しているのに対し、カザン聖堂はサンクトペテルブルクに於けるロシア正教会の総本山。ガチの聖堂の為に内部の写真撮影は禁じられていて写真は無いが、現役の祈り場だけあって、内部は血の上の救世主教会やイサク大聖堂とは比べ物にならない緊張感がありました。

【カザン大聖堂】

所在地:Kazan Square 2, St. Petersburg.

ストロガノフ宮殿(Stroganoff Palace)


さらに通りを進んでネフスキー大通りの西側の終点も近づいてきたあたり、モイカ川の手前左側にピンク色をしたストロガノフ宮殿が見えてきた。

え、ビーフストロガノフのストロガノフ?と思ったが、ビーフストロガノフは本当にストロガノフ宮殿の主に由来するらしく、当時のロシア帝国の伯爵であるストロガノフ家一族が来客もてなし用の馳走として考案したのがビーフストロガノフということらしい。宮殿内にはちゃっかりレストランまで運営していて、ストロガノフ宮殿で元祖ビーフストロガノフが食べれるらしい。
ビーフストロガノフとか、名前からしてロマンたっぷりで格好いい!なんて思ってのだが、田中家の牛肉見込み的な名前なのかと思うとちょっと幻滅。

宮殿自体は、伯爵であり大富豪であったストロガノフ一族の為に1753年から1756年にかけて建造され、1988年からロシア美術館の分館として使用され、我が家はビーフだけではないとばかりに様々な丁度品が披露されている。
ひだり みぎ
大きなゲストルームやダイニングルーム、ダンスホールなど、帝政ロシア時代の特権階級でブイブイ言わせていたストロガノフ伯爵の権威の片鱗が見て取れる。

ひだり みぎ
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壁の絵柄のセンスからして非凡。

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ロシアの偉人の肖像画付きの食器類。趣味悪い感じですが、当時は流行ってたんですかね。それとも、特権的立場を保つ為のごますりで、王朝の偉人グッズを買い集めてたんですかね。

じっくりと見て回る時間はありませんでしたが、特別に時間を取って来る場所でもない気がした。これならもう少し国立ロシア美術館で時間を取った方が良かったかもしれんと後悔しながら空港へと向かう。

【ストロガノフ宮殿】

所在地:Nevsky avenue 17, St. Petersburg.


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おどろおどろしい名前の由来は?血の上の救世主教会

国立ロシア美術館でロシア芸術を楽しんだ後は、いよいよサンクトペテルブルクの象徴的存在である血の上の救世主教会へと向かう。

血の上の…なんておどろおどろしい名前で呼ばれることの多いこちらの教会であるが、ハリストス復活大聖堂という立派な公式名称もある。それでも「血の上の教会」の愛称で呼ばれるのは、この教会が、ロシア皇帝アレクサンドル2世が革命派による凶弾に倒れた場所に建てられた為。

時は19世紀のアレクサンドル2世による治世。クリミア戦争の最中に崩御したニコライ1世に代わって即位し、農奴制を解体するなどロシアの近代化を進めるべく大改革を実施したアレクサンドル2世。しかし、一連の近代化政策による効果が上がらない状況が続いたことで社会不安が増大。更には皇帝が反動的政策をとり始めたことで民衆集団、政治集団、革命集団の過激化を招き…1881年3月、遂に皇帝までもが革命派による爆弾テロにより斃れ、その暗殺現場に教会が建てられたのである。故に血の上の救世主教会は、文字通り、血の上に建てられた教会なということなのだ。謎めかしいロシアにあるということもあって、血をも恐れない超原理主義的ロシア正教徒の根拠地くらいに思ってたわ。

そんな血生臭い建設由来とおどろおどろしい名前を持った教会がありそうにもない感じの平和な通りを歩いていると、視線の先に尖がりコーンが見えてきた。


運河効果で更にほのぼの感100倍。運河に沿って並ぶ露店の客引きもゆるーくやってます。


土産物屋の主力製品はやっぱりマトリョーシカ。


女性をモデルとした定番物だけでなく、ピョートル1世、ニコライ2世、レーニン、スターリン、ブレジネフ、ゴルバチョフ、エリツィン、プーチンといったロシアの歴代政治指導者をモデルとしたチョイ悪系マトリョーシカも。プーチンの中にエリツィン、その下にゴルバチョフ…メンツが濃すぎるぞ。

土産物屋を冷やかしながら歩き、教会の前の広場へと出た。
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名称や教会の建設由来に反し、ザ・ロシア正教会的な玉ねぎ型のクーポラや、おとぎの国のお菓子の家かのようなカラーリングとデザインが妙にかわいらしい。なんだったらプーチン氏のご結婚を祝ウェディングケーキの再現ですと言われても信じちゃいそうだし。名前と中身のギャップが人気の秘訣なのだろう、私も激しくギャップ萌えしちゃいました。


でも、ディティール見てると、そこはかとなく邪悪な感じが漂ってくるというか、中にボスがいそうな不穏な感じがする。玉ねぎも邪道な感じで刺々しかったり…

ここは入る前に装備品を整えてきたいところだが、近くに売っているものと言えば戦闘には役に立ちそうになりマトリョーシカくらい。諦めて初期装備の“ぬののふく”で教会ダンジョンに突入する。
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中に入るといきなりクライマックスというか、アレクサンドル2世が暗殺された場所に建つ小さな聖廟がある。まさにここが“血の上”ということになるが、歩道の敷石と鉄製の手すりは当時のままの姿で保存されているらしく、ここだけ周りより低くなってて、ちょっと不気味に思えるくらいのリアルな血の上感を味わえる。

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中央に進むと、壁という壁、天井という天井にはびっしりとモザイク画が描かれていて、聖なる空間感が半端ない。こんな神聖なる空間、宗教の一切が否定されたソ連時代はどうしたんだろう?と思ったら、やっぱり荒らされまくった挙句に野菜倉庫とかゴミ置きにされてしまうという憂き目に遭ったらしい。一般に公開されるようになったのもソ連崩壊後の1997年と比較的最近なんですね。アレクサンドル2世も浮かばれません。

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モザイク画のテーマは教会建立の由来が由来だけに、聖書の中から悲劇的な要素の強い主題がピックアップされている。これらは複数の芸術家により作成されているので、よーく見てみると作風が微妙に違ったりして面白い。


このモザイク画の質感、伝わりますでしょうか。360°見渡す限りに小さな陶片や宝石で埋め尽くされていて、鮮やかな色彩で視界が一杯になる。


ロシア正教の教会らしく、祭壇のてっぺんにも形の良い玉ねぎが付着。

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隙あらばジーザス。ジーザスを探せみたいになってる。


土産物も勿論ジーザス尽くし。タロットカード的なものなのか、マジックザギャザリング的なカードが多数揃っています。

【血の上の救世主教会(Church on Spilt Blood)】

公式サイト:http://eng.cathedral.ru/spasa_na_krovi/
所在地:26 A Griboedov Canal Embankment, St. Petersburg
電話:(821)3151636
営業時間:10:30-18:00(4月下旬-9月は22:30まで)


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ロシア人作家による名作が充実 ロシア国立博物館

さあ行きますよ、サンクトペテルブルク観光二日目。

本日の観光スポット巡り、先鋒としてお相手を務めてくれるのは、多数の名作絵画を所蔵する国立ロシア美術館。サンクトペテルブルクの美術館と言えばエルミタージュ美術館ですが、この国立ロシア美術館も美術館としての魅力としては負けていない。

エルミタージュ美術館の新館にも絵画の名作が大量に並んでいますが、エルミタージュがゴーギャン・ピカソ・モネといった誰でも知ってる世界的な芸術家の作品を並べるの対し、この国立ロシア美術館はあくまでローカル志向。エルミタージュ美術館が国外の芸術品を集めているのに対し、国立ロシア美術館はロシア人画家による美術品に特化。ロシア人芸術家による絵画作品収蔵数では、世界でも有数のコレクション数を誇る美術館なんだそうです。これは行かないわけにはいかないでしょう。


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早速、ヴェニス波並みに運河が発達したフォトジェニックな水の都を歩いて博物館へ。

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2ドアクーペなのにくっそ車体が長いリンカーンコンチネンタルの五代目。こんな渋い車がさりげなく街並みに溶け込んでるんですからね。インスタ映えする都市ランキングでも上位に位置することでしょうw



マネキンが砂袋被せられて誘拐される人みたくなってるが、サンクトペテルブルクはファッション分野でも最先端。これはロシアの英雄・ピョートル大帝が築いた聖ペトロの町ですわ。


美しい水の都を歩いていると、運河の先にサンクトペテルブルクの象徴的存在の血の上の救世主教会が見えてきた。

だが、先ずはこちらの見学から。血の上の救世主教会から歩いて3分ほどのところにある国立博物館へ。
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1898年、皇帝ニコライ2世の勅令によってロシア美術専門の美術館として開館した国立ロシア博物館。所蔵品は約40万点にも及び、12世紀頃のイコン画からソビエト時代の絵画、20世紀のロシアアヴァンギャルド作品まで、ロシア美術が今日まで辿ってきた道のりを辿ることのできる作りとなっているらしい。


豪華なことに1825年に建てられたミハイロフ宮殿が美術館として利用されていて、建物だけでも一見の価値がある。


ミハイロフスキー宮殿(ロシア国立美術館)の運営団体は、ストロガノフ宮殿、大理石宮殿、ミハイロフスキ城といった観光スポットも別館として従えているらしく、3日間有効で4カ所全てに入れるお得なチケットも用意されていた。

3日間有効で4カ所に入れるチケット:900ルーブル
1日間有効で2か所のみに入れるチケット:650ルーブル
ロシア国立博物館のみに入れるチケット:450ルーブル

ワイは今日の夕方にはモスクワへと飛ぶ計画になっていたけれど、ロシア国立博物館以外にもストロガノフ宮殿とミハイロフスキ城には行きたかったので、900ルーブルのチケットを購入して宮殿内へと入る。

一歩中に入ると、両側に広がって二階へと続く中央階段と、二階部分の白く立派なコリント式列柱が正面に現れ、ここが帝政様式の宮殿として建てられたということが直ぐに分かる。




ひだり みぎ
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宮殿の中に並ぶ数々の名作は年代別に展示されていて、イコン画に代表される宗教画が描かれていた時代から、古典的な技法での貴族の肖像画ばかりだった時代、ロマノフ朝の民衆や歴史画が描かれるようになった時代、そして現代的なロシアンアバンギャルドの時代へと、ロシアの美術史を順に追っていけるような分かり易い構成になっている。

最も古い時代の作品は、教会や礼拝堂の為の宗教画であるイコン画。

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ロシアが誇る天才イコン画家アンドレイ・ルブリョフによる作品をはじめとした宗教画が並ぶ。

続いて、ロマン主義時代きっての肖像画家オレスト・キプレンスキーによるダヴィードフの肖像が、でーんとどでかく飾られている。
Orest Kiprensky:《Portrait of Yevgraf Davydov》(1809)

この時代の絵画といえば、貴族や司令官クラスの軍人の肖像画がメイン。芸術自体が一部の特権階級のみに広がるエクスクルーシブなものだった。

19世紀のコーナーでは、絵画の皇帝ことカール・ブルーロフのポンペイ最後の日が一番の注目を集めていた。456.5×651cmという超大作だ。
Karl Bryullov:《The Last Day of Pompeii》(1830-1833)

今から約2,000年前の西暦79年。豊かな生活を楽しんでいたポンペイ市民に、突如、最後の日が訪れた。古代ローマでヴェスヴィオ火山が大噴火を起こし、ポンペイの町が一晩で火山灰の下に埋もれ消滅したのである。
空を焦がす炎、雲を引き裂く幾筋もの稲妻、黒く淀んだ空から降りかかる火の粉、逃げ惑う人々。ここに描かれた人々は誰一人と生き残らなかったであろうことを考えると…今にも人々の断末魔が聞こえてきそうな迫力だ。

海をテーマに数千にも及ぶ名画を残したイヴァン・アイヴァゾフスキーの作品も印象的。
Ivan Aivazovsky:《Wave》(1889)
Ivan Aivazovsky:《A View of Odessa on a Moonlit Night》(1846)
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臨場感があるというか、あまりにもリアルで額縁を超えて水が溢れ出してきそう。

リアルさで言えば、18-19世紀ロシア美術の最高傑作の一つとされるアレクサンドル・アンドレイェヴィチ・イワノフの“民衆の前に現れたキリスト”も鳥肌物。
Alexander Ivanov:《The Appearance of Christ Before the People》(1857)

イワノフ先生が20年もの年月をかけ描き上げたワイフワーク的超大作。一人一人の表情から各人の人間性すら伝わってきそうなくらいにリアルで、見ていてちょっと気持ち悪くすらあるw

ここまで19世紀前半に到るまでのロシア絵画の展示が並び、いったん1階に降りてからは19世紀後半からの、所謂「移動派」と呼ばれる先生方のコレクションが続く。
wikipedia先生による説明の受け売りだけど、「移動派」とは簡単に言うと、西欧絵画の真似事ばかりで硬直しきった帝政ロシアの官立美術アカデミーに反旗を翻した若い写実主義の画家の集まり。拠点を持たずにロシア全国を巡回して展覧会を開いていたことから「移動派」と呼ばれるようになったらしい。

彼らのモットーはリアリズムと反権力的批判精神をベースにした“自由”と“ナロードニキ”。絵画のテーマや描き方まで制限をするアカデミーの指導を拒絶し、民主主義的な理想のために全国を練り歩いたそうだ。この彼らの活躍により特権階級のものだった芸術が一般民衆に解放され、以降、様々なテーマの作品が描かれるようになるきっかけとなったらしい。確かに、このあたりから美術館内の作品の多様性が出てきて、肖像画や宗教モチーフの作品よりも、農民や大衆を描いた作品や歴史画が増えてきた。

その移動派の代表的な画家の一人が、貧困や差別にあえぐ社会の最下層を題材とした作品を多く残したイリヤ・レーピン。
Ilya Repin:《Barge Haulers on the Volga》(1873)

彼の代表作が、こちらのヴォルガの船曳き。疲れ果てた労働者たちが、奴隷さながらの粗末な恰好で船を曳っ張っている。悍ましいほど凄惨な風景であり、なんだか不気味というか、恐怖すら感じる画風である。

ぱっと見、ヴォルガの大自然を背景に、非人間的で過酷にあえぐ絶望的に貧しい民衆たちのたくましい姿を描いた作品だ。澄み切った綺麗な空気とは対照的な、まるで別世界の住人かのように汚れ切った哀れな男たち。重々しいロシア民謡の調べにのった、地面の底から湧き出てくるような低い歌声で男性合唱が聞こえてくるような迫力がある。

しかし、美術館の公式ホームページから引っ張ってきた画像で一人一人の表情をみてみると、真っ黒に焦がした顔を下に向けた作業者の中に、目を見開き前を見据える肌の白い少年の姿がある。

まるで、逆境の中でも現状に甘んじることなく、高い志と希望を失わずに前を向いていこうというメッセージかのようだ。同じ境遇の仲間と慣れ合うだけじゃだめだ。サラリーマンの群れの中で、日々惰性的に、享楽的に過ごすだけで年を重ねる自分にも、ぐっと心に突き刺さるものがある。

この美術館内に於いて、レーピンと同様、いや、それ以上に扱いが大きかったのは大作の歴史物を得意としたワシリー・スリコフ。
Vasily Surikov:《Suvorov Crossing through the Alpes in 1799》(1899)

7年戦争、ポーランド侵攻、露土戦争、ブカチョフの乱、第二次露土戦争、フランス革命戦争と歴戦を重ねながら、軍事史上まれな不敗の指揮官としてその名を残すスヴォーロフ将軍。


奇行エピソードがあまりに多すぎて、漫画の世界ではもはや人間扱いすらされなくなったエキセントリックな彼w

その彼がフランス革命戦で敵軍の追撃を振り切るために大胆なアルプス越えの作戦を命ずるシーンを描いたのが、スリコフの大作“アルプスを越えるスヴォーロフ”。

この、もうやけくそ-って様で飛び降りていく家来たちがまたね…集団自決の絵かと思い間違える程、表情から絶望感が滲み出ています。背に腹は代えられないとはいえ、アルプス越えって破天荒すぎるでしょw 因みにこの時、将軍は御年68の高齢。戦にも勝ち、アルプスにも勝ちました。

歴史物が大好きなスリコフの大作をもう一発。
Vasily Surikov:《Stepan Razin》(1906)
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人類史上稀にみる大盗賊団の頭であるステンカ・ラージン(スチェパン・ラージン)がカスピ海を渡る姿を描いたこの作品。
ドン・コサックの首領だったステンカ・ラージンは農奴の開放・貴族専制性の廃止という大義名分を掲げて戦った農民反乱の指導者。重税にあえぐ民衆の支持を受けて勢力を拡大し、最後はロシアからの独立とコサック共和国の建設を目指して反乱を起こしたが、最後は仲間の裏切りにより捕らえられ、赤の広場で八つ裂きの刑に処されたそうだ。歴史的には貴族支配に立ち向かった英雄として語られていて、ステンカの反乱が後の後世の民衆に勇気を与え、プガチョフの反乱、そしてロシア革命へと繋がった重要な歴史のターニングポイントだったと評価されているらしい。

スリコフは題材のチョイスが面白いっすね。

レーピン、スリコフを中心とした「移動派」の作品群の展示が終わると、順路は再び2階へ。ここから先は20世紀の絵画作品の展示となり、またも作品の雰囲気が一変する。
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Arkady Plastov: 《Kolkhaz Holiday》(1937)
Alexander Gerasimov: 《A Hymm to October》(1942)

ひだり みぎ
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ソビエト時代の独特な作品集。

ひだり みぎ
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前衛的な作品の数々。


マッツ・ミケルセンさんですよね?

いやー、面白かった。最後は時間の関係で駆け足になってしまいましたが、結局、開館から3時間以上は費やしてしまいました。絵画に関しては全くの門外漢だったけど、全然楽しめましたよ。

所感

エルミタージュ美術館と比べて:
・人が少なく芸術鑑賞の場としては落ち着いていて良い
・ロシア人作家の作品に特化
・縦横数m級の規模が大きく迫力がある作品も多い
・知らない画家による作品も多く、先入観なく鑑賞できる

サンクトペテルブルの美術館と言えば世界三大美術館にも数えられるエルミタージュ美術館だけど、落ち着いた環境の中でロシアの歴史について学ぶなら国立ロシア美術館が断然お勧め。

【ロシア国立美術館(The State Russian Museum)】

所在地:4 Inzhenernaya Str., St. Petersburg
営業時間:10:00-18:00(木曜日のみ-21:00)
定休日:火曜日
ホームページ:http://en.rusmuseum.ru/


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サンクトペテルブルク発祥の地・ペトロパブロフスク要塞

ピョートル大帝の遷都計画により造られた人工都市サンクトペテルブルク、その中では初めに工事が着手されたのが、これから向かうペトロパブロフスク要塞。ロマノフ王朝のバルト海進出に伴い対スウェーデン戦の橋頭堡としてネヴァ川の畔に築かれた堅牢な要塞で、要塞を取り囲む厚く高い塀の中にはピョートル大帝を始めとする歴代の皇帝が眠る霊廟や、各種博物館なんかもあったりして、サンクトペテルブルク観光の目玉の一つとなっている。


ちょうど前方に金色の尖塔が見えるのだが、これはテレビ塔ではなく、要塞の中心部に建つ霊廟兼大聖堂。要塞なんて言うんでもっと高い塀に囲まれているかと思いきや、案外そうでもないなw


道中には二本セットのロストラの燈台柱が。ネヴァ川の航路の安全の為に19世紀に設置されたものなんだが、敵軍の船首を切り落として柱の飾りにした古代ローマ海軍の習慣に由来して、このような船首が飛び出た設計になったらしい。トーテムポールかと思ったわw

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このロストラの燈台柱を目印に要塞へと向かっていると、前方右手に軍艦を発見。バルチック艦隊の主力の一つで、かの有名な、巡洋艦オーロラか!?と思いきや、単なるレストランだった。レストランという名のレストラン。


クンストカメラから歩くこと10分ほど、ようやくサンクトペテルブルク発祥の地である要塞へと入るための橋が見えてきた。


上から見ると函館五稜郭みたいなペトロパブロフスク要塞、陸からの入口は西南側(クロンベルクスキー橋)と北東側(イアノフスキー橋)の2ヶ所に設けられている。要塞内に入るのは無料だけど、要塞内の各種スポットに入るのに入場料がかかるシステムとなっている。島全体としては歩いて1時間ほどで一周できる小さなもの。


「首座使徒ペトル・パウェル大聖堂」「監獄」「司令官の館(サンクトペテルブルク博物館)」「ペトロパブロフスク要塞博物館」「宇宙とロケット博物館」の5か所それぞれに入場料が設けられているようだが、面倒くさいので5か所全ての通しチケットを購入。ラーメンとかでも困ったら全部乗せにする欲張りな男ですからね。

首座使徒ペトル・パウェル大聖堂


先ずは要塞内でも一番の見所である大聖堂、通称、ペトロパブロフスク大聖堂へ。

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聖廟にもなっているからか、中は他のロシア正教会とは若干異なる造り。イコンやイコノスタスが無くサッパリとした厳かさというか。

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聖堂内には、エリザベス1聖やエカテリーナ2世、ニコライ2世といった、ピョートル大帝以降の殆どの皇帝・皇后が埋葬されている。荘厳な造りの聖堂に大量の棺が並ぶという、なんとも不思議な空間っす。

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お休みのところ恐れ入ります。


ロシア正教会独特の雰囲気。

監獄

続いて向かうは要塞内の監獄。スウェーデンの脅威が低下した19世紀以降は要塞としての機能は落ち、もっぱら政治・思想犯収容所として活用されていたようだ。

皮肉なことに最初に投獄されたのはピョートル大帝の皇太子アレクセイ。謀反の罪で投獄され、拷問のすえ獄死。その後、反体制運動に従事したバクーニンやトロツキー、さらにはゴーリキーやドストエフスキーといった文学者も収監されていたらしい。そういえばドストエフスキーさん、シベリア流刑になったりしてたんだよな。

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薄暗い1階には囚人服や刑具といった展示品が並ぶ。冬服はフェルトのような暖かそうな生地でできてるけど、真冬でこの服だけというのはきっついわ。


展示コーナーを抜けると薄暗い廊下が続き、通路に沿って囚人部屋が並ぶ。


新入りが囚人服に着替えさせられる様子の再現。どことなくユーモラスな作りだが、当時のロシアの監獄とか絶対やばい。

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監獄は時代ごとの部屋が覗き込めるようになっているが、政治犯用の監獄故に大半は簡素な独房となっている。ただ、部屋によってはパネルに描かれた囚人が立てかけられていたり、落書きを再現してあったりと、ゾっとする演出もちらほら。


部屋によってはこういった入所者も。ナロードニキ運動の主導者が男女見境なく大量にぶち込まれていたらしい。別に彼らを称賛するという訳ではないが、革命に人生を捧げる人生とか本当凄すぎるわ。

次へ。

くっそ小顔なピョートル大帝像。大男だったことを強調する為か知らないが、手足も異常に長くて完全にキャプテン翼の世界。


この15頭身軍団に混じってても違和感ない。

司令官の館(歴史博物館)


お次はサンクトペテルブルク博物館となっている司令官の館へ。


と思いきや…中では音楽会が開催されているようで、ロシア語で罵倒(?)されながら死神落下傘の異名を持つセルゲイ・ハリトーノフ似のトランペット演者により摘み出される羽目に。いやいや、クローズしてるなら入場券の購入時に教えてもらいたいし、せめて入口にクローズの張り紙くらい張っておいてくれよ。なんで死神落下傘に罵倒されないといけないんだ。そのままスパイ容疑で隣の監獄にぶちこまれるのではないかと冷や冷やしたわ。

気を取り直して北東側の入口を目指して歩いていると、ドラゴンボールでギニュー特戦隊が乗ってきた丸型宇宙船を発見。
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キャプテン翼とかドラゴンボールとかオタクかよ!とつっまれそうだけど、ちょっ、まっw リクームとかグルドとか来てらっしゃいます?www

宇宙とロケットの博物館


いや、どうやらギニュー特戦隊が乗り捨てた宇宙船ではなく、ソ連・ロシアが誇る宇宙とロケットに関する博物館の野外展示品だったようだ。

ひだり みぎ
ひだり みぎ
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ここにきてのいきなりの科学力自慢に戸惑うが、まだ宇宙飛行が夢だった宇宙開発競争時代を生きた先駆的な研究者の紹介から始まり、1957年の世界初の人工衛星スプートニク1号に搭載されたエンジン回りを含む基幹部品や、1961年にヴォストーク1号で世界初の宇宙飛行士となったガガーリンなどに関する興味深い展示品が並ぶ。


この籠みたいなのとか、なんだと思います?


英語での説明が無いので確証はないけれど、写真から判断する限り、史上初めて他の天体の上に到着した遠隔操作可能ロボット・ルノホートの車輪っす。それぞれが独立したモーターで駆動、接地部分にはチタンブレードが取り付けられている。

いやいや、まったくもってペトロパブロフス要塞やロマノフ王朝と関係なくね!?と突っ込みたくなるが、意外とここが一番楽しめたかも。


結局要塞には2時間半程いたのかな。見所を周り終え、北東のゲートから出てホテルへと戻る。

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ピョートル大帝が築いた水の都サンクトペテルブルク。その発祥の地であるペトロパブロフス要塞は要塞要素は薄いけれど、要訪問スポットです。敷地内に入るのだけは無料ですしね、要塞内で黄昏るだけでも観光気分に浸れます。


良いわー、聖ペトロの町・サンクトペテルブルク。

【ペトロパブロフス要塞(Peter and Paul Fortress)】

所在地:3 Petropavlovskaya Krepost, St. Petersburg
電話:(812)2306431
アクセス:地下鉄 ゴーリコフスカヤ駅下車
公式サイト:https://www.spbmuseum.ru/?lang_ui=en


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ピョートル大帝の個人的コレクションを並べた博物館 クンストカメラ

続いて、聖イサアク大聖堂から歩いてネヴァ川の対岸へ。

本命はペトロパブロフスク要塞だが、先ずは橋を渡った先のピョートル大帝記念 人類学・民族博物館を目指してみることに。創立は1714年、ピョートル大帝の個人的コレクションをベースとした作られた博物館で、ロシアで最初に創設された公的な博物館とも言われている。

珍スポット好きの好事家には「クンストカメラ」という別名で知られている。クンストカメラという語感からソ連製レトロカメラの展示館かと勘違いしてしまいそうだけど、ドイツ語の「Kunstkammer(驚異の部屋)」を由来とするピョートル大帝肝入りの博物館ということだ。

もともとサンクトペテルブルク自体が聖ペトロの町という意味で、ピョートル大帝が当時のヨーロッパの最先端文化を取り入れ築き上げた都市ですからね。ピョートル大帝の個人的コレクションを基に創設されたクンストカメラもロシア近代化の象徴であり、ロシア国民の教養レベルを底上げするための文化事業的な側面もあったそう。

ひだり みぎ
ピョートル大帝が築いた聖ペトロの町を歩いて向かう。

やっぱり銅像が多い。
ひだり みぎ

ロマノフ王朝の偉人なんだろうが、説明書きは全てキリル文字。意味のある言葉よりも絵文字や象形文字にしか見えず、脳みそが全力で理解することを拒んでくる。

聖イサアク大聖堂から真っ直ぐに5分ほど歩くと、ネヴァ川に出た。

対岸のバロック風の建物と川とのマッチが絵になるなー。


宮殿橋を渡って対岸へ。正面に見える淡いエメラルドグリーンの建物がクンストカメラらしい。


川辺に建つ優雅な雰囲気のクンストカメラ。ここでガイドブックをチェックする。

館内にはピョートル大帝が個人的に収集した世界中の民族資料や、人体標本コレクションがメインで展示されている。

んん?人体標本コレクション?

ええ!?
ガイドブックを二度見すると…
奇形児や胎児、エカチェリーナ1世の愛人だったウィレム・モンスと妹アンナ・モンスの頭をアルコール漬けにした標本なども展示されている…
と確かに記載されている。妻であるエカテリーナ1世の浮気に憤怒したピョートル大帝が相手の男の首を刎ね、アルコール漬けにして妻の寝室に飾らせていたものだそうだ。この皇帝の私怨…おそロシア。

恐る恐る中に入ってみると、1階は世界の民族コーナー。人類学・民族学と冠しているだけあり、世界各地から寄せ集められた民族学的資料が多数展示されている。

ひだり みぎ
充実のエスキモーコーナー。


攻撃姿勢を取るエスキモー。


蘇生を試みるエスキモー。

ヤポニア(日本)コーナーも。

日本の宗教観を表した展示品だろうか。稲荷神社とお釈迦様と一緒に小さなケースにぶち込まれた神主さんが困惑の表情を浮かべてる。


ひときわ沢山の衆目を集めていたSAMURAI!

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日本についてのコーナーは大々的に設けられていて、陶器や刀といった定番物から巫女装束や雛人形、茶摘み婆といった多数の展示品までが並んでいる。きっと他の国の展示品も、その国の人が見たら「んんん?」となる物があるんだろうな。まぁなんたって300年も前のコレクションですからね。物事が常に更新され、古いものは絶えず淘汰され押しのけられていく時代なのに。

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インドコーナーは宗教的な物を中心に。

二階は中国・モンゴル・韓国が中心となっているが、それぞれの扱いは非常に小さい。

ピョートル大帝はヤポニアへの興味が強かったのかな。やっぱり日本コーナーの充実ぶりは抜きんでてると思う。あと、謎のエスキモー推し。

ひだり みぎ
ラテンアメリカは原住民の服飾文化に関する展示がメイン。ポロリもあるよ。

一通り博物館内を回ってみたけど、やはり衝撃的なのは、数多くのいわゆる奇形児のホルマリン漬けや標本が展示されたこちらのコーナー。
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オランダの解剖学者フレデリック・ルイシュらから買い取った胎児のアルコール標本の数々が展示されている。

また、ロシア全土から奇形な体や規格外な体系を持つ人々を蒐集され標本となった方々も…。人類学・医学の研究のために収拾・公開したという大義名分があるらしいが、単にピョートル大帝の興味というか、見世物小屋的な動機だったんじゃないかな。処刑した妻の浮気相手の標本まで展示されてるわけだし…。社会主義的な狂気を感じる。

写真撮影は許可されているが、流石に露骨にホルマリン漬けの人間の写真を撮る気にはなれんかったので、興味のある方はぜひクンストカメラまで…

レストラン

ひだり みぎ
クンストカメラを出たところに、クンストカメラの入場券を見せれば20%引きとなる洒落たレストランがあったので入ってみた。

ひだり みぎ
良い雰囲気。全然客が入ってないけどw


ビーフストロガノフにボルシチ・ピロシキというロシア料理の3巨頭にロシアンビールを注文。


重慶火鍋を彷彿とさせる赤さだが、こちらはビーツ由来の赤さなので辛さは一切ない。ピョートル大帝の残虐ぶりを見た後だけに余計にグロく思える見た目だが、寧ろ見た目に反して口当たりが良い。


これだけ食べて936ルーブル(≒1,600円)。ルーブル安最高。

【クンストカメラ】

所在地:University Embankment, 3, Sankt-Peterburg, ロシア 199034
営業時間:11:00-18:00
定休日:月
入場料:大人300ルーブル、学生100ルーブル
ホームページ:http://www.kunstkamera.ru/en/


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