オールドマラッカで見つけた白珈琲

トゥンタンチェンロック通りで海峡華僑達が築いた古き良きオールドマラッカの時代を感じた後も、引き続き異国情緒溢れる住宅街が立ち並ぶチャイナタウンの探索を続けてみる。しかし、残念なことに細い路地のくせして交通量が多すぎる。その上、歩道らしい歩道もないため、邸宅の美しい外観を眺めながらのんびり歩かせて頂けず、狭っ苦しい小通りに観光客と通過車両が錯綜するという醜い状態に陥ってしまっている。チャイナタウンはマラッカでも有数の観光資源なんだし、自動車に若干の遠回りを強いることになったとしても、通過するだけの一般車両の流入は制限すべきだろうと思うが難しいのだろうか。それが難しいのであれば、路肩に停まる車の数を制限して頂きたい。邪魔なうえに歩道も非常に狭く、散策を楽しもうにも興がそがれてしまうし、何より美しい町並みの景観を崩してしまっている。現状のまま放置せず真剣に対策に乗り出して頂きたい。
DSC_3442

DSC_3477

DSC_3481

DSC_3486

DSC_3494
洋館があると思ったら隣の通りには中国っぽい建物が並んでいたりするのが面白いところ。ここら一帯はチャイナタウンと銘打ちながら、キリスト教の教会にイスラム教のモスク、ヒンドゥー寺院などが集中している。しかも、単に寺院が隣接しているだけでなく、あろうことかイスラム寺院のすぐ傍らで堂々と禁忌の豚肉料理を販売したりと、長い歴史の中で培ってきた象徴に留まらない寛容さが垣間見られるのが微笑ましい。実際に多くの民族が隣り合わせながら暮らしているようで、異民族が平和に共存するマレーシアを象徴するようなエリアであり、通りの名前がハーモニー通りとなっているのも納得だ。

DSC_3454

DSC_3455

DSC_3484
それでもやっぱりこの町の主役は華人たち。福建会館や永春会館という華僑の同郷の為の集会所がある。永春とは現在の福建省泉州市の一地域のことで、かつて『海のシルクロード』の東の起点としてマルコ・ポーロの東方見聞録にも登場したほどの大港湾都市だったのだとか。土砂の堆積により港湾機能を喪失したのち、市民は活路を求めて東南アジアの各地に移り住んでいったらしいのだが、その末裔たちが同じく海上貿易の要衝地だったマラッカに根を張っているというのは面白い事実である。

DSC_2445
中国の道教寺院も発見。こちらは由緒あるチェンフーテン(青雲亭)。明の永楽帝の命を受けて大遠征を指揮した鄭和の功績をたたえて1646年に建立された、マレーシアに現存する最古の仏教寺院とのことだ。見ごたえの有りそうな寺だったが、生憎クアラルンプールへの戻りバスの時間が迫っているので本殿のみ拝んで見学を終了する。

DSC_3441
バスターミナルまで戻ろうと帰路についたのだが、途中で大量の中国人観光客が押し寄せる土産屋を発見。その名も三叔公。

DSC_3437

DSC_3433
はちみつジュースとドリアンのカキ氷を試してみたが、これがなかなか美味しいということで、何かここで土産を買おうと店内を見て回ることに。

こ、これは…
DSC_3439
ホワイトコーヒー…??マレーシアの華人の間ではずばり漢字で「白珈琲」と呼ばれているこのお品、一体なんなのか。コーヒーはブラックであり、たとえミルクを入れたとしても、白みがかって褐色になるくらいで、まるっきり白くはならないだろう。思いっきり練乳を入れたくったミルクコーヒーだろうか?いや、でも試飲用のホワイトコーヒーを見ても白くないぞ…

『白くないじゃないか!!』聞くと、煎る時にマーガリンと砂糖を加えることで色が気持~ち程度浅くなり、その為に白珈琲と呼ばれているとのこと。コーヒー通をうならせる奥深さがありながら、コーヒーが苦手な人でもホワイトコーヒーなら大丈夫という人も多くいるというくらい、幅広く愛されているようだ。

DSC_3445
理屈は分かるがホワイトではないだろホワイトでは。でも色はさておき確かにクリーミーで飲みやすく、森永の甘ったるいコーヒー牛乳を愛飲していた私の味覚にはちょうど良い。

DSC_4982
お土産に買ってしまいました。

マラッカ中華街でプラナカン文化に心酔

スタダイスからマラッカ川に架かる橋を渡ると中華街が見えてくる。ここマラッカの基礎を築いたマラッカ王国時代、東西貿易で栄華を極めていたマラッカ王朝へ嫁いだ明の皇女とその従者がこの地へと渡ってきた頃から海峡中国人と呼ばれる南洋系中国移民がマレーシアを中心とする東南アジア地区に根付くようになり、何世紀もかけて土着のマレー文化と中華文化が融合したプラナカン文化と呼ばれる独自文化が育まれてきた。あの我の強い中国人が他文化と融合?そうなんです。一般にマレー系、中国系と言えば生活スタイルはそれぞれ異なるが、言葉・食事・衣類などはマレー様式を取り入れつつ、祖先崇拝や冠婚葬祭の道教的中国文化を維持して、互いのスタイルを融合した独自の生活様式を生み出したのだ。初期のプラナカンは商業で成功し巨万の富を築いた者も多く、ここマラッカには彼らの華やかな生活様式を見ることのできるババ・ニョニャ・ヘリテージ博物館がある。ババとはプラナカン男性のことで、ニョニャは女性を指す。

DSC_3426
マラッカ川の東側はポルトガル・オランダ色が強いのに、この橋を渡った先は一気に中国だ!

DSC_3427

ひだり みぎ

DSC_3492
中華街の中心となるのはジョンカー・ストリート。階下が店で店の奥や上階が住居となる独特のショップハウス形式の店舗がずら~っと並ぶ。マラッカ川東側のポルトガル・オランダ的な町の雰囲気と打って変わって、エキゾチックでエネルギッシュな中国の街だ。

ひだり みぎ

DSC_3462
カジュアルなローカル食堂から洒落たカフェ、土産屋に骨董屋、民族工芸品店などが立ち並び非常に賑やかだ。夜はナイトマーケットも催されるらしい。

ひだり みぎ
有名なチキンライス屋である和記で遅めの昼食を摂る。

DSC_3463
飯を済ませてジョンカー通りを奥に進むと世界遺産公園が出現。

DSC_3464
公園のど真ん中には有り得ない程にムキムキで満面の笑みを見せるボディービルダーの銅像がで~んと構えている。彼もまたプラナカンなのか知らないが、こんな面妖な像、世界遺産公園の雰囲気には全然マッチしていないぞ。

もう少し通りの奥に進むとボディービルダー養成所があり、建物の前にはまた彼のたくましい像だ!
DSC_3489

ひだり みぎ
今度は金色!余程凄いお方に違いない。ここマラッカの中華街では犬も歩けばマッチョ像にあたる。説明書きを読むと、どうやらマラッカ出身の伝説的なボディービルダーらしく、「ミスター・マラッカ」「ミスター・マレーシア」「ミスター・アジア」「ミスター・ユニバース」「マレーシアのボディービルダーの父」「英雄」「博士」などと、ありとあらゆる表現で賛辞が綴られている。

マッチョ像を後にして向かった先はジョンカー通りの一本隣のトゥンタンチェンロック通りに建つババ・ニョニャ・ヘリテイジ。1896年に建てられた典型的なペラナカン様式の邸宅を一般公開している数少ない貴重な場所である。
DSC_3483
ゴム農園などで巨万の富を得てマラッカの中国系住民きっての豪商として名を馳せた陳一族の邸宅とのことだ。入口が閉まっていたので休館かと思ったが、ドアのベルを鳴らすとおばちゃんがドアを開けてくれ、素早く入館料のRM12を徴収してきた。中ではどうも自由気ままに内部を徘徊してはいけないらしく、ツアー開始を待つようにと指示される。ある程度の参加者が集り次第ツアーは開始される。説明はありがたいが、もっと自由で館内を見て回れれば面白いし、もっと見てみたいと思っているところを急ぎ足で次へ移ってしまうのは大変残念。しかももっと残念な事に内部での写真撮影も禁ぜられている。展示内容自体は非常に見ごたえのある物だった。中国文化を連想させる派手な色使いの豪華爛漫な装飾品も目を引く一方で、家具などの調度品は洗練されたヨーロッパ風。アジアンテイストと思いきや西洋風な雰囲気も強く、不思議な異空間の雰囲気に浸ることができ、当時のニャニャの豊かな生活ぶりとマラッカの繁栄ぶりが頭に浮かんできます。

DSC_3480

DSC_3482
トゥンタンチェンロック通りはババ・ニョニャ・ヘリテイジだけでなく、他にも多くの華僑の豪邸が残されており、東西交易で富を築き上げた古きよき時代の香りを楽しむことができる。プラナカンの建築物はまるで京都の町屋のように間口が狭くて奥行きが深い構造となっていて、一階は主に店舗や事務所、二階が住居という機能になっている。これらの建築物はショップハウスと呼ばれ、一戸単独ではなく数件が隣り合った状態で建てられるのが一般的だそうだ。色はパステルカラーの建物を多く見た。華やかな色で塗られた建築群には、ネオ・ゴシック様式やバロック様式などの西洋建築のスタイルが取り込まれ、よろい窓や瀟洒な柱で彩られている。また、ファサードにも細かな花やつる草模様のレリーフが施されていて、プラナカンの人々の美意識の高さとこだわりの大きさを伺える。

トゥンタンチェンロック通りには他にもプラナカン文化にまつわる博物館があるようだ。
DSC_3480
こちらの緑色の可愛らしい建物は海峡華僑宝石博物館。残念ながら休館のようで入れなかったが、ニョニャの装飾品に特化した博物館とのことだ。

中華街といっても中国一辺倒ではないのがマラッカの中華街。観光メインストリートのジョーカー通りだけでなく、一本南に延びるトゥンタンチェンロック通りで財を成した中華富豪により築き上げられたた古きよき時代に触れるのも良い経験だ。

ババ・ニョニャ ヘリテージ博物館
住所:Jalan Tun Tan Cheng Lock
電話:(+606) 283 1273
時間:10:00 – 12:30、 14:00 – 16:30
定休日:
料金:RM 12(≒380円)

 

海峡華僑宝石博物館
住所:108 Jalan Tun Tan Cheng Lock, Melaka
電話:606-281-9763
時間:10:00-17:00
定休日:
料金:RM 15、学生はRM 12


マラッカ川周辺の観光スポット

続いてはセントポールの丘からマラッカ川沿いの観光スポットを周ることに。

DSC_3398
独立公園の奥に聳え立つのは2008年にオープンした高さ110メートルのマラッカタワー。

DSC_3395
この円盤のような展望室が回転しながら上下動することでマラッカの街並みが360℃見渡せますよという仕組みらしい。

DSC_3392
円盤アップ!80人乗りで、15分をかけて110m地点と地上を往復するらしい。2008年にオープンしたばかりというのにこのみすぼらしさは何なんだろう。

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=PWJCGKqdqwc[/youtube]

セントポールの丘からもマラッカの街並みを拝んできたし、マラッカタワーは華麗にスルー。尚もマラッカ川を目指して直進。
DSC_3400
マラッカ川沿いの通りまで辿り着くと、またもやエンターテイメント臭のする大きなガレオン船が出現。インドのゴアに向けマラッカから帰航の途に就いたが、1512年6月26日、マラッカ王国から略奪した 財宝を満載したままマラッカ海峡にて沈没したポルトガルの交易船「フロール・デ・ラマール号」の復元模型で、内部は海洋博物館として各国の歴史的な船舶模型や海図、海運都市マラッカの歴史に関する展示物が並べられている。

ひだり みぎ
当時の東南アジアの香辛料は、アジアの商人からインドを経由しトルコ、更にその奥のベネチアからヨーロッパ各地へと届けられたという。商人から商人の手に渡る度に仲介手数料&利益が上乗せされる為、最西端ポルトガルでの価格は金銀財宝並みの価格で取引されていたとか。そこに目をつけたポルトガル。喜望峰を廻って自国の商船で香辛料を入手すれば、全ての暴利を自己の手中に収めることができる。初寄港からわずか2年後の1511年、ポルトガルは艦隊を率いてマラッカ沖に来航、近代兵器の大砲や鉄砲でマラッカ王朝を撃破し、植民地経営に乗り出しました。その後もインド洋域への影響力を強める一方で東アジアにも勢力を拡げたポルトガルは1517年に中国南部の広州に到達、当時の明王朝と貿易を始め、マカオに拠点を築いた。1543年には戦国時代の日本は種子島に到達して日本との南蛮貿易に乗り出すなど、ポルトガルは完全に我が世の春を謳歌するに至ります。

DSC_3408
華僑系の商船。今よりも未知なる物で溢れかえっていた中世時代、真夜中の大海でこんな不気味なもん見かけたら恐怖で卒倒してしまうに違いない。

この海洋博物館、規模的には非常に小さくて、10分程度で見学終了。続いてフロール・デ・ラマール号と道を挟んだ反対側に建っている海軍博物館へ移動。
DSC_3399
おどろどろしい感じのネーミングなので巨大な兵器が並んでいるのかと思いきや、『こんな密輸品を押収しちゃいましたよ!』的な展示品など、至ってのほほんとした内容の展示物が並ぶ。本当は海軍博物館じゃないのかもしれない。

ひだり みぎ
ビール・ワイン・ウィスキー・日本酒・焼酎・ブランデー・蒸留酒などの酒類は1リットルが免税許容範囲、それ以上の持ち込みはいけません!

ひだり みぎ
ポルノ等の出版物・絵画・写真・ビデオ等や花火・爆竹もご法度!色褪せたPlayboyの押収品も展示されていました。

DSC_3416
木彫り石彫りのエロス芸術品も猥褻物扱いで厳禁!!

DSC_3413
靴底に隠すなどの努力も無駄です!マレーシア税関は密輸犯による数々のトリックを見破ってきました。

ん~~、やっぱり海軍博物館ではない気がする…ネット検索でも出てこないしパンフレットもないので今となっては確認ができないが、とにかく海事博物館横を通る道路の反対側に位置しているこじんまりとした博物館だ。一見の価値無し!

DSC_3419
綺麗に河川整備されていて、川際はかなりの川上まで遊歩道になっている。水質はお世辞にも良いとは言い難いが、川沿いには色とりどりの花が咲いていたり、洋風建築なオープンカフェがあったりと、オシャレで散歩していて気持ちが良い。

DSC_3420
静か~で緩やかな川の流れは、流れてきた長い時間を感じさせてくれる。

DSC_3421

DSC_3423
小さな蛇使い。

DSC_3499
この町の中央を流れるマラッカ運河を挟んで東側はポルトガル・オランダ統治時代の影響が色濃く残るエリアであり、この川を渡った先の西側はチャイナタウンが広がり、マレー人と中国人の融合文化であるプラナカン文化を感じることができる一帯となっている。

マラッカタワー
時間:10:00-20:00
定休日:基本無休
料金:RM 20、12歳未満は半額
マラッカ海洋博物館
時間:09:00-18:00
定休日:火曜日
料金:RM 2.0


サンチャゴ要塞とマラッカ王宮博物館でマラッカの歴史に触れる

独立記念博物館の直ぐ隣には16世紀の初頭にポルトガル軍が建造したサンチャゴ要塞とマラッカ王宮博物館がある。ここら一帯はマラッカ王国時代の中枢地帯だったようで、観光スポットも目白押し。

DSC_3329

DSC_3372
サンチャゴ砦遺跡、別名ファモサ要塞史跡。マヌエル王の命により、喜望峰をグルリと廻ってマダガスカル島経由でインドへ到着した大航海時代初期の覇者・ポルトガル。1509年に初めてマラッカの土を踏んだポルトガルは、東西交易により栄華を極めていたマラッカ王朝支配の野望に燃え、1511年7月に16隻の艦隊を率いて再来航、圧倒的武力によってマラッカ王国の征服に成功した。その後、マラッカを東方貿易の柱頭堡とするポルトガルの計画からマラッカ海峡の海岸沿い一帯が要塞化されたのだが、今ではサンチャゴ遺跡の城門一か所を除いて全て朽ち果ててしまったそうだ。石積みの壁がいい感じに風化していて、確かに歴史が感じられる。

DSC_3386

DSC_3371
城門跡の内部では陽気なおじさんが中国語の歌謡曲を弾き語っている。よく見りゃさっきセントポールの教会で『月亮代表我的心』を熱唱していたおじさんじゃないか!こんな濃い顔した人が流暢に中国語の歌を歌うもんだから中国人観光客の注目を集めていた。

DSC_3375
丘の上からは遠くマラッカ海峡が見渡せる。地図を見るとサンチャゴ砦からマラッカ海峡の海岸線まで約700メートル程あるようだが、全てが埋め立て地であり、要塞の建造当時は直ぐ外が海だったらしい。マラッカ海峡から攻め入る外敵に対しての防海砦が必要と考えたポルトガル軍は司令本部を設置した要所のセントポール丘の周囲を高さ5メートルもの城壁で囲ったそうだ。

DSC_3385
海峡の反対側は建設ラッシュに沸いている。マラッカは人口約50万人の都市だが、国内外から毎年700万人もの観光客が訪れる観光都市だ。若しかしたら今の中国のように風情ある歴史的建物が真新しい高級ビルに建て替えられてしまう日が来るのかもしれない。

DSC_3330
サンチャゴ要塞跡の直ぐ脇には典型的なマラッカ王国時代の王宮を模した建物が建っている。マラッカ・スルタン・パレス(通称・マラッカ王宮博物館)だ。1396年にマラッカ王国を建国した初代国王パラメスワラが当地に王宮を建造したが、後にマラッカを占領したポルトガル軍によって焼き払われてしまった。マラッカ王宮は設計図も残されていない歴史上の建築物と化してしまったが、16世紀に著された「マラヤ年代記」や「マラヤ王統記」などの残された文献を基に20世紀になってから復元されたという文化財だ。建築にあたってはクギや接着剤などは一切利用されておらず、木組みだけで建てられたという匠の技が施された一級品の建築物である。「マレー年代記」にはマラッカ王国時代の街の風物、交易品などはもちろん、王家の系図、王宮の建築構造などが細かく記載され ており、博物館内部に展示されているジオラマや絵画も、史実に基づき忠実に再現されているとのことだ。

DSC_3332
突き槍を持った薄白い門番が妙にリアルな表情をしていて不気味である。絶対生身の人間かゾンビだろ!横を通ったら手持ちのスピアで一突きされるのではないか。せっかく入場料を払っているのだが、はっきり言って入場が憚られる程の奇怪さだし、少なくとも入場口に配置するようなマネキンではないだろう。ここで靴を脱いで入館。サンダルも不可なので、靴下は履いてきた方が良いだろう。

中に入っても恐ろしくリアルなマネキンが勢ぞろい。皆、感情に正直と言うか、喜怒哀楽が表情に出まくっている。不気味不気味不気味!中学校とかにあった人体模型と同列の恐ろしさ。
ひだり みぎ
ジャワの貿易商(左)は遠目を眺めたり虚ろな目をしたりと、明らかにカメラを意識しているようだ。中国人商人(右)は何かオカマっぽい。

ひだり みぎ
アラブ商(左)にグジャラート商人(右)。毎年3月には少なくともグジャラートから4船の貿易船が衣類やアヘン、ヨーロッパからの武器やメタルワークなどを満載して入港したていたそうだが、事前提出書類の不備か何かで入港を拒否られたのか、抗議の姿勢と表情を見せている。せっかく武器を持ってきたのにWhy!!って言っていると思う。

DSC_3368
サイアム(タイ系)の貿易団は嬉しそう。毎年30船ものジャンク船がサイアムから来航、銅や金銀などをマラッカにもたらした。

DSC_3337
二階部分には当時の王宮内の様子が大量のマネキンを使用して表現されている。他国の王様がマラッカのスルタンに謁見しているらしい。当時のマラッカ王国では王様が自らをスルタン(俗世の支配者)と名乗り、戦争や和平に関する議決権、国民の生殺与奪権に関わるすべての権力を握っていて、スルタンの独裁的ともいえる政務が行われていた。

DSC_3336
末席にて跪かされている罪人の懺悔に満ちた面様といったら…刑務官のふてぶてしい面構えも秀逸だ。

マラッカ王宮博物館
時間:09:00-17:00
定休日:月曜日終日、金曜日の12:45~14:45
料金:RM 2


マラッカそぞろ歩き ヤジローと独立記念博物館

マラッカ海峡を望む丘陵を下り、マラッカ市内へとそぞろ歩きに出ることに。
ひだり みぎ
昼下がりの独立公園ではカップルや家族連れがモンキーポッドの木々の下でのんびりとピクニックをしている。Tourist Policeのオフィスも園内にあるので、やはりここら一帯が観光の中心なんだろう。

ひだり みぎ

DSC_3271
ムルデカ通りは開放感のあるマラッカ随一の大通りだ。

DSC_3280
ムルデカ通り沿いのマーケットにある屋台でかき氷を注文。ピーナッツや大豆、ゼリー状の麺(?)、ココナッツの実など8種類の具を載せて最後に黒蜜をドバっとかけるのがマラッカ風だ。生水や氷は要注意と聞かされていたが、中国で慣らした体なので大丈夫だろう。ドラゴンフルーツの生搾りジュースと合わせてもRM5.6(約200円)という嬉しいお値段だったが、イスラム国家だからかビールは小瓶で300円弱と他の東南アジア諸国の数倍の価格だった。
< DSC_3285

DSC_3286

DSC_3288

ひだり みぎ

DSC_3294

ひだり みぎ
DSC_3296
聖フランシス学院。何となくポルトガル風の校舎の前には十字架を手にしたザビエルの像が建っている。ザビエルと言えば日本にキリスト教をもたらしたハゲの伝道師。インドを拠点にしていたザビエル氏だったが、ポルトガルがイスラムのマラッカ王国を破った後の1545年、東方交易の最前線拠点となった東西文明の十字路・マラッカへと拠点を移す。その後、『以後よく広がるキリスト教』の1549年に鹿児島に上陸した後の彼の活躍は世界史の教材などで広く知れ渡っているところだが、彼が日本を目指した理由がここマラッカにあることは余り知られていない。時は16世紀、とある日曜日の昼下がりに布教活動を終えて寛ぐザビエルさんのもとに、親しくしていたポルトガル交易船の船長が一人の東洋人を連れてきた。名をヤジローと言うらしい。何を隠そうこのヤジローと名乗る日本人が、布教活動に勤しむザビエルさんと日本とを引き合わせたというのだ。こんな大事そうな奴なのに世界史の教科書には一切紹介されずじまいの男・ヤジロー。16世紀マラッカで何をやっていたのだ!?このヤジローさん、出自や本名などについては研究者によって様々な説があるが、彼自身やザビエルの書簡に拠ると、薩摩国出身の商人で、殺人罪から逃れる為に日本との交易が始まっていたポルトガルの商船に乗って日本を離れ、遥か遠く離れたのマラッカまで辿り着いたそうだ。ザビエルはヤジローの勤勉さと礼儀正しさに感銘を受け、ヤジローをゴアで学ばせた後で日本への布教活動を決意したそうだ。生涯を賭けてキリストの布教活動にあたったザビエルも評価されるべきだが、ヤジローの回心ぶりもまたカッコいい。殺人逃亡犯がキリストの福音によって回心し、帰国の危険を顧みず日本人の救いの為に逃亡生活に終止符を打つ決意するに至ったのだから。まさしく「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ 15:10)の御言の体現者のような人である。

DSC_3298
こちらのオシャレな洋館はイギリス占領時代の1891年に英国人将校たちの社交を目的とした「マラッカ倶楽部」の拠点として建てられたそうで、今は独立記念博物館になっている。炎天下の中で歩き疲れたので入館。クーラー効かせ過ぎで汗が一気に乾き飛んだ。クアラルンプールからのバスもそうだったが、どうしてこちらの人は限界まで温度を下げたがるのか。

DSC_3301
入館して正面の壁にはマレーシア建国の父であるトゥンク・アブドゥル・ラーマンの彫刻が立てかけられている。独立記念博物館という名の通り、1511年にポルトガルに占領されてから、オランダ~イギリス~日本~イギリスの支配を経て1956年に独立に至るまでの歴史にまつわる民族独立の栄光と影を隠すところなく紹介しています。

ひだり みぎ

DSC_3325
マレーシア13の周旗とマレーシア国旗がびっしりの部屋。マレーシア国旗の左上のカントン部の図柄はイスラム教の象徴である月と星を、赤と白の線はマレーシアの13の州と首都のクアラルンプールを表しているそうだ。

ひだり みぎ
旧日本軍統治時代の情報も。右はマレー半島で使用された軍用手票。日本降伏によって日本軍のマレー半島占領は1945年8月に終わりを告げたが、戦後はアジアの利権を狙うイギリスが再び舞い戻ってきました。イギリスはマラヤの独立を認める一方で、経済的な利権は守り通せるようにしようと考えた。その為の条件としては、政治的な安定が必要不可欠であり、共産主義者による革命運動はもちろん、いかなる革命運動も弾圧して治安を維持すること、多民族社会ですべての民族の協力を得る唯一の方法として各民族に平等な権利を与えることをうたった「マラヤ連合構想」の中で、マレー半島9州及びペナン、マラッカの2つの海峡植民地が一つにまとまり、ボルネオを含めて一人の総督が治める組織を形成するよう提案しました。植民地経営がより効果的に進めることが狙いでしょう。9人のスルタンはイギリスの提案に同意しましたが、マレー人社会の中では高級官僚・貴族階級を中心に強い反発が起こった。全国が一体統一化化されれば各州ごとの伝統的な政治体系が破壊され、政治権力を失うスルタンはその伝統的・文化的役割を果たすことができなくなる、つまり、マレー人の伝統的社会・文化基盤が崩壊することへの不満、後から移住してきた中国人やインド人が先住民族であるマレー人と同等の権利を持つことは、将来の人口変動によっては「マレー人のマラヤ」という基本原則をおびやかす恐れに繋がるとの不安がマレー人社会に高まりました。その中で、イギリスの計画を阻止することを旨とする反英連合マレー人国民組織(UMNO)が結成される。UMNOはスルタンとマレー人の特権を認めて中国系・インド系などの非マレー人の市民権を制限すること、議会を通じて自治を達成することを求め、激しい反対運動を繰り広げ、結果として、イギリスのマラヤ連合構想は廃案に追い込まれ、1948年、マレー諸島は植民地化という最悪の事態を回避し、イギリスの保護を受ける独立国ということで、マラヤ連邦が成立。1951年には建国の父トゥンク・アブドゥル・ラーマンが新しいUMNOの総裁に就任。真の独立を勝ち取るためにはマレーに住む三つの主要民族(マレー人、中国人、インド人)が互いの利害を越えて協力することが必要だと考えたラーマンは、マレー人のUMNOを中心にマラヤ華人協会、マラヤ・インド人会議が結束するよう尽力し、1955年にこれらの三つの政党による同盟連合である連合党が結成される。四年以内の独立達成、公務員のマラヤ化、公立学校の創設、マレー語の国語化などを公約として掲げた連合党は、最初の総選挙で得票率81%、52議席中51議席を獲得。独立を望む国民の圧倒的な支持を受けた連合党は翌1956年1月、ラーマンを団長とするムルデカ使節団をロンドンに直接送り込み、イギリスと交渉を始めました。たびかさなる交渉の結果、ついに完全な独立、つまり大臣などの官僚の地位からイギリス人を除き、マレーシア人による自治政府を認めること、マレーシア自身による新しい憲法がつくられることに合意を取り付けることに成功。1957年8月31日、クアラルンプールで記念式典が開かれ、初代首相に就任したトゥンク・アブドゥル・ラーマンによってマラヤ連邦の独立が宣言されたというのがマレーシア近現代史の大まかな流れです。

ひだり みぎ
メルデカ広場での独立宣言の様子(左)と1956年2月8日に英国と結んだ独立条約の様子(右)。余り脇道に逸れたような内容は無く、淡々と史実が並べられているといった印象。

DSC_3302
マラヤ独立運動中のトゥンク・アブドゥル・ラーマン一同。彼の指導の下、マラヤは遂に人種の壁を越えて一つに纏りました。

マレーシア独立記念博物館
時間:09:00-17:00
定休日:月、金曜日12:45~14:45
料金:無料