レンタサイクルでカオプーン洞穴へ

ヘルファイアパスから戻り、バンコクに戻るバスの出発まで時間があったので、50Bでレンタサイクルを借りて4Km離れたカオプーン洞穴へと向かうことに。ヒットポイントの残りゲージも僅かとなっているので本当ならバイタクで楽に移動したかったのだが、声をかけたバイタク兄に値段を聞くなり、ああでもないこうでもないと理由をつけ、300B(≒900円)とか吹っかけてきやがるではないか。おいおい面白いじゃないかチミ、バンコクまでのロットゥーが160Bだよ、ギャグも休み休み言いたまえ。暫し粘るも値下げに応じてくる気配が無かったので、「じゃあいいよ」と見えを切って立ち去る素振りを見せる。ここで立ち去る相手に値段を下げてくるいつものパターンがあるかと思いきや、普通に声がかからず交渉決裂。300Bなら痛くはないが、じゃあいいよと言って自分から離れた手前、相手の言い値でお願いするのは屈辱的なので、仕方なく近所のレンタサイクル屋でチャリをレンタルした次第だ。感覚的には往復100B前後かと思ったのだが、タイのバイタクってそんな相場が高いのか?それとも単にここが観光地で売り手市場で、バイタクが強気なのだろうか?それとも地図では4Km程しか離れていないと見えるカオプーン洞穴って本当はもっと遠かったり?急に地図の信用性まで疑い出す始末。


サイクリングルート。

ひだり みぎ
地図を信じてクウェー川を渡り、チョンカイの共同墓地を過ぎて真っすぐ走る。途中、私の匂いが不満だったのか私が彼らの縄張りに侵入してしまった為か、狂犬病が疑われるほどの狂暴な野犬に追いかけられてママチャリで猛ダッシュする羽目に。アユタヤもそうだったが、カンチャナブリーも血気盛んな野犬が多いこと多いこと!普段運動んんかしないサラリーマンなんだから急に全力ダッシュしたらハムストリングやっちゃうって。


犬の猛追を振り切り、こーんな感じの何も無い一本道をひたすら南西に向かって走る。しっかりと舗装された立派な道なのに、本当に何もないし、誰も通らない。静かーな田舎の一本道。舗装する意味あんの?ってくらい周りには誰も何もない。


旧泰麺鉄道のカオプーン駅を過ぎ、最後の難所である小高い丘を登った先に見えるカオプーン寺院に洞穴があるようだ。ホテルでもらった地図は正しかった!


寺院にて入場料として20Bを管理人とおぼしき僧侶に支払うと、ニコニコ顔で洞窟の入り口へと案内してくれる。

ひだり みぎ
スロープを進み、急な階段を下って洞窟へと入っていく。


第二次世界大戦中に日本軍が倉庫として利用していたというだけあって、洞窟内部は意外と広い。薄暗くてひんやりとして、圧倒的な静寂に包まれた鍾乳洞の空間に並べられた仏像はなんだか神秘的。


それぞれの曜日にちなんだ仏像が並べて安置されていて、自分の生まれ曜日の仏像に拝む習慣がある。タイ出張に初めて来た際に自分の生まれた曜日を聞かれて答えられず、白眼視をされた苦い思い出が蘇る。


仏像さん仏像さん、お休みのところ邪魔して悪いんだけど、頭にドリアン乗っかってますよ?


通路は結構狭くて暗いので1人だと少し心細く感じるが、案内板があるので迷うことはない。

ひだり みぎ
かなり狭く薄暗いスペースへと入り込んでいくので、頭をぶつけないよう注意をして歩く必要がある。

ひだり みぎ

ひだり みぎ

ひだり みぎ
あれ?これってヒンドゥー教や道教の神様じゃないの?ってな像もちらほら。


プミポン国王もきっちり祀られています。戦前日本の天皇の様に、絶対的存在、現人神くらいの扱いなんだろうか。


Ja-ae Roomって何だろう…まさか拷問部屋じゃ…


ようやく外界からの光が見えてきた。


この仏像、「お疲れ様でした」と声をかけてくれてるような気がする。


洞窟から出た先には出ました!カンチャナブリー名物の、泰麺鉄道の過酷な建設工事の様子を伝える絵画に写真の数々です。

ひだり みぎ
んー。クアラルンプールのバトゥー洞窟に行って以来すっかり洞窟好きになってしまいましたが、こちらはちょっと思ったより規模が小さかったかな。倉庫に使うくらいならもっと内部面積が大きくて入り口も運搬の為に広くていいかと思うんだが、旧日本軍が倉庫として…ってのは観光用の後付けのストーリーのように思えてくる。


ホテル近くのレンタサイクル屋へ戻り、チャリを返却してからバスターミナルへ。ここからバンコクのカオサンへ向かうロットゥーは160B。所要2時間半。これにて旧日本軍の戦跡を巡るカンチャナブリー1泊2日の小旅行は終わり、明日からはバンコク周辺の客先周りで忙しくなるぞ!

地獄の火峠 死の鉄道のヘルファイア・パス

カンチャナブリーの観光の目玉といえば旧泰緬鉄道や映画「戦場にかける橋」で有名になったクウェー川鉄橋で、これらはどんなガイドブックにも大きく取り上げられている。第二次世界大戦中、過酷なジャングルの中の工事で多くの犠牲者を出してしまったことも、日本人ならたいていの人が知っているだろう。しかし泰緬鉄道に関してどこまで知っているだろう。タイのバンポンからビルマのタンビュザ間を結ぶ415Kmを、熱帯の密林を伐採し原生林を切り開き、岩を開削して山を切り崩し建設された“死の鉄道”こと泰麺鉄道。大量の死者を出した過酷な建設労働と過酷極まりない敷設工事の中でも最も困難を極めたコンユウの切り通しの現場の実情を余すことなく伝える博物館が、カンチャナブリーの町から北西約80Kmの地点にある。「ヘルファイヤパス・メモリアル」だ。工事が行われた実際の現場でもあるヘルファイヤパス・メモリアルには、旧日本軍の元で働かされた連合国軍捕虜やアジア人労務者の凄惨を極めた労働・生活の様子に関する展示物が並べられている。もちろん、線路の幅だけ切り開かれた岩肌や、地面に打ち付けられた枕木なども当時のままに残されている。

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ヘルファイヤパスへはカンチャナブリーのバスターミナルから1時間おきに出ている8203番のバスで所要時間約90分。サイヨーク国立公園とエラワン国立公園に挟まれていて、地図を眺めているだけでもいかにもジャングルを切り開いて建てられた感が伝わってくる。

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こんなバス。運賃は45Bでした。

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途中、陸軍のゲートで迷彩服を着た軍人による検問が入る。地元民たちは身分証明書をじっくり見られていたのでドキドキしたが、私は外国人と分かったからか、笑顔でスルーされた。

ドア半開きのままで国道323号線を西北へ向かって爆走。だが、このバスはヘルファイヤ―パスの近くを通過するだけで、最寄りの場所が分からない。きっと観光客が一斉に降りるので彼らについて下車すりゃいいやと他人任せの考えであったが、どうもこのバスに観光客の姿は無いようだ。ピンチである。このピンチに手をさしのべてくれたのは、隣に座っていた買い物帰りのオバサンであった。彼女はソンテウが、最寄りの場所に差し掛かった時、運転手になにやらシャウとしてバスを停車させると私に微笑んだ。そして、私一人が降りると、ソンテウは忙しそうにどこかへ走り去った。

この青いゲートが目印。周りには何もなく、初めてでははっきりいってどこで降りていいか皆目見当もつかないだろう。事前に何とか運転手なり近くに座っている人なりにヘルファイヤパスで降りたい旨を伝えておかなければスルーしてしまう可能性大だ。

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周りも見渡すと確かに山々が聳え立っている。泰麺鉄道はタイの猛暑の中、この山々を切り開いて敷設された。

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写真左のような小路を10分くらい歩くとヘルファイヤパス・メモリアルの建物が見えてくる。元戦争捕虜であるオーストラリア人のモリス氏が泰緬鉄道建設時の捕虜の苦しみを風化させないようにと保存を呼びかけ、タイの商工会議所と共同で建てた博物館だ。入場料は無く、訪問者からの任意の寄付のみで運営されている。

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メモリアルにて登記をし、泰麺鉄道の建設に関するドキュメンタリーを見る。当然ながら、映画「戦場にかける橋」よりよりリアル。

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犠牲者の遺品に、労務者と捕虜となった方々に与えられていた食事。予想を遥かに上回る質素な内容に絶句する。泥やゾウムシが入った米に、乾燥野菜や死魚、蛆の湧いた一欠の肉、水っぽいシチューに老いた牛でつくったスープなどがローテーションで配された。肉の量より蛆の方が多く、大恐慌育ちで飢えには慣れていたはずのPOWも次第に弱り、
別ルートで入手した鴨の卵やカボチャなどの野菜、日干しにした鳥の舌を米にのせて食べていたそうだが、劣悪な食糧事情と綺麗な水の欠如から下痢、ビタミン欠乏症、皮膚病、赤痢などの病理が蔓延した。

泰麺鉄道の建設は1890年代から英国により検討されていたが、建設ルートの厳しい気候条件やジャングルが広がる複雑な地理条件などの為に建設は断念された。
日本は1920年代から検討をはじめ、戦前の1939-1940年にフィジビリティスタディを実施、建設には最低5年から8年かかると見積もられた。1942年にはいよいよビルマでインドの防衛を最終目標とする英国との交戦状態に入り、速攻で首都ラングーン(現ヤンゴン)を陥落させる。しかし、分厚いジャングルと高い山々に囲われたヤンゴンへの物資供給ラインは連合国軍の攻撃にさらされる危険性が高いシンガポール―ラングーン間の船便輸送しかない。ビルマ戦線への物資輸送ルート確保の必要に迫られた日本は1942年6月20日、軍部トップが泰麺鉄道プロジェクトの実施を決断。鉄道はタイ側とビルマ側の両方から敷設が開始され、完成予定は人海戦術と突貫工事により大幅に前倒しするよう求められ1943年12月(僅か1年半!)と定められた。

ビルマとタイの端は平坦な道が続くために計画通りに敷設が進んでいくように見えたが、幾本の川や山、深い森林を超えていく度に計画に遅れが生じるようになる。英国からの反撃を恐れ、完成予定を1943年12月から同年8月に計画を早め、過酷な労務環境で作業者に無理な重労働を強いたことから犠牲者の数を増幅させた。水・食糧や医療品が致命的に不足している状態で長時間の重労働を強いられ、厳しい体罰も受ける中、劣悪な生活状態からコレラ・マラリア等の大発生まで重なり、膨大な数の命が失われた。甚大なる犠牲を払った結果、1943年10月16日、タイ側のコンコイタで両側から造られた鉄道が結ばれ、遂に死の鉄道と揶揄された泰麺鉄道が完成した。ツルハシで岩盤を切り開き、シャベルやクワで土や石を掘り起こし、それをバスケットやサックに積めて運び、きりとのみで火薬用の穴をうがつという作業を全て人力で進め、川にはジャングルで伐採した木材などを使って合計688基の橋を架ける。こんな無謀なまでの壮大な計画であったが、415Kmを15ヶ月で結んでしまったのだ。甚大なる犠牲を払って。

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博物館の脇からはヘルファイア・パスやクウェー・ノイバレー展望台を通る全長4Kmのウォーキングトレイルになっていて、想像を絶する悲劇の歴史の現場を見ることができる。

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整備されたデッキを下りたら、もうそこは死の鉄道の跡地である。


地面に喰い込んだチーク木の枕木の姿を確認することができる。


ヘルファイア・パス。ちょうど線路が通れる幅に岩石が開削され、線路の両側には高さ10メートル程の岩壁が垂直にそそり立っている。

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道ばたの小さな小さな十字架に秘められた歴史。みなが気づかず通り過ぎてしまう本当に小さな十字架だが、ナショナリズムが愚かな争いしか引き起こさないことを知る者の、大きな思いが詰められています。
「IN MEMORY OF ALL AUSTRALIANS
WHO SERVED LEST WE FORGET
SHRINE OF REMEMBRANCE. MELBOURNE」
ヘルファイヤパスは、昼夜問わず強制労働の激務をこなしたPOWにより1943年、12週間に渡って拓かれた。それも、ほぼ手作業で。

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密林に覆われた土地にルートに沿って竹が切り倒され、一つ一つ地道にハンマー岩を削り取っていき、穴を掘ってダイナマイトで発破、そして岩石のかけら除去…
痩せ衰え骨と皮だけになった労働者を照らしだしてゆらめく、地獄への送り火にも似た薄気味悪い焚き火の明かりの中で永遠と響くハンマーの音…いつしかコンユウの現場は地獄の火峠、ヘルファイヤーパスと呼ばれていた。


やせ衰えた捕虜達はみなフンドシ一枚で、異様に浮き出した肋骨にかろうじて手足が繋がっているといった様相だ。彼らは満足な衣服や履物も支給されず、不衛生な椰子の草葺屋根の小屋と竹の小屋に大勢で押しくるめられ、原始的な衛生環境で更に発病リスクが高まってしまった。


鉄道の建設にあたっては、約270,000人のアジア人労働者と、合計60,000人を超える連合国側の捕虜、そして旧日本軍役12,000人が動員され、その内12,399人の捕虜と70,000-90,000人の労務者が飢えや病気、事故、虐待などにより15ヶ月に渡る鉄道建設中に犠牲となった。辺り一面は静寂さが保たれており、土や石をシャベルやクワで掘り起こす「ザクッザクッ」という音、岩壁を切り開き、杭を打ちつけるハンマーの音、そして労働者の息使いまでもが聞こえるような気がした。


砂利道の歩きにくさ、モンスーンの季節の土砂降りの雨の中、上ったり下りたり、行ったり来たり…
うだるような暑さ、土砂降りの雨の中、日夜問わず…化膿して塹壕足のようにただれ、腫れあがった足、飢えた体で重い木々や岩石を担いで素足で永遠と…
建設の最終段階では労働力不足から病人も死ぬまで労働に従事したという。作業ができる出来ないの尺度・判断基準は赤便の割合で、検便の結果、赤便が50%以下ならまだいける、80%以上なら当日は免除とされた。けが人はキズに蛆虫が湧いていても熱湯で煮沸消毒して毛布やシーツを包帯にして現場に投入させられた。この処遇は国際法に違反し、戦後処理に際して大量虐殺に等しいと戦勝国側から厳しく糾弾され、この工事関係の戦犯として79名の旧日本軍関係者が有罪判決を受け、そのうち32名が絞首刑になったとされている。


暗鬱とした気持ちを抱えて展望台に出ると、豊かなジャングルが強い日差しを浴びて広がっている長閑な風景が目に入る。ここから47km先はビルマ。この今は穏やかに見える地に壮絶な歴史があるなんて、とても信じられなくなる景色だ。手付かずの自然、ジャングルに咲く鮮やかな花に飛び回る蝶…敵軍の利益に直結する鉄道の建設の為に強制労働させられた労働者も同じ風景を見て小さな美しさに希望を見出していたのだろう。


20分-30分ぼーっと前方のビルマの地を眺めていたら、真っ赤なハムシのような虫に囲まれた。こんな綺麗な色したハムシ見たことない。でも、美しい色だけど、こういうのって色が美しいほど毒持ってたりするので、怖くなって退散する。

ひだり みぎ
現地を歩いていると、暑さと眩暈、飢えと病 雨と風 殴打と痛み 当時の地獄の火の通り道のイメージが色々と頭に思い浮かんできて怖い。

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にょきにょきと高く伸びる竹は軟らかくしなやかで加工は楽な為、飲み水の容器や担架、点滴スタンド、ベッド、箸、尿瓶などなど様々な物に使われた。それほど、様々な物が不足していたのだ。

1440
最後は博物館の「瞑想の為のデッキ」で考え事。我々の習わない歴史の一部(連合国側視点の歴史)を目の当たりにした後で色々な考えが頭を巡り、とてもじゃないけど瞑想はできませんでした。白人イデオロギー丸出しの為に全部を鵜呑みにする必要は無いとのドライな姿勢で臨んだつもりだが、それでもショッキングな展示物を見るとやはりショックも大きい…でも、不謹慎かもしれないが、こんな奥地まで進軍してきた旧日本軍どんだけ!!とも思ってしまいました。

【へルファイヤパス・メモリアル】
・開園時間:09:00-16:00
・入園料:無料だが、他所の寄付が望ましい
・住所:Tha Sao Sai Yok, Kanchanaburi 71150 (カンチャナブリーから8203番のバスで約90分)
*因みに、カンチャナブリーへと戻る最終バスは17:00頃。

ライブミュージックが響くカンチャナブリーの夜

ダークツアリズムの観光産業で栄える観光都市カンチャナブリーの見所周りで思いっきりグレーな気分にさせられて、陰鬱な気分でRiver Kwai Hotelにチェックイン。


ひだり みぎ
ナイトクラブやビアガーデンからスパやマッサージ施設まで完備した老舗ホテルで、一応は市内最高級ホテルの一つに挙げられるとのことだ。とりあえずシャワーを浴び冷房の効いた部屋で一休憩。更にレッドブルの元にもなったとされるタイの危ないエナジードリンクでヒットポイントの回復を済ませ、ロビーで貰った地図を片手に夕暮れの市内を歩いて回ることにした。


Krating Daeng(クラティンデーン)。クラティンデーンとはタイ語で赤い野牛という意味らしい。まんまレッドブルじゃないですかwww当時エナジードリンク市場でシェアを握っていたリポビタンDに対抗する為に開発されたこちらの赤い野牛。これを基にオーストラリア人が数年をかけて改良を重ね、Red Bull「レッドブル」が生まれたとのことだ。オーストラリア開発品のレッドブルに対してタイ産のレッドブル原形バージョンは多量に服用した場合の危険性が指摘されているとかなんとかと実しやかな噂が流れているが…まぁ一杯飲んだだけじゃあ分かりません。副作用もなく普通のエナジードリンクでした。

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さて、街へと繰り出します。特に特徴の無いカンチャナブリーの街の様子。バンコクから片道3時間程度とアクセスが良いからか、地図を片手にウロウロとしている白人観光客の姿を多く見かける。

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クウェー川沿いの木陰ではハンモックで半裸になって爆睡するオヤジの姿が。何て幸せそうなんだろう。10cmの距離で犬がめっちゃ吠えてるのに微動だにせず、まさに死んだように寝ています。


ミス・カンチャナブリーのパネル。健康的な肌と眩しい笑顔にうっとり。


バスターミナル付近は大通りは大通りとなっていて、交通量も多く賑やか。一見して地味なメガネ屋がメタルチックな音楽を爆音で流してるのには恐れ入った。

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バスターミナルから西に1Km、目も眩むようなまっ黄色の看板が眩しいカンチャナブリーの鉄道駅へとやってきた。黄色はプミポン国王の生まれた月曜日のシンボルカラーだからまぁ多少はね。でももしプミポン国王が火曜日生まれだったら火曜日のシンボルカラーであるピンクのペンキで駅構内が塗りたくられたのだろうかと思ったりすると草生えるw。

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駅前のナイトマーケットでは路上に所狭しと各種商品が置き売りされていて、その周りを通る隙間もないくらいにびっしりと地元民が賑わしている。いや、本当にすごい人口密度。売り物としては香水や衣類、偽DVD、電動工具など、一観光客としては面白味のないものばかりだったので、さっさと冷かして屋台コーナーへと移ります。

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寿司に焼き鳥、イカの姿煮、チャーハン、パッタイなどなど。

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もちろん南国フルーツも忘れちゃあいけません。

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焼き鳥とパッタイ、パパイヤで腹を満たした後はバーストリートへと向かう。タイは食事が美味くて安くて言う事無し!

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カンチャナブリーもやはり観光地。白人観光客向けのパーティー地帯が広がっていて、それも、中々の規模だ。川沿いのMae Nam Kwai通りに1Km弱程の距離に眩いネオンを発する観光客用飲み屋やゲストハウスが密集し、悪酔いしたデーブスペクターみたいな白人が半裸で奇声を上げたりしている。

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通りを歩いていると薄着のお姉さんたちに声をかけられる。「この誘いに乗るか、乗らないか」「怪しいか怪しくないか」「こっちを選ぶか、あっちを選ぶか」などなど、タイの町を歩く時は色々と旅勘を発揮させながらリスク評価を迫られるケースが多くある。警戒心を強く持ちすぎると楽しみの機会を失うことになるし、警戒のガードを下げ過ぎれば自ずと痛い目に遭うリスクが高まるので、見極めのバランスが非常に難しいところだ。さて今日はどうするか。これだけネオンが輝き眩しいバーストリートを歩いているんだから、先ずは一杯行こうかと、はち切れんばかりのピチピチタンクトップが似合わない姐さんに促されるままに生演奏中のバーへと入店。

[youtube]ttp://youtu.be/zGSTCRFnN-g[/youtube]
おっちゃんの生演奏。この何とも言えないダラッーとした緩い感じがまた良いではないですか。演者と客の距離めっちゃ近いし。

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続いて、路上で白人観光客に声をかけられ、怪しげな小屋へと入店。

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もうかれこれ半年もアジアで沈没していると誇らしげに語るフランス人の若者グループと、アジア各国の都市を巡り音楽活動をしていると言うオーストラリア人。ここで放浪者の白人酒飲み野郎のペースに飲み込まれ、バケツ酒を喰らうことに。
[youtube]http://youtu.be/EW-HjDaIIN0 [/youtube]
客が客を呼び、気づいたら狭い店内が満席になっていて活気にあふれている。時計を見ると時間は22:00を回っていた。明日は早いしここは一人で先にお暇することに。

ひだり みぎ
最後はバイタクでリーバークウェーホテルへと戻り、卵チャーハンとチャーンビールで〆。

[youtube]http://youtu.be/tVoFwyXBnTM [/youtube]

[youtube]http://youtu.be/8qBd2nK4WvY[/youtube]
酔っぱらいながらビアホールで聞くタイ人バンドの生演奏が心に染みる。良い思い出になりました。一泊二日の小旅行も折り返し地点を迎え、明日はヘルファイヤーパスとカオプーン洞穴を訪問した後、ロットゥーにてバンコクへと戻る予定だ。

これぞダークツアリズムの真骨頂 第二次世界大戦博物館

クウェー川鉄橋駅前は観光地化されていて、規模は小さいものの土産物屋や屋台が並ぶマーケットが形成されている。ホテル側は寂れている予感がするので、River Kwai Hotelにチェックインする前にここらで腹ごしらえすることにする。今日は既に目ぼしい観光名所には足を運んだので、後はノープランで適当に街探索をするのみ、時間はたっぷりある。


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クウェー川沿いの出店外。試食させてもらって美味かったドライバナナにドライマンゴー各4袋づつを200Bで購入。各種ビタミンや食物繊維が豊富で、なんともいえない弾力にしっとりとした食感、甘味とほんのり酸味がきいたドライマンゴーは職場の女衆へのばら撒き土産に最適だ。


ココナッツジュースは冷やした若いココナッツの実にその場でおっちゃんが鉈を振り下ろして穴を開けてくれるので、鮮度抜群。コップ1杯のココナッツジュースは普通のスポーツドリンクよりも多くの電解質を含み、1本のバナナよりも多くのカリウムなどのミネラルを含むとされていて、なおかつ低カロリーと、うだる暑さの東南アジアでの水分補給にぴったりの健康ドリンクだ。一個30B、おっちゃんの目の前で一気飲みで豪快に飲み干すと、何故か満面の笑みで若乃花を黒くしたような店のおっちゃんに握手を求められたww

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水分補給を終え、今度は食欲を満たすべくクウェー川沿いのレストランの匂いに釣られて入店。「サワッディーカフェハウス」なんていかにも観光客用レストランの名前丸出しだが、店内では仮面ライダーと見られるフィギュアが仏像の横で「シュワッチ!!」とやっていて、ここカンチャナブリーの中でも日本贔屓な感じで営業している姿に好感が持てるではないか。日本好きのタイ人はとても多く、バンコクの商業施設などには日本のマンガや特撮物フィギュアが並ぶいかにも秋葉系といったオタクなお店を見掛けたりするが、まさかここカンチャナブリーで仮面ライダーを見かけるとは予想だにしなかった。


ココナッツミルク風味のチキンレッドカレー。60B也。席に着くなり巨大な業務用ファンを私の目の前に設置してくれたので、強風が吹きつける中、美味しく頂いた。オーナーがいれば仮面ライダー談義に花咲かせてやりたかったが、残念ながら不在。客対応より自分の携帯アプリ遊びを大切にするタイ人女性が一人で切り盛りをしていた。


サワディーカフェで遅めの昼食を摂った後クウェー川鉄橋から下流に向かって歩いていると、第二次世界大戦博物館という「いかにも」な名前の博物館を発見。看板にはJEATH Museumと書かれているが、有名なJEATH戦争博物館はカンチャナブリー鉄道駅の方にあり、こちらは第二次世界大戦博物館になる。

【第二次世界大戦博物館】
・開館時間:08:30-18:00
・入園料:30B


第二次世界大戦在北碧?軍需品到緬甸輿印度的日軍火車と書かれてある。?の部分は読み取れなかったが、ミャンマー・インパール戦線に軍需品を送り込む為に使われたとの意味だろう。

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チャーチルやスターリンなど、第二次世界大戦と縁深い政治家のフィギュアが並びます。右の顔色悪いちょび髭は昭和天皇だとwww


なんだか物々しい雰囲気の博物館。ただ内容が第二次世界大戦に関することという以上に、展示物のディスプレイの仕方や展示物そのものが陰鬱というかなんというか…見学していると息苦しくなる感じがする。

ひだり みぎ
ここでは直視に堪えうる内容の画像のみをアップしましたが、当時の連合国軍捕虜の方々の画像など、心苦しくなる当時の画像や絵画も多く展示されている。

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こちらの薄暗い部屋には銃剣や小銃などの武器や、鉄道建設労働者の遺骨が並ぶ。余りの息苦しさに耐えられず、ここらで博物館内部の見学を終え外に出る。


険しい谷を切り開いて敷設された泰麺鉄道の路線模型。

ひだり みぎ
軍票やアジア各国の古い紙幣が販売されている。


博物館の敷地内から眺めるクウェー川鉄橋。重々しい博物館内部の雰囲気とはうってかわって長閑で開放的。ここから階段を下った先には1943年2月に建てられた先線工事の為の資材運搬用木造橋の残骸が残されている。


博物館のお隣には日本軍建立の慰霊碑が。入り口の門に刻まれた建立趣意書には「この慰霊碑は 第二次大戦中 泰緬鉄道建設に従事し亡くなられた連合国軍並びに関係の方々の霊を慰めるために 昭和19年(1944)2月当時の日本軍によって建てられたものであります。在タイ日本人有志は 毎年3月 亡くなられた方々の霊を慰めるためにここに集まり 慰霊祭を行っております。」と書かれているが、碑文では「泰緬連接鉄道建設間 不幸病ヲ得テ斃レタル南方各國勞務者及俘虜ノ為此ノ碑ヲ建テ恭シク其ノ霊ヲ慰ム 昭和19年2月 日本軍鐵道隊」と書かれ、慰霊の対象は建設作業中の病死者としている。史実通り、凄惨な作業環境の中での事故や栄養不良、虐待などによる犠牲者がいたことは間違いないのだろう。この他にもカンチャナブリーには約1750名の連合軍兵士が埋葬されたチョンカイ共同墓地や、6982柱の霊が眠る連合軍共同墓地が今なお管理運営されている。タイでは基本的に火葬した骨をお寺に納めたり川に流す為に墓は余り見かけない。ガイドブックにも掲載されているし、タイの墓自体が珍しいものだと両方の墓地へも足を運んでみたのだが、一つ一つの墓石に刻まれた墓碑銘を眺めていると、本当に居た堪れない気持ちになってきた。志に反し、遠く異国の地で過酷な生活条件の中、若くして人生を終えてしまった若者に対する遺族の悲痛な想いがビシビシと伝わってくる。あたりまえだが、お墓なんて興味本位で行くようなところではありませんね。

ダークツーリズムの観光資源が多く残るカンチャナブリーでは流石に晴れた気分で観光旅行という気持ちにはなれないか…重苦しい複雑な感情になりながら、 バイタクにて本日の宿泊先であるRiver Kwai Hotelへと向かう。

戦場に架ける橋とチョンカイの切り通し

映画「戦場にかける橋」

映画ファンならずとも一度はその名前を聞いたことがあるという不朽の名作クラシック映画である。
[youtube]https://www.youtube.com/watch?v=83bmsluWHZc[/youtube]
名前は聞いたことがなくても、本作の代名詞とも呼べる主題歌「クワイ河マーチ」は耳にしたことがあるだろう。あの、「サル、ゴリラ、チンパンジー♪」でお馴染みの行進曲だ。

第2次大戦下の1943年、クウェー川に泰麺鉄道用の橋を架けさせる目的でタイ―ビルマ国境近くに設けられた捕虜収容施設が舞台。武士道をそのまま引きずって来たような一徹のちょびひげ日本軍人・サイトウと騎士道精神溢れる誇り高き英国将校の対立と交流を通じ、苛酷な労役と生活環境に厳しい刑罰が蔓延る極限の生活状態における人間の尊厳と名誉や戦争の愚かさを描き出したアカデミー賞受賞作品だ。

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収容施設所長のサイトウを熱演する早川雪州。ちょっとGG佐藤に似てるwww撮影時は既に日本人初の国際スターとして名を上げた後で、60代後半だったそう。建設が期限までに間に合わなかった場合は自決する覚悟がある程の責任感があり、武士道を貫く典型的な日本軍の軍人といった印象の役どころだが、ディナーに英国製のコーンビーフを食べ、スコッチ・ウイスキーや葉巻を嗜好するなどイギリスかぶれで洒落た一面も見せる。所長が宿舎で和服を着用したりするなど、???な演出も。

そんなクウェー川にかかる橋の建造を舞台にした名作映画により、川が流れるタイの地方都市・カンチャブリーは一躍観光大都市となったのだが、実際の映画のロケ地はスリランカというオチがある。しかも、実際に橋が架けられた当時はクウェー川ではなくメクロン川と呼ばれていたのだが、映画の影響力にあやかる為か「クウェー・ヤイ川」にひょっこりと改名、同様に「メクロン河永久橋」と呼ばれていた橋を「クウェー川鉄橋」としてPRするなど、町興しの為にカンチャナブリーは色々と活動しているようだ。

ひだり みぎ
さて、アルヒル桟橋の見学を終えた後は、終点から折り返してきた列車に乗ってクウェー川の下流に向かって進んでいく。クウェー川はタイ―ミャンマー国境地域の山を源流とし、カーンチャナブリーでメークローン川と合流、合流地点から上流側をクウェー・ヤイ(大クウェー川の意味)、合流する側はクウェー・ノーイ(小クウェー川の意味)と名前が分けられているようだ。因みに蛇足ではあるが、英語名のKwai Riverというスペルから「クワイ川」と呼ばれるケースもあるが、「クワイ」はタイ語でズバリ男の象徴「チ○コ」の意味なので、タイ人にクワイ・ヤイ(大きい)とかクワイ・ノーイ(小さい)とか言ったら眉間にシワを寄せられること必至である。

ひだり みぎ
谷を抜け、ジリジリとした日差しの下、タイの代わり映え無い農村地帯の中を南に向かって走る。乾季だからか砂埃が凄いこと!窓を開ければラテライトの砂埃責め、密封すれば熱気責めという悲しい2択を迫られる。

ひだり みぎ
1時間ほど走ると往路で見逃した地味な観光スポット・チョンカイの切り通しに差し掛かり、前方に線路部分の岩盤のみ切り取られた岩の塊が聳え立つのが見えてくる。たいした重機もない中、厳しい作業環境も相まって工事は大変に難航したそうで、鉄道建設の代償は大きかった。この近くには泰麺鉄道建設の為に犠牲になった約1750名の連合軍兵士が埋葬されたチョンカイ共同墓地が建てられている。


うおっ!車両幅ギリギリの岩肌剥き出しの切り通しは中々の迫力!でも泰麺鉄道の3大見所の一つの割にはあっけなく通り過ぎてしまう。こりゃあ往路で通った際に見逃すわけだ。同じ切通しでもヘルファイヤパスの方が規模が大きいし、他の二つの見所と比べて格下感は否めない。

そしてチョンカイの切り通しから10分弱、いよいよ戦場に架ける橋のモデルとなったクウェー川鉄橋に差し掛かる。

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ひだり みぎ
徐行運転で通過し、橋を渡った先にあるクウェー川鉄橋駅にて下車。


ここカンチャナブリーのクウェー川には、1943年2月にまず先線工事の為の資材運搬用木造橋が建築され、追って鉄橋が架けられた。全長約333m、橋脚と橋脚の間に小さい曲線のアーチを連ねて組み上げられている。建造後はしばしば連合軍の激しい空襲を受け、1945年には鉄橋中央部の3スパンが損壊して使用不能となるも、終戦から5年後の1950年に戦後賠償として日本の手で修復。現在でも再建された箇所以外は建設当時の橋脚と橋梁がそのままの姿で残っている。

ひだり みぎ
円弧型のトラス構造となっている部分が戦時中に建てられたオリジナルで、台形トラス構造で作られている中央2径間が戦後に新しく作られた修復部分。

ひだり みぎ
川沿いにはカフェ&レストランが並ぶ。


バンコクへと伸びる旧泰麺鉄道の路線。この鉄道によりミャンマーはタイと繋がり、さらに東のカンボジアやベトナム、南はマレーシア経由でシンガポールとが一つの路線で繋がるはずだった。無謀とも言える壮大な泰麺鉄道は一旦は全通を見たものの、戦後それは儚い夢と消えた。でも、いつか今度は経済的な理由でまた泰麺鉄道が復活する日がくるのではないかと思う。軍用じゃなくね。