フエ⇒ハノイ ベトナム航空ビジネスクラス搭乗記 フエの世界遺産巡り9

あっという間のフエでの二泊三日の小旅行を終え、帰路へと就く時間がやってきた。先ずはフエからハノイに飛び、そこから成田行きの深夜便に乗り継いで日本へと帰還する。


フエ市街地からタクシーで15分(運賃200,000ドン強)、2013年に改装されたばかりのフバイ国際空港(HUI)に到着した。綺麗だけど小さっ。

ひだり みぎ
当記事執筆時点での就航航空会社はベトナム航空以外だとべトジェットとジェットスターパシフィックの2社のみで、それも国内線オンリー。

空港に早く着き過ぎて暫く待たされたけど、出発時刻の2時間半前になって漸く搭乗手続きが開始される。


今年になり南方航空修行を始めたので、マイルはCZ付け。VNのCクラスは2セクターと130%のマイルが付与される筈なのに、なんとまぁ搭乗から3ヵ月経っても加算されず。南方航空の手強いカスタマーセンターと長期戦を戦って、搭乗後5か月弱かかってやっとこさ搭乗クレジットが付与された。CZ、自社便だと国内線で翌日、国際線だと2-3日で漏れずに加算されるんですけどね。CZの他社便でのマイル登録は要注意。

コンパクトな空港だし空いているので搭乗券を手にしてからは早い。ただ、エレベーターが無いのがね…

土産物を詰めた重たいスーツケースを持って階段を上り下り…。少しは御爺さんの腰を労わってほしい。

ひだり みぎ
出発フロアはこじんまりと綺麗に纏まっていて、お店も土産物屋を中心にそれなりに有る。ただ、空港自体とにかく小さいので、町で顔見知りになった他の観光客と「あー、あなたも今日お帰りなんですねー」なんて会話をすることになりかねん。フエの町もフエの空港もとにかく小さい小さい。

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どんなもんかと土産屋を覗いてみると、ホーチミンの空港では売ってないようなこ洒落た陶器なんかも売っていた。冷やかし程度で値段を聞いたら店員の胸三寸で価格が決まるのかよってくらい思いっきり値下げしてくれたので、茶器セットを購入することに。また荷物が増えたけど、フエらしい中越折衷的なデザインの茶器が安く買えて満足なり。

ひだり みぎ
土産物を手にして今度は意気揚々とベトナム航空のビジネスクラスラウンジへ。田舎の国内線ラウンジなんで待合室レベルだけど…。


堪らないジャンク感…。


冷蔵庫にはチェやフルーツも。

ひだり みぎ
携帯弄りで忙しいスタッフを呼びつけてオーダーすることもできる。


メニューに麺料理があったのでてっきりヌードルバーでもあるのかと思ったら、普通にカップヌードルが来たw

いやー、ほんと早く空港に着いちゃった自分を呪いたいね。2時間もの時間を何もないラウンジでカップラーメン食べたりカップラーメン食べたりカップラーメン食べたりしながら無為に過ごす羽目になった。

そして搭乗開始と思ったらカップラーメンで重くなった胃にこの仕打ち!さっきせっかく階段上ったのに今度は下りるのかよ!バリアフリーなんて糞くらえ、ジジイの腰絶対殺すマン空港許すべからず。

ひだり みぎ
地上階まで下りてエコノミーバスでボーディング。ビジネスクラス専用バスなんて気の利いたものはありません。せっかく一番に階段を降りた自分orz


夜空にも良く映えるベトナム航空機A321に御搭乗。

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お座席はこちら。2-2が4列で計16席のビジネスクラスだったのだが、何故かこの日はA・C列側が私一人に対して通路を挟んだ向こう側のD・G側は4人と賑やかそう。


ウェルカムドリンクと冷えっ冷えのおしぼりサービスを受けてから即プッシュバック。小さな空港で渋滞もないのでテイクオフまでも早い早い。


飛行機に乗り込んでからあっという間にテイクオフ。さらばフエ。


1時間程度のドメスティックフライトでも餌が出た。空港職員のやる気ないおばちゃんがおしゃべりしながら作ったであろうサンドイッチとヨーグルト程度だけど。


あーやっぱりフエ二泊は短かったかな。是非ホイアンと抱き合わせでまた旅程を組んで来たいですね!ということでフエの旅行記はこれにて完。お付き合いありがとうございました。



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【2017年フエ旅行記】











フエで参加するDMZ(非武装地帯)ツアー フエの世界遺産巡り8

フエ二日目は昨日にバイクをレンタルしたLittle Hue Travelで予約をしたDMZツアーに参加することになっている。DMZとはDeMilitarized Zoneの略で、いわゆる非武装地帯。ベトナム戦争時にベトナムを南北に二分した17度線に沿った地域のことを指す。ベトナム戦争中には激戦区として激しい攻防が繰り広げられていた為、多くの戦跡がこのエリアに遺っているのである。


ベトナムは第一次インドシナ戦争後のジュネーブ協定により1954年から1976年まで南北に分断されてた。この22年の長い間DMZとなっていたのが南北1600km以上に及ぶ現ベトナムの国土のほぼ中間地点を通る北緯17度線である。フエからだとそれなりに距離があるので一日がかりの小旅行になるのだが、ツアー代金はVND390,000(≒JPY2,000)と日本感覚で考えると非常にお手頃なツアーである。

当日は07:00-07:15の間にホテルにピックアップに行きますよーとのことだった。しかし…待てども待てども迎えが来なければ、領収書に記載されていた番号に電話をかけても繋がらない。日本人的感覚で06:45分からロビーで待機していたので置いていかれたということはないと思うが…。
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結局、8時過ぎにミニバンがやってきた。参加者が少ないのでバスではなくミニバンで移動することになったそうだ。これだけ遅れるならホテルに電話の一本でも入れてくれれば良いと思うのだが…。

何はともあれ、ようやくDMZを目指して走り出した我々のバス。先ずはラオスとの国境近くを目指していく。
道中では父が戦争で戦ったという愛国精神あふれるガイドが簡単にベトナムの近代史をおさらいしてくれた。
「ベトナムは歴史的に中国やフランスや日本や韓国やアメリカに蹂躙された悲しい国」とツアー参加者の同情を引き、いきなり話は第二次世界大戦に飛ぶ。第二次世界大戦が始まるとヒトラーにパリを陥落させられたフランスに代わって日本がやってきた。フランスがやられたのに今度は日本かよ!ここで芽生えるベトナム民族主義。そして、日本の敗戦をきっかけに各地でくすぶっていたベトナムの民族主義思想に火が点く形で蜂起が乱発、ベトナム北部ではホーチミン率いる一派が共産国のベトナム民主共和国として独立を宣言する。

しかし…ベトナムを含む旧フランスインドシナ諸国の再支配を目論むフランスはこの独立宣言を良しとせず、フランスとベトナム民主共和国との第一次インドシナ戦争にへと発展。その後、8年続いたフランスとベトナムの戦争は世界史の教科書にも出てくる有名なディエンビエンフーの戦いでの勝利を契機に一気にベトナムに有利に傾き、フランスは撤退を余儀なくされることに。

今度こそ独立か?しかし…スイスのジュネーブで開催された和平会談では、独立を求めるホーチミンの主張は通らず、北緯17度線でベトナムが分断される形で北にソ連・中国が肩を持つ共産国・ベトナム民主共和国、南に共産圏の拡大を阻止すべく介入してきたアメリカが後ろ盾となったベトナム共和国の二つの国がベトナムに存在することとなった。こっからはもう北の共産主義陣営と南の資本主義陣営の代理戦争。当時は冷戦の真っさなかで、ベトナムが共産主義になったら東南アジアが全て共産主義の手に落ちるのではと焦ったアメリカの軍事介入によりベトナム戦争がおっぱじまった。

1965年には南が北ベトナムに一斉攻撃を開始。250万トンとも言われる途方もない爆弾や枯葉材を容赦なく落とし続けるアメリカに対してゲリラ戦で応える北ベトナム。結局、戦局は泥沼化してアメリカは撤退、1975年に今の共産主義国家として南北統一が果たされた…というのがベトナム近代史の大雑把な流れになる。

こんな歴史があるもんで、ウキウキピクニック気分な旅にはならないのが悲しいところ。ツアーに参加したみなさん、ガイドの説明を聞きながら沈痛な面持ちで外を眺めている。

ひだり みぎ
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窓の外には雄大な川が流れていたり街頭でトウモロコシを干してたりコーヒー畑が広がっていたりと戦争の悲惨さを感じさせない長閑な景色が続く。コーヒーなんか皮肉なことに、ベトナム戦争で泥沼の戦いを演じたアメリカが消費量世界一だからなぁ。

Dakrong BridgeとRock Pile

そうこうしているうちに第一・第二の見所がやってきた。

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先ずはRock Pile。高さ230メートルの尖った丘にしか見えないが、戦略上重要な地点にあることから米軍の監視塔兼砲撃基地として使われていたそうだ。確かに周囲の丘よりは高く、DMZ周辺の敵軍監視には適しているんだろうが…正直今はただの小高い山にしか見えない。


続いて北ベトナム軍の補給ルート・通称ホーチミンルート上に架かるDa krong Bridge。北ベトナムの背後に控える怖くて大きい国からの人殺しグッズ詰め合わせや食糧なんかがわんさか運ばれた重要な兵站補給網。何百万もの人がこの橋を渡ってホーチミンルート、別名“血のルート”の流れを切らさず物資を運び、最後はやっとの思いで独立を勝ち取ったと思うと感慨深い…のだが、橋自体は1999年に再建されたものらしくて真新しい。

この後は更にラオス方面へと進んでいき、11時前には午前中のハイライトである米軍ケサン基地跡に到着した。ラオス国境から15km東に位置する米軍の軍事基地跡で、北軍の南軍に対するテト攻勢でも激戦が繰り広げられた激戦地中の激戦地跡だ。

ケサン基地跡(Khe Sanh Army Base)


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戦闘機の飛行場として使用されていた場所に現在は小さい博物館が建てられており、その周囲のただッ広い草原地に攻撃ヘリ・大型輸送ヘリ・戦車・装甲車なんかがポツンポツンと置かれていて、その中を瘦せ細った現地人数人がアメリカのコインなんかを売り歩いてる。

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撃ち落とされたヘリなんかもそのままの状態。

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離着陸に特別な滑走路を必要としない多用途ヘリコプターUH-1Hなんかも展示されているが、当時はこの平野に赤土の滑走路があったらしい。

ひだり みぎ
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北ベトナムはホーチミン・ルートの安全確保と第一次インドシナ戦争のディエンビエンフーの戦いのような象徴的な勝利を求めてケサン基地の包囲殲滅作戦を展開。北ベトナム軍が人的被害を省みず積極果敢な攻撃に出るのに対し、アメリカ軍は77日に渡る戦闘期間中に1,120回にも及ぶ物資の空輸を続けてなんとか応戦。最後は約114,000トンの爆弾を投下し火力の差で勝ったアメリカが北ベトナム軍の包囲を解くことに成功した。しかし、その2か月後には維持コストの関係もありアメリカ軍はケサン基地を破壊して撤収。戦術的に勝利しながらも最前線のケサン基地を放棄するという決定によりアメリカ国民の戦争に対する世論が変わり、この撤退を境にアメリカでベトナム撤退支持層の声が強まっていったらしい。

ひだり みぎ
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敷地内には迷路のように張り巡らされた塹壕も再現されている。これが結構リアルで鳥肌立った。

せっかくなんで博物館にも入ってみた。

北ベトナム軍がテト攻勢に備えて本格的にケソン基地の攻略を開始したのは1968年1月中旬。北ベトナムの正規軍第304師団が基地の西方から、第325師団が基地の北方からそれぞれアメリカ海兵隊2個連隊と南ベトナム政府軍レンジャー部隊が守るケサン基地に迫っていった…

ひだり みぎ
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生々しい写真の数々と、まさか戦死者から剥ぎ取ったものではないと思われるが、着古された軍服や兵士の持ち物なんかが飾りっ気なく山積みにされていた。

かなーりダークでヘビーな気持ちにさせられたところで、次なる目的地へと移動する時間がやってきた。
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お次は午後の目玉であるヴィンモックトンネルだ。

ヴィンモックトンネル(Vinh Moc Tunnels)


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ベトナムの地中村といえばホーチミン近郊のクチトンネルが有名だが、主にゲリラ戦展開用の軍事目的で造られたクチトンネルとは異なり、こちらは近隣住民のシェルター用に設けられたトンネル施設になる。

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手で掘った感満載の穴。こんな穴の中で生活してたんすか?



竹林の小路を進む中で、至る所に防空壕的な穴があるのが分かる。現在は人が入りやすい様に見せられているけど、確かにこれがジャングルの中にあったら上空からだと気がつかないよな。


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この大地の窪みは不発弾が落ちてきた衝撃で出来たクレーターだそうだ。この周辺だけでも10,000tとかの爆弾が投下されても戦い抜いた住民の逞しさとトンネルの丈夫さにただただ驚くばかり。

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ここでも簡単な資料館を見学する。ヴィンモックトンネルとは、南シナ海に面したビンモック村の住民が米軍の爆撃から身を守る為の地下シェルター。中には産科付きの病院や学校もあり、一番多い時で400人程が身を潜めて暮らしていたそうだ。外は爆撃まみれで、戦争はいつ終えるとも分からない。そんな中で最長6年にも渡り地下に住み着き、蟻の巣のように張り巡らした狭い穴の中でじっとアメリカの猛攻に耐えていたのだ

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最深部で地下3階程度の深さらしいが、トンネルはやっぱり手作りだった。トンネルマップを見ても本当に蟻の巣のようだし、何より深い。いったい掘るのにどれくらいの労力と時間が費やされたのだろうか。


こんな原始的な道具で400人が暮らせる地下のトンネル村を掘ったのか…。

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普通に生活してるし、なんと17人もの命が地下で誕生したらしい。すっごい暗くて大変な過去に聞こえるが、ガイドさんはこれでもかという会心の笑顔を振りまいて嬉しそうに説明してくれた。


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実際にトンネルに入ってみると、真っ暗なのは当然として、かがまなければ歩けないくらい狭く、そして蒸し暑い。

最後の見所・ヴィンモックトンネルの見学を終え、フエへの帰路にある最後の観光スポットへと向かう。

戦没者墓地

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最後の停車スポットはお墓で、ここまで沈み続けてきた気持ちを更にダークなものにしてくれる。

結局、朝の8時に出発したDMZツアーは丸一日かかりで、フエに着いたら夕方5時を回っていた。クチトンネルのツアーと比べて拘束時間が長いし、内容も更にダーク。リーゾナブルな価格で貴重な経験を積ませてくれるツアーだけど、歴史好きや軍事マニアくらいにしかウケないとは思います。今回もベトナム戦争に思い入れがあるという70代のメリケン夫婦2組とモノ好き韓国人男1人に私しか参加者がいなかったし。



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【2017年フエ旅行記】











フエの夜 Hanh Restaurant/ DMZ Barフエの世界遺産巡り7

フエの観光初日を終え、夜の新市街地を歩く。

途中、町を探索中に雨に降られたので、ホテル近くのB級食堂で雨宿りを兼ねベトナム料理を大人食いすることに。
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ローカル家族連れで賑わうHanh Restaurant。空調は効いてないけれど、雨が打ち水になって暑さは感じない。寧ろしっとりして良い感じだ。


セットメニューがVND110,000。

このセットメニュー、一人用?なんか続々プレートが運ばれてきて草w。一人でチョコチョコっと少しずつ地元の名産をつまめるのは本当にありがたい。
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フエ名物のバインベオ・バインコアイ・ネムルイ(豚つくね)にBBQバインクオン・揚げ春巻きとベトナム料理のオンバレー度。これにアラカルトで頼んだ自家製ヨーグルトデザートとビールまでやってきた。これだけ飲み食いしてVND160,000(≒JPY850)。周りは家族連れしかいないけど、独りボッチ飯でも恐れることも恥じることもない。もちろん味も大満足だし、スタッフも観光客慣れしてて接し易かった。

【Hanh Restaurant】

住所:11 Pho Duc Chinh, Phu Hoi, Tp. Hue, Phu Hoi.
電話:+84 165 830 6650


続いて一杯やりにDMZバーなる飲み屋に入ってみた。

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屋根にはDMZことベトナム戦争時の非武装地帯の地図があったり、ハリボテのヘリコプターやマシンガンなどのモデルが陳列されていて戦地風の雰囲気w。音楽もガンガンでイカレ狂ったムードの西洋風バーである。

ドリンクメニューは豊富で、生ビール・スピリッツ系・ワイン・カクテルとある程度のラインナップが揃ってる。

HudaのボトルだとVND20,000(≒JPY100)とバーにしては滅茶苦茶安く飲める穴場スポットだ。

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オリジナルカクテルも一杯VND85,000~100,000(JPY 425~500)で楽しめる。しかも安い上にBuy 2 get 1 freeだったので、ついついハードカクテルを3杯もいってしまった…。

【DMZ Bar】

住所:60 Le Loi, Phu Hoi, Hue City, Thua Thien Hue.
電話:+84 234 3823 414
ウェブサイト:http://www.dmz.com.vn

帰りはホテルまで散歩。夜のフエは涼しいしどこか風情があって好き。

ライトアップされたフースアン橋の向こうにフエ王宮の外壁も見える。

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フエの町を南北に流れ、旧市街地と新市街地を東西に分かつフォーン川。ゆったりまったりした雰囲気の川の両岸に、けばけばしい極彩色のドラゴンを模したボートが大量に停泊してる。「ミスター!リバーボート!10ダラー!」なんて船頭に声かけられ迷ったけど、嫌な予感がしたのでここは謝絶。明日はDMZツアーで朝早いので、大人しくホテルに帰って早寝することにした。



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【2017年フエ旅行記】











ミニチュア紫禁城 フエ阮朝王宮 フエの世界遺産巡り6

ベトナム初のユネスコ世界遺産が認定されたのは1993年、「フエの建築物群」が記念すべきベトナム第一弾の世界遺産となった。フエの建築物群はグエン朝時代に建てられたフエ市内の建築物全てを対象とするので、今回の旅行で巡ってきた阮朝歴代皇帝の帝廟ももちろん含まれる。

が、やはり「フエの建築物群」の核となるのは阮朝歴代皇帝の居城である阮朝王宮であろう。1803年に建築された阮朝王宮は13代に渡って続く阮王朝のお膝元。ベトナム戦争の戦禍や洪水等の自然災害で大部分の建造物が破壊されてしまったものの、残された建物からも十分に当時の栄華を偲ぶことができる!Must See!とフエ出身という宿泊先のスタッフが興奮気味に力説してくれた。なんで、帝廟巡りでだいぶ疲れて肌も日焼けで痛いけど、せっかくなんで疲れた体に鞭打って阮朝王宮も見て回ることに。あれだけ懇々と王宮の魅力を語られたのに、「王宮の訪問は疲れたので見合わせました。」なんてホテル帰って言えんわな。

王宮のある旧市街は三方を一辺約2.5kmの運河とフォン川に囲われていて、その内側の王宮は一辺約600mの内濠と剣型の突端を持つ防御力高そうな城壁とで守られている。


いやー、いかにも都城って感じで宜しいこと。皇城の外壁には何ヶ所かの門が造られていて、規模こそ違うものの同じく城壁に囲われた西安を思い出す。

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王宮へと続く門の正面には高さ17.4mの三層式の見張り台の上でベトナム国旗が威風堂々と風にたなびいている。塔の天辺の高さは30mにもなり、フォーン川対岸の新市街地からでも眺められることから、道に迷った時の目印としても重宝する。

王宮へと続く門は東西南北の4つ。そのうち、南側に在る上部に五鳳楼を設けた午門が正門となる。太陽といえば皇帝の象徴で、太陽が真上に来る南門を正門とするのが中国伝来の習慣になるので、阮朝王宮を築いた初代皇帝もその中国の風習に倣って王宮を設計したのだろう。
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内堀に架かる正門への橋の欄干なんかにも中華的な装飾が施され、中国の影響を窺い知ることができる。


5つの門口を持つスタイルも紫禁城に倣っているのだろう。真ん中の門は皇族の出入り専用ということで閉ざされていたので、平民の自分は午門の中の左側の門をくぐって王宮内へ。



午門を入ると銅柱の鳥居状の門の左右に金水池があり、その奥の正面に平屋の太和殿が見えてくる。日本で言えば大極殿にあたる阮朝王宮の正殿だ。決して大きな建物ではないが、黄の瓦と漆喰塗の白壁が鮮やかで特徴的である。

三重の城壁がめぐらされ、南面に位置する午門を通って公式式典や接見の場である太和殿に至るところも北京とよく似ているし、この太和殿も北京の紫禁城を模して造られたのだろう。フエ王宮は中国の柵封下にあった阮朝が築いたものなので、身も蓋もない言い方をすると故宮の劣化コピー・下位互換版となるわけで…。故宮や西安城壁を見た後にここに来ると、どうしても「まぁ悪くはないんだけどね」程度の冷めた印象になってしまう。特上うな重の後に並みのうな丼を食べた時の感想みたいなw
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太和殿では皇帝の即位式や国賓の歓迎式典など王室や国家の重要な行事や元旦の朝賀など宮廷儀式が執り行われていたそうだ。

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太和殿の後方には広大な敷地が広がっている。かつては宮殿の建物が連なっていたであろう中心部にあたるが、戦争や洪水で壊滅してしまった為、現在は広場の左右に復元された建物が幾つか在る程度の寂しい状態となっている。まぁ王宮の各所で修復・復元作業が進められていたので、時間はかかるだろうけど将来的には王宮内部の様相も変わってくるでしょう。


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再建された回廊は煌びやかな赤と金箔で彩られ、柱・壁・屋根・扉・戸と随所に中国の要素が混じりあっている。これはこれでアリなんだろうけど、復元されたばかりで殆ど新築状態なので、どうもノスタルジーに浸って古の都に想いを馳せれる感じではない。電動バイクなんかも敷地内を走ってたし…。

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派手な装飾や施された文様やモザイク装飾も、やはり龍であったり虎・獅子・狛犬といった中国を彷彿とさせるモチーフとなっている。四方に反り上がった屋根の形なども、あぁ中国だなぁ、と。

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池を眺められるように作られた風流な建物も。さぞかし昔は美しかったのでしょう。


一番北側から南側を見返すと、一番奥のフラッグタワーまで見事なシンメトリーであることが分かる。あとは、どのように修復・復元活動が行われていくかだな。王宮内ではこれまた世界遺産に登録された宮廷舞踊のショーや宮廷衣装を身に纏っての有料写真サービスなんかもあるらしいけど、どうもこの王宮自体に当時の面影が残ってないからしっくりと来ない。


帰りはモザイク装飾の美しい皇城東門(顕仁門)から。

結局、城壁や城門の石造りの部分以外はピカピカで全くの新築の建物か破壊されたままで何も無い状態となっていて、ちょっとがっかりした。王宮の魅力を語ってくれたホテルスタッフにはもちろん満面の笑みでベリーグッド!と伝えたけどw 今後、どのように再建されていくのか楽しみである。

【阮朝王宮(フエ王宮)】

営業時間:07:00-28:00



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【2017年フエ旅行記】











ティエンムー寺 フエの世界遺産巡り5

フエ近郊と新市街地の見所を巡った後、今度はフエ旧市街地側のフォーン川沿いに佇む世界遺産・ティエンムー寺まで足を運んでみた。1601年創建と、グエン朝よりも長い歴史を持つ古刹である。

対岸にはフォン川がゆったりと流れていて、修行をするのにもってこいの長閑な環境。

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エントランスからは、ティエンムー寺のシンボル・八角七層の慈悲塔の姿を覗くことができる。

昔々、「間もなくこの地に支配者が現れ巨大な塔を建てるだろう」と予言した老婆がいたらしい。果たして1845年、グエン朝第三代のティエウティ帝がこの慈悲等を建造し、下々の民は「うわぁ老婆の予言通り!この老婆、実は天女じゃね??」と驚きティエンムー寺を「天女の寺」と呼ぶようになったそうだ。どの国にもあるような突っ込みどころ満載の民話ですが、こういう話に一々突っ込むなどという野暮なことはしてはいけません。

高さ21.24mもあるレンガ造りの八角形の塔の最上部には釈迦如来像が安置されている。残念ながら内部へ入ることはできませんが、各層に仏像が安置されているそうです。


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こちらは広南国第六代の王・阮福淍が遺した碑石。

ひだり みぎ
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風神雷神的キャラが護る門の奥に本堂・大雄殿が見える。

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インパクトある金の布袋以外はケバケバシさなく落ち着いた重みのある雰囲気。

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庭園の色調も静けさを感じさせ禅寺のよう。

そんな落ち着きある寺の一角に場違いな古いオースチンを発見。解説書によると、1963年に仏教弾圧を強めるサイゴン政府への止むに止まれぬ抗議活動として焼身自殺した住職がサイゴンまで向かう際に使った車だそうで、一台の古い車が我が身を焦がして仏教弾圧に抗議した師に代わって無言で語りかけてくる。

そういや前にNHKかどっかの特集で座禅を組み燃え盛る炎の中で絶命まで姿勢を崩さなかった立派な僧侶の衝撃映像を見たわ。あの時の僧がこの長閑な古刹の住職だったわけだ。その後政府関連者が「アメリカのガソリンを使った僧侶のバーベキュー」とか失言して問題になったとこまではニュースで見たけど、当時は事の顛末までは追わなかった。どうやらその政府関係者の失言後にどうやらその後に国民から非難の声が高まり、後の軍事クーデターによってゴ・ディン・ジエムが殺害される遠因の一つとなったそうだ。

僧侶の心臓の写真パネルなど、中々生々しい展示もあって思いの他にヘビーな気持ちにさせられたので、寺の外で客引きしてたオッサンのボートでまったり川下りを楽しんで気分転換することに。
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と思ったら随分と遠くに停船してたらしく、随分と長い距離を歩きだすオッサン。歩いての川下りなんて聞いてないぞ。

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やっとオッサンのマイボートに乗船。

景色を楽しませようというオッサンの配慮なのか、手で漕いだ方が早いんじゃないかというスロースピードで川を下る舟。
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照り付ける灼熱の太陽。焦げ付く体、吹き出る汗…。


そこで手際良くスッと出てくるギンギンに冷えたドリンク。商売美味いw でも幾らか尋ねても教えてくれなかったので怖くて手が付けられんかった。フエではガソリンスタンドと駐車料金で少額ながらも二度ぼったくられてるからいつも以上に防衛本能が働いてしまう。

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河原では水牛が戯れ、川の民が洗濯物に精を出す。何とも長閑な風景だ。

30分程の短いクルーズだったけど、あー良かったわ~と思って下船すると、待ってましたとばかりにトラブル。そう、ここはベトナムですからね。150,000ドンで話が付いてたはずなのに、150,000ドン渡したら200,000ドンとかほざきやがる糞ジジイ。ほんといつもそうなんだよベトナム。小銭に汚い輩が多すぎて、今までもどれだけ嫌な思いをさせられてきたことか。150,000ドンって言ったじゃないかと指摘して150,000ドン握らすとそれはそれでほっこり笑顔で嬉しそうに受け取りやがるし、「駄目もとで200,000ドンって言ってみよ!」的なさもしい根性に本当に腹が立つ。

【ティエンムー寺】

住所:Nguyen Phuc Nguyen, Huong Long, Hue
入場料:無料



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【2017年フエ旅行記】