マラッカそぞろ歩き ヤジローと独立記念博物館

マラッカ海峡を望む丘陵を下り、マラッカ市内へとそぞろ歩きに出ることに。
ひだり みぎ
昼下がりの独立公園ではカップルや家族連れがモンキーポッドの木々の下でのんびりとピクニックをしている。Tourist Policeのオフィスも園内にあるので、やはりここら一帯が観光の中心なんだろう。

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ムルデカ通りは開放感のあるマラッカ随一の大通りだ。

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ムルデカ通り沿いのマーケットにある屋台でかき氷を注文。ピーナッツや大豆、ゼリー状の麺(?)、ココナッツの実など8種類の具を載せて最後に黒蜜をドバっとかけるのがマラッカ風だ。生水や氷は要注意と聞かされていたが、中国で慣らした体なので大丈夫だろう。ドラゴンフルーツの生搾りジュースと合わせてもRM5.6(約200円)という嬉しいお値段だったが、イスラム国家だからかビールは小瓶で300円弱と他の東南アジア諸国の数倍の価格だった。
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聖フランシス学院。何となくポルトガル風の校舎の前には十字架を手にしたザビエルの像が建っている。ザビエルと言えば日本にキリスト教をもたらしたハゲの伝道師。インドを拠点にしていたザビエル氏だったが、ポルトガルがイスラムのマラッカ王国を破った後の1545年、東方交易の最前線拠点となった東西文明の十字路・マラッカへと拠点を移す。その後、『以後よく広がるキリスト教』の1549年に鹿児島に上陸した後の彼の活躍は世界史の教材などで広く知れ渡っているところだが、彼が日本を目指した理由がここマラッカにあることは余り知られていない。時は16世紀、とある日曜日の昼下がりに布教活動を終えて寛ぐザビエルさんのもとに、親しくしていたポルトガル交易船の船長が一人の東洋人を連れてきた。名をヤジローと言うらしい。何を隠そうこのヤジローと名乗る日本人が、布教活動に勤しむザビエルさんと日本とを引き合わせたというのだ。こんな大事そうな奴なのに世界史の教科書には一切紹介されずじまいの男・ヤジロー。16世紀マラッカで何をやっていたのだ!?このヤジローさん、出自や本名などについては研究者によって様々な説があるが、彼自身やザビエルの書簡に拠ると、薩摩国出身の商人で、殺人罪から逃れる為に日本との交易が始まっていたポルトガルの商船に乗って日本を離れ、遥か遠く離れたのマラッカまで辿り着いたそうだ。ザビエルはヤジローの勤勉さと礼儀正しさに感銘を受け、ヤジローをゴアで学ばせた後で日本への布教活動を決意したそうだ。生涯を賭けてキリストの布教活動にあたったザビエルも評価されるべきだが、ヤジローの回心ぶりもまたカッコいい。殺人逃亡犯がキリストの福音によって回心し、帰国の危険を顧みず日本人の救いの為に逃亡生活に終止符を打つ決意するに至ったのだから。まさしく「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ 15:10)の御言の体現者のような人である。

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こちらのオシャレな洋館はイギリス占領時代の1891年に英国人将校たちの社交を目的とした「マラッカ倶楽部」の拠点として建てられたそうで、今は独立記念博物館になっている。炎天下の中で歩き疲れたので入館。クーラー効かせ過ぎで汗が一気に乾き飛んだ。クアラルンプールからのバスもそうだったが、どうしてこちらの人は限界まで温度を下げたがるのか。

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入館して正面の壁にはマレーシア建国の父であるトゥンク・アブドゥル・ラーマンの彫刻が立てかけられている。独立記念博物館という名の通り、1511年にポルトガルに占領されてから、オランダ~イギリス~日本~イギリスの支配を経て1956年に独立に至るまでの歴史にまつわる民族独立の栄光と影を隠すところなく紹介しています。

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マレーシア13の周旗とマレーシア国旗がびっしりの部屋。マレーシア国旗の左上のカントン部の図柄はイスラム教の象徴である月と星を、赤と白の線はマレーシアの13の州と首都のクアラルンプールを表しているそうだ。

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旧日本軍統治時代の情報も。右はマレー半島で使用された軍用手票。日本降伏によって日本軍のマレー半島占領は1945年8月に終わりを告げたが、戦後はアジアの利権を狙うイギリスが再び舞い戻ってきました。イギリスはマラヤの独立を認める一方で、経済的な利権は守り通せるようにしようと考えた。その為の条件としては、政治的な安定が必要不可欠であり、共産主義者による革命運動はもちろん、いかなる革命運動も弾圧して治安を維持すること、多民族社会ですべての民族の協力を得る唯一の方法として各民族に平等な権利を与えることをうたった「マラヤ連合構想」の中で、マレー半島9州及びペナン、マラッカの2つの海峡植民地が一つにまとまり、ボルネオを含めて一人の総督が治める組織を形成するよう提案しました。植民地経営がより効果的に進めることが狙いでしょう。9人のスルタンはイギリスの提案に同意しましたが、マレー人社会の中では高級官僚・貴族階級を中心に強い反発が起こった。全国が一体統一化化されれば各州ごとの伝統的な政治体系が破壊され、政治権力を失うスルタンはその伝統的・文化的役割を果たすことができなくなる、つまり、マレー人の伝統的社会・文化基盤が崩壊することへの不満、後から移住してきた中国人やインド人が先住民族であるマレー人と同等の権利を持つことは、将来の人口変動によっては「マレー人のマラヤ」という基本原則をおびやかす恐れに繋がるとの不安がマレー人社会に高まりました。その中で、イギリスの計画を阻止することを旨とする反英連合マレー人国民組織(UMNO)が結成される。UMNOはスルタンとマレー人の特権を認めて中国系・インド系などの非マレー人の市民権を制限すること、議会を通じて自治を達成することを求め、激しい反対運動を繰り広げ、結果として、イギリスのマラヤ連合構想は廃案に追い込まれ、1948年、マレー諸島は植民地化という最悪の事態を回避し、イギリスの保護を受ける独立国ということで、マラヤ連邦が成立。1951年には建国の父トゥンク・アブドゥル・ラーマンが新しいUMNOの総裁に就任。真の独立を勝ち取るためにはマレーに住む三つの主要民族(マレー人、中国人、インド人)が互いの利害を越えて協力することが必要だと考えたラーマンは、マレー人のUMNOを中心にマラヤ華人協会、マラヤ・インド人会議が結束するよう尽力し、1955年にこれらの三つの政党による同盟連合である連合党が結成される。四年以内の独立達成、公務員のマラヤ化、公立学校の創設、マレー語の国語化などを公約として掲げた連合党は、最初の総選挙で得票率81%、52議席中51議席を獲得。独立を望む国民の圧倒的な支持を受けた連合党は翌1956年1月、ラーマンを団長とするムルデカ使節団をロンドンに直接送り込み、イギリスと交渉を始めました。たびかさなる交渉の結果、ついに完全な独立、つまり大臣などの官僚の地位からイギリス人を除き、マレーシア人による自治政府を認めること、マレーシア自身による新しい憲法がつくられることに合意を取り付けることに成功。1957年8月31日、クアラルンプールで記念式典が開かれ、初代首相に就任したトゥンク・アブドゥル・ラーマンによってマラヤ連邦の独立が宣言されたというのがマレーシア近現代史の大まかな流れです。

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メルデカ広場での独立宣言の様子(左)と1956年2月8日に英国と結んだ独立条約の様子(右)。余り脇道に逸れたような内容は無く、淡々と史実が並べられているといった印象。

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マラヤ独立運動中のトゥンク・アブドゥル・ラーマン一同。彼の指導の下、マラヤは遂に人種の壁を越えて一つに纏りました。

マレーシア独立記念博物館
時間: 09:00-17:00
定休日: 月、金曜日12:45~14:45
料金: 無料


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