水師営会見所に乃木将軍の武士道魂を見る

二〇三高地の麓まで戻ってきたが、ここからは路線バスも無く次の目的地である水師営会見所までの足が無いので、麓にある旅行会社で白タクを手配してもらうことに。最初の言い値は100元だったが、長い中国生活の癖が出て値切ると、結局50元で行ってくれることになった。

二〇三高地を下って車で20分ほど走ると埃っぽい町中に入る。
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ひだり みぎ

ひだり みぎ
煉瓦造りの小さな商店や工房、集合住宅などが建ち並び、馬に轢かせた荷馬車や三輪トラックが道を走り街頭では生きた鶏が捌かれる。中国で見るごくありきたりな町並だ。

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その一角にあるほんの小さな敷地、前方に見えるのが水師営会見所だ。旅順陥落後の1905年1月5日、旅順市内からは北西に4キロばかりのこの水師営にある民家で乃木希典将軍が敵将アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセル将軍とが会見を行い、停戦条約を締結した。当時この付近は両軍の激しい砲弾を受けて家屋という家屋は影も形もなくなっており、会見所に当てられたこの民家だけが残っていたそうだ。ここを占領した日本軍が屋根に赤十字旗をたなびかせて野戦病院として使用していたからだろう。会見の前日、壁に残っている弾のあとをともかくも新聞紙で張り隠し、会見室に当てられた部屋には大きな机を用意し、上から真っ白な布が掛けられた。下見分をした乃木将軍は陣中にふさわしい会見所の情景に微笑んだが、壁に張ってある新聞紙に、ふと目を注いで、「あの新聞紙を、白くぬっておくように。」と告げた。紙面一杯に露軍敗北の記事が踊っていたからである。更に乃木大将は沿道に隊列をつくって迎えることを禁止し、敗軍の将を見せ物にすることを避けた他、ステッセルと副官には帯剣を許すなど敗軍の将にも敬意を払う事を忘れなかった。勝てば全ての世界で敗者だる敵将に対して仁愛と礼節にあふれた武士道精神を持って接せられる乃木希典は何たる人格者であろうか。

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入って右手にある低い石塀で囲われた平屋の農家、この藁葺き屋根の粗末な家が会見所だ。当時の会見所は名高き文化大革命により破壊された為、現存の物は1996年に復元されたものになる。水師営の会見は、旅順降伏文書の調印が行われた3日後の1月5日午前11時過ぎから行われた。10時30分、ステッセル将軍は参謀長のレイス大佐、マルチェンコ、レブレスコイ両少尉と6人のコサック騎兵を連れて水師営に到着。一方、乃木将軍ご一行はやや遅れて11時15分に会見場に入った。乃木将軍に同行したのは、伊地知参謀長、津野田、安原、松平の三参謀、それに川上書記官の計5名で、会見は両将軍が双方の軍隊の健闘を称え合い、先日までの激戦が嘘のような和やかな雰囲気の中で行われたという。まさに昨日の敵は今日の友なのである。水師営会見の様子は「水師営の会見」という文部省唱歌に描かれている。

[youtube]https://www.youtube.com/watch?v=9JtS5CnK3d0[/youtube]

旅順開城約成(やくな)りて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ 水師営

庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木
弾丸あとも いちじるく
くずれ残れる 民屋(みんおく)に
今ぞ相(あい)見る 二将軍

乃木大将は おごそかに、
御(み)めぐみ深き 大君(おおぎみ)の
大(おお)みことのり 伝(つと)うれば
彼(かれ)かしこみて 謝しまつる

昨日(きのう)の敵は 今日の友
語ることばも うちとけて
我はたたえつ かの防備
かれは称えつ わが武勇

かたち正して 言い出でぬ
『此の方面の戦闘に
二子(にし)を失い給(たま)いつる
閣下の心如何にぞ』と

『二人の我が子それぞれに
死所を得たるを喜べり
これぞ武門(ぶもん)の面目(めんぼく)』と
大将答(こたえ)力あり

両将昼食(ひるげ)共にして
なおもつきせぬ物語
『我に愛する良馬(りょうば)あり
今日の記念に献ずべし』

『厚意謝するに余りあり
軍のおきてに従いて
他日我が手に受領せば
ながくいたわり養わん』

『さらば』と握手ねんごろに
別れて行(ゆ)くや右左(みぎひだり)
砲音(つつおと)絶えし砲台(ほうだい)に
ひらめき立てり 日の御旗(みはた)

会見では乃木とステッセル両司令官がお互いの検討を讃えあった。

「私のいちばん感じたことは、日本の軍人が実に勇ましいことである。殊に工兵隊が自らの任務を果たすまでは、決して持ち場を離れない忠実さに、すっかり感心致した。」

「いや、ねばり強いのは、ロシヤ兵です。あれほど守り続けた辛抱強さには、敬服のほかありません。」

「しかし、日本軍の二十八サンチの砲弾の威力には、弱りました。」

「あまり旅順の守りが堅いので、あんなものを引っぱり出したのです。」

「さすがの要塞も、あの砲弾にはかないませんでした。コンドラテンコ少将も、あれで戦死したのです。それに、日本軍の砲撃の仕方が、初めと終わりとでは、ずいぶん変わって来ましたね。変わったというよりは、すばらしい進歩を示しました。たぶん、攻城砲兵司令官が代わったのでしょう。」

「いいえ、代わってはいません。初めから終わりまで、同じ司令官でした。」
「同じ人ですか。短期間にあれほど進むとは、実にえらい。さすが日本人です。」

「承りますと、閣下のお子様が、二人とも戦死なさったそうですが、おきのどくでなりません。深くお察しいたします。」
「ありがとうございます。長男は南山で、次男は二百三高地で、それぞれ戦死をしました。祖国のために働くことができて、私も満足ですが、あの子供たちも、さぞ喜んで地下に眠っていることでしょう。」

「閣下は、最愛のお子さまを二人とも失われて、平気でいらっしゃる。それどころか、かえって満足していられる。閣下は実に立派な方です。私などの遠く及ぶところではありません。」

・・・打ち解けた両将軍の話が次から次へと続いたという。

会見後、乃木・ステッセル両司令官を中心に日露双方の参加者が記念撮影を行っていて、その時の写真が会見所の壁に貼られていた。
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日本軍とロシア軍の幹部が仲良く肩寄せ合って並んでの記念撮影で、あまりにも自然に親しげにしているのであたかも同盟国同士の軍事演習での記念写真かのようにすら見えるが、これは確かに両軍合わせて約8万7千人もの死傷者を出した旅順攻囲戦の停戦条約が結ばれた際に撮られたものだ。

別れの挨拶のとき、乃木将軍はこれからのステッセル将軍の身の振り方について、次のような提案をしたと伝えられている。
「あなたが帰国を望まれるなら、そのように取りはからいましょう。日本に滞在なさりたいなら、京都に知恩院という寺があります。そこを宿舎になさってはいかが?」
ステッセル将軍は乃木将軍の親切に感謝したが、我が身の上については皇帝の意向を伺わなければと、答えた。後に将軍は皇帝に電話したところ、皇帝の返事は勝手にせよと冷たかったが、皇后は帰国を勧めたという。水師営の会見から1週間後、ステッセル将軍は夫人と4人の養女を伴って汽車で大連を発った。見送る部下将校の姿は少なく淋しいものだったという。彼は帰国したら皇帝に謁見でき、ねぎらいの言葉をかけられるものと期待していたが、予想に反して逮捕され、最高軍法会議であらゆる抵抗手段を尽くすことなく投降した責任として死刑の宣告をうけ、後に減責となり10年の懲役刑に処せられたそうだ。ステッセル将軍が投獄されたと聞いて愕然としたのは乃木将軍だ。彼は皇帝に「将軍は万策尽きて開城したのであったわけで、罪を許されよ」との旨を記した嘆願書を送ったという。その甲斐もあってか恩赦を受け出獄することができたステッセルだが、生活には困窮したそうだ。それを知った乃木は名前を伏せてしばしば金銭的援助をした。そして、1912年の明治天皇崩御の後に乃木大将が殉死した際、ステッセルは皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔慰金を「モスクワの一僧侶」とだけ記して送ったとされている。

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会見場は入って左側のがらんとした土間の部屋に野戦病院の手術台だったという長机が1つと長椅子が2つ置いてあり、壁には会見当日の写真が1枚飾ってある。それだけ。史跡としても観光地としても、扱いが今ひとつ半端である。写真撮影も不可。入って右側の部屋には数枚のパネル写真が掲げられていて、これらは写真撮影可能。ゆっくり見たかったのだが、日本語ができる自称「無償ガイド」がついてきて、ドネーションを迫ってきたので、落ち着いて見学をすることもできなかった。

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敷地内の土産屋ではこの旅順工芸品を150元で購入。ガイドはありがたいが、もっとゆっくり静かに見学したかったんだがなぁ…二〇三高地でもそうだったが、旅順の観光地で働かれる人たちは商魂逞しすぎて、感傷に浸りたい気分を見事に台無しにしてくれる。

水師営会見所
住所:旅順口区水師営会見所
電話:86233509
時間:8:30-17:00
定休日:無し
料金:40元(約650円)

 

日露戦争の最激戦区となった二〇三高地

永遠と待っても路線バスが来なかったので、痺れを切らしてタクシーにて203高地の麓までやってきた。

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一般車両で乗り入れできるのはどうやらここまでのようで、ここからは山の麓にある旅行会社の専用車、観光用の駕籠、もしくは徒歩で頂上を目指すことになる。籠屋に群がられるも、自らの足で自力で急坂を登って頂上を目指したかったので丁重にお断り。

映画『二百三高地』で見た通り当時は丸裸の山だったそうだが、今では植樹が進んで緑の山となっている。道も舗装されすっかり遊歩道として整備されている が、今から109年前、この山の頂上を占領するために実に多くの同胞の血が流されたというのは紛れもない歴史的事実である。1904年の11月26日から 12月6日まで続けられた203高地攻略戦で日本軍は約64,000の兵士を投入し、戦死者5,052名、負傷者11884名という信じがたい数の犠牲者を出した。
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映画などで描かれる203高地攻防戦では日本兵がなだらかな斜面を走ってきて、ロシア側の機関銃に掃射されるというようなシーンがあったが、実際の203高地は思ったよりも急な坂だ。この急斜面を完全武装の露軍の要塞に向かって三〇式歩兵銃を抱えて突撃していった明治の日本人。幾度となく跳ね返されながらも最終的に肉弾をもってこの要塞を陥落させたその姿を考えると鳥肌が立つ。

それでは、何故このような無謀な強硬策に出たのだろうか。実は、203高地攻略は開戦時には陸軍の作戦にはなかった。ロシア艦隊の排除による制海権の維持を至上課題としていた海軍の要請により、副次的任務として組み入れられたのである。

1904年2月6日、ロシア政府に国交断絶を通告したその日、日本政府は連合艦隊を進発させ、全面戦争への火ぶたが切って落とされた。当時、ロシアの太平洋艦隊は旅順港を拠点としており、この艦隊を壊滅させなければ、日本海や黄海での制海権は保証されない。しかし、老虎尾半島の突端と対岸の黄金山山麓に挟まれた旅順口は幅が270m程しかなく、しかも、水深が浅い為に大型戦艦が航行できるのはそのうちの3分の1程度にすぎない。最高の軍港と称され今でも人民解放軍の軍港として使われているこの旅順港、攻めたくても入り込めないのだ。そこで、連合艦隊は旅順口に貨物船などの廃船を爆破して沈め、ロシアの太平洋艦隊が外洋に出られなくするという無謀とも見える奇策をとった。しかし、天候に恵まれなかったり、廃船を目的地点に運ぶ前に発見されて集中砲火を浴びたりと、旅順口閉塞作戦を3度決行したがいずれも失敗に終わる。一方、ロシアのバルチック艦隊が遠く本国から巡航してくる動きをみせていた。バルチック艦隊に加勢されれば日本の連合艦隊の勝ち目は無い…日本海軍に時間の猶予がなくなった。

そこで、陸軍に旅順の高地を奪取させて背後から旅順を攻める計画が立てられた。
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こんな感じのイメージだ。大本営は急いで第三軍を編成、その司令長官には乃木希典を任命された。乃木将軍の率いる第三軍は6月6日、遼東半島の塩大澳に上陸すると旅順要塞への攻撃を開始し、三回に渡る総攻撃を行う。しかし、強固に築かれたロシアの防壁を突破する事はできず、第三軍は大敗北を重ねる。ロシア軍は巨費を投じ、6年もの年月をかけて鉄骨とベトンで固めた砲台と銃座を無数に構築、この難攻不落の永久要塞を取り囲む防御陣地は25キロにも及んでいた。堡塁は厚さ1~2mのコンクリートで固められ、その前には幅6~12m、深さ7~9mの壕が掘られている。さらにその外側には電流を通じた鉄条網が張り巡らされ、地雷まで埋められていた。そして連ねられた700門の砲台と三十二個大隊、約4万2千人の守備隊が日本軍を待ちかまえており、鉄壁強靭な敵軍要塞に真正面から果敢に攻撃する日本軍が屍の山を築くだけだったのは当然のようである。旅順要塞の正面攻撃に固執する第三軍司令官の乃木将軍がようやく乃木将軍が二〇三高地攻略に作戦を切り替えたのは、第三回総攻撃で甚大な被害を受けた後のこと。11月28日の朝から二〇三高地への砲撃が開始され、夜半までに二〇三高地の西南山頂を占領した。日本軍の攻撃目標が二〇三高地に変わったことを察知したロシア軍は、要塞から増援部隊を出して逆襲にでてきた。突撃と退却が繰り返される戦場では、敵味方の死体が四重にも五重にも重なっていて、占領した地点に陣地を構えるのに、日本軍は土壌が不足したため死体を積み上げて戦ったともいわれる。それでも占領地を支えきれず、29日の夜に再奪還され、その後は一進一退の戦況が続く。弾丸が欠乏し致命的な状況に追い込まれた日本軍は、石塊や砂礫・木片まで武器に変えて応戦し、必至でロシア軍を撃退、そして12月5日には二〇三高地西南部を再び占領することに成功。劣勢が必至となったロシア軍は12月6日には雪崩を打って敗走し、二〇三高地はようやく日本軍の手に落ちた。

二〇三高地を確保した日本軍は、ただちに砲撃の観測所を設け、その観測指揮にしたがって港内のロシア戦艦に対して28センチ砲の砲撃を開始した。午後2時、四方を圧する砲声を轟かせ、最初の28センチ砲弾が山稜を越えて湾内のロシア艦隊に襲いかかった。砲撃は以後も続けられ12月8日までにロシアの太平洋艦隊をことごとく撃沈していった。こうしてロシア太平洋艦隊は一度も日本の艦隊と砲火を交えることなく消え去った。

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今歩いている山頂への道付近も、敵味方の砲弾が炸裂して山の斜面は月面のような無惨な姿に変わり果てていたはずである。せっかく占領した陣地を守ろうとしても、日本兵はすでに弾丸を撃ちつくしていたので、迫り来る恐ロシアの武装敵兵に対して、石塊や砂礫、木片まで武器に変えて応戦して撃退したという。そうした光景が頭の隅を過ぎると周囲の景観が酸鼻を極めた戦場に変わり、背筋に悪寒が走る。

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重砲観測所。実際の大砲からの攻撃は頂上からではなく山の後方からだったので頂上に観測者がいないと打ち込む方向を定められなかったようだ。

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大汗をかきながらようやく山頂にたどりついた。広場の中央には爾霊山と書かれた銃弾の形をした奇妙な忠魂碑が立っている。戦場に散らばった弾丸と薬莢を集めて日本で鋳造し直して造られた忠魂碑だ。記念碑の「爾霊山」の文字は乃木大将の揮毫によるもの。「爾」は「なんじ」という意味なので「爾霊山」は「なんじのたましいのやま」、即ち203高地攻略戦で犠牲となった膨大な命を慰めるために建立された慰霊碑である。日露監獄跡で爾霊山に残った白襷隊と思われる屍の山の写真を見ていることもあり、何だか涙が出てくる。「今はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった」とか「日本の国民を騙してる」とかいう文章を日・中・英の3ヵ国語で書きやがってる。

高射砲横には記念撮影商売用の軍服や軍帽があったり、土産屋『坡上雲』の売り子にしつこく商品の購入を迫られるなど、がっかりした。別にプリントTシャツやお守りなどの記念品を買いに来てるわけじゃないし軍装して記念写真を撮りに来た訳でもない。このような場所での押し付け商売は止めて頂けないものなのだろうか。

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こちらは旅順港口に照準を定められた280mm榴弾砲。重さ10,753kg、砲弾の重さ217kgで射程は7,8km。二〇三高地争奪戦では大砲60余台を使用、11,000発以上の砲弾が日本軍により放たれた。日露戦争は近代世界戦史の中でも悲哀をもって語られることが多いが、旅順攻囲戦はその悲哀を象徴する戦いであり、二〇三高地はその最激戦区であった。歴史好きや坂の上の雲を読まれた人は一度足を運んでみるのも良いだろう。

203高地
住所:旅順口区203高地
電話:86398277
時間:5月~10月上旬=7:30-17:30/ 10月中旬~4月=08:00-16:00
定休日:無し
料金:30元(約500円)

旅順博物館と旧関東軍司令部

日露監獄旧址前から3番のローカルバスに乗り、旅順博物館・旧関東軍司令部跡へと向かう。

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五十六中学なんていう駅があるが、まさか連合艦隊司令長官の山本五十六に因んではいないよなぁ。

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運賃は2元。ローカルバスといってもかなり清潔。停車駅を表示する電光掲示もあるので言葉が聞き取れずとも自分の目的とする駅で降りる事ができるだろう。

旅順博物館への交差点にある勝利塔駅で下車。この勝利の塔は抗日戦争終結10周年とソ連の占領軍の引き上げを記念して建てられた。高さは終戦の年に因んで45メートルだそうだ。塔の先端にある星を乗せた15メートルの黄金色のオブジェが何とも共産主義国ロシアと中国の合作っぽい。
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塔身内には180段の階段があり上部へと登ることができると聞いていたのだが、門は閉まり係員も不在だったので断念。どうせ後で行く203高地からもっと良い眺めが見れるだろう。

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『英雄なるソ連の武装部隊は日本帝国主義の精鋭であった関東軍を粉砕。中国人民武装部隊と共に日本の侵略から中国を解放した。』

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勝利の塔のすぐ横は中国人民解放軍の現役の軍港だ。軍事機密保護の為に外国人による旅順訪問が制限されていた旅順。2009年に外国人の渡航が許可されるようになったが、今でも軍港周辺や軍港公園などは外国人立入禁止区域となっている。周囲を歩いていて理不尽に身柄を拘束されかねないお国なので、とっとと旅順博物館の方へと歩いて行くことに。

旅順博物館は帝政ロシア時代から使用されていた歴史ある建物で、当時はロシア人将校クラブとして利用されていた軍の施設だったが、日露戦争で日本が旅順を 占領した後の1915年に満豪物産陳列所として開設、翌年、関東軍都督府満豪物産館と名称を変更し、1917年に博物館として一般に公開されるようになった。
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主館と分館と分かれそれぞれそれなりの展示物を揃えているが、日本人にとっての目玉は何といっても大谷探検隊が第三次探検の際にトルファンで発掘した新彊ミイラだろう。

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ロシア人将校が使っていた時代には舞踏会が開かれていたであろう大ホールもあり、100年前に奏でられたはずの美しく優雅な音楽が聞こえ、社交に興じる100年前の軍服姿の将校達が頭に浮かんでくるようだ。

【閲覧注意!】
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南北朝~唐時代の高昌国の貴族のものと考えられているこちらのミイラ、保存状態はすこぶる良い。人間の原型を留めたお姿で横たわられているのを実見すると人間の生についても考えさせられ厳粛な気持ちになる。勿論、ミイラ以外にも明治から大正にかけて中央アジアやインドの仏教伝播ルートを調査した大谷探検隊が収集した文物が数多く展示されている。

因みに大谷探検隊を率いていたのは考古学者でも歴史学者でもなく、お坊さんだった。京都・西本願寺の第22世門主・大谷光瑞氏である。大谷氏は明治維新後に急速に西洋近代化を果たした日本における仏教の将来展望に危機感を持ち、早くにイスラムが浸透してしまった中央アジアを中心として仏教東漸のルートを踏破することで浄土三部経など仏典の起源を突き詰めたいとのことで中央アジアの仏教遺跡の調査、仏典史料をはじめとする文物の収集を行ったのだ。合計で3度の探検を組織し、碑文の拓本・古銭・染織断片・西域語による絵画や彫塑などの歴史的文物を発掘、収集品を旅順博物館へ寄贈したとされる。

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若き日の大谷光瑞(こうずい)氏。第三回の探検進行中に、探検の費用を本願寺の会計から不当に流用したということで1914年に責任をとって門主を辞され、その後は旅順に移って研究を続けられたそうだ。戦前、欧米諸国をはじめ日本でも多くのアジアをフィールドとした学術調査が実施されていたそうだが、未踏の地を目指す開拓者たちの野心・野望、先人達のチャレンジ精神に感服せざるにはいられない。

旅順博物館を外に出ると、中ソ友誼塔と関東軍司令部旧跡(背後の黄色い建物)の姿が目に入る。
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貝塚伊吹に取り囲まれ、緑の茂みの中からそびえ立つ高さ22.2メートルの中ソ友誼塔。1955年の2月23日に定礎し、当時の周恩来総理が自ら中ソ友誼塔定礎と題字したらしい。下層部には天安門、ソ連のクレムリン宮殿、鞍山鉄鋼の高炉、旅順港や中ソ両国人民のレリーフが彫られている。そして塔の先端には黄金のハトが羽を広げて飛びたたんとしている。中国人はハト食べまくりだが、中国でもハトは平和の象徴なんだろか…

こちらは関東軍司令部旧跡。満州事変後に奉天、後に新京(現長春)に移るまで関東軍司令部だった建物で、今は博物館になっている。
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関東軍は日露戦争で獲得した南満州鉄道遼東半島租借地の守備隊を前身とし、1919年に関東都督府が関東庁に改組された際に関東軍として独立。独立守備隊6個師団と内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団などから編成され、在満陸軍全部を統括して関東州(現在の大連・旅順周辺)の防備を担っていた。その後に満州事変を引き起こしてからの流れは世界史の授業で習う通りだ。

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『日本が中国に全面的に侵略…』『関東軍の犯罪行為』『済南虐殺事件』『みだりに武力を用いて中国人を殺した…』などなど、ショッキングな日本語が並ぶ中に更にショッキングな写真が展示されているので、早足に見学を終えることにした。

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関東軍司令官オフィス。

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参謀部。真白い像が不気味で冷酷な印象を演出している。

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正面に見る中ソ友誼塔と旅順博物館。

続いては日露戦争中に激戦区となった203高地へと向かう。

抗日愛国教育拠点でもある日俄監獄旧址

続いてはタクシーで日露監獄旧址へ。「俄」というのはロシアを意味する中国語・俄羅斯の頭文字から来ている。1898年に旅順・大連を租借した帝政ロシアは旅順港を侵略基地として植民統治機構を設置、軍隊・特殊警察が各地に遍く配置された。反抗的な人民が逮捕拘禁されていったことから大規模な監獄が必要となり、1902年に旅順監獄の建設に着手する。しかし、1904年には日露戦争が勃発したことから85の牢獄を建設しただけで建設計画の中止を余儀なくされ、戦時は野戦病院及び兵営として利用された。日露戦争勝利後には日本が建設途中であった建物を接収、更に253の牢獄、4の地下牢、18の病人用獄舎を拡張し、『関東庁監獄』『旅順刑務所』として運営、犯罪人や中国、満州、朝鮮などの反日抵抗者を収監した。1945年8月ソ連軍の旅順進駐により監獄は解体されたが1971年7月監獄旧跡として修復、中国人の為の抗日愛国教育拠点となり、『帝国主義侵華の罪行展覧』やら『犯罪証拠文化財展』やらが開催されてきたそうだ。その後、中国政府は海軍基地がある旅順の軍事機密を保護するという理由で旅順への外国人の立ち入りを制限していたが、2009年の旅順解放に伴い外国人に対しても博物館として開放される運びとなった。

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巨大な監獄跡。周囲は高さ4mの塀で囲われている。

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ロシアは青レンガ、日本は赤レンガをそれぞれ建材としたため、両国の施工部分がはっきりと分かる。監獄塀内の占有面積は26万m2で、東側の三階に87室、中央二階に84室、西側二階に82室の監獄が配されて、最終的には最大2000人余を収容できる規模となった。伊藤博文を暗殺した韓国人・安重根も144日に渡って収監され、最後は『国事犯』としてこの地で絞首刑に処されたそうだ。道理でチケット売り場に併設された土産物屋にバッジやらコインやらの安重根グッズが並べられているわけだ。

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こんなもの韓国人くらいしか買い手がいないのではないか。それでも仕入れて販売しているということは相当数の観光人観光客がこの地に来て大韓民国万歳!と大いにナショナリズムを刺激されているのだろう。そういや至る所にハングル文字での解説看板が建っている。安重根や周恩来、孫文、プーチンのグッズは扱うが東郷平八郎や東条英機、安倍総理の記念品が置かれていないというのはまぁ、『そういうこと』なんだろう。ただの博物館ではなく抗日愛国教育基地も兼ねているのだ。

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どうでもいいが、安重根さん、顔立ちと良い髭具合と良い、世界のナベアツと完全一致しているではないか。

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獄舎に入ると先ず検身室がある。囚人服はレプリカじゃないのだろうか、汚れ(まさか血痕じゃないよなあ)が付着している生々しい衣服も架けられている。囚人服の色の違いで何らかの区別がされていたのであろう。

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更に獄舎を奥へと進んで監房の中に入る瞬間、レンガ造りの建物の内部から冷たい空気が出てくるのを感じた。気持ちのよい冷たさではなく、気味悪さから来る背筋の凍るような悪寒である。外部に面した半地下の独房など窓一つ無く光を閉ざされている上に天井も低くスペースも狭い為、数時間入るだけで発狂してしまいそうだ。一般的な居房は15㎡ほどで、平均で1部屋あたり7~8人が収監されていた。

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こちらは安重根が収容された監房。看守部長の当直室の横にあるこの監房に単独で拘禁され、24時間体制で一挙手一投足を監視されていたそうだ。

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計11条から成る収容者遵守事項。日・朝・中の3ヵ国語で獄舎の壁に張り出されている。

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回廊の地面は鉄格子を付けた吹き抜けになっている。徹底した監視体制が敷かれていたそうなので、上下のフロアの様子も観察できるように設計されたのであろう。

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重さ11kgにもなる鉄球は脱獄を試みた囚人などに装着された。

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こちらは日本敗戦時の監獄所長・田子仁郎氏の筆供自述書。戦後は身柄を拘束され、遼寧省北部にある撫順戦犯管理所へと送られたそうだ。こちらも現在では観光地化されている。

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監獄の周囲の刑務所用地には果樹園、造林地、野菜畑が開発され、服役者が労働にあたっていた。労働時間は季節によって7段階に分けられていて、一番短い1月と12月は一日5時間半、一番長い6月と7月は9時間半で、それぞれ室内労働の場合は1時間追加されていたそうだ。

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工場と医務室。被服、紡績、織布、印刷、鉄工木工など、合計で15の工場が建てられた。

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監獄の東北の角には二階建ての絞首刑室も建てられた。台下の床が開いて地下室に落下する構造になっている。

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こちらは日露戦争の様子を納めた貴重な写真である。恐らく白襷隊であろう、文字通り御遺体が山積みになっていて、目を背けたくなる。

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旧日本軍280サンチ砲基地と日露軍人の集合写真。中列左から二番目が乃木稀典。

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露兵の墓標、靖安游撃隊五勇士戦死之地碑、満洲國建國紀念植林碑など。満洲各地にはかつて日本人の建てた慰霊碑や記念碑が数多く建てられたそうだが、日本の敗戦後、特に文革時にその多くが破壊されたと聞いている。旅大(旅順、大連、金州)地区にあったものの一部がここに集められたのだろう。

監獄というのは余り気持ちの良い場所ではないし、特にここは韓国人や中国人訪問客向けの展示内容となっているので見学していて心苦しくもなってしまう。それでも興味の湧く方は是非足を運んでみてください。

旅順日露監獄旧跡博物館
住所:大連市旅順口区向陽街139号
時間:08:00~16:30
定休日:無し
料金:25元(約400円)

大連開発区から日露戦争の最激戦区・旅順へ

今日は早起きして朝一のバスで旅順へと向かう。

日露戦争の最激戦地として歴史の教科書に登場する旅順は、海外情報に詳しくなくとも名前だけは聞いたことがあるという方も多いと思う。旅順は遼東半島の最南端に位置し、現在は大連市旅順口区として大連市の中の一行政区となっている。総面積506km²、人口約26万人で、大連市中心部からは約45キロの地方都市だ。太古から天然の良港として知られていた旅順は小さな漁村として歴史を歩んでいくが、1878年に清の北洋艦隊の根拠地となったことでその静かで穏やかな歴史が一変。日清戦争で清が敗れた後から日露による争奪戦の的となり、激しい戦火に晒されるという惨事に見舞われる。日露戦争後は日本の、終戦後はソ連軍による統治を経て1955年には中国へ返還されました。中国返還後は人民解放軍の軍港都市として軍事上の関係で外国人の訪問を禁止されていましたが、2009年12月には軍事施設以外の訪問可能地大幅拡大という解釈で外国人の訪問規制が大幅に緩和され今に至ります。こういった歴史の街なので、観光スポットの殆どが日露戦争関連だ。最大の激戦区となった203高地、戦争終結が宣言された水師営会見所、堡塁に監獄など…小生はミーハーですので、坂の上の雲で読んだ203高地をどうしても我が目で見てみたいと思い、半日という限られた時間で旅順を周ることにした。

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大連開発区バスターミナルから旅順まではバスで約80分、運賃は19元だった。朝一なのに人民の皆さまはハイテンション。ギャーギャーワーワー騒がしい!!

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駅舎の様子。規模は小さいが遼寧省各地へ向けてのバスが出ているようだ。朝飯として肉まんやら揚げパンやらを思い思いのまま食べてバスの出発を待つ人民たち。旅情が漂います。

【大連開発区⇒旅順のバス運賃・時刻表】

出発地点到着地点出発時刻距離運賃
市开区汽6:3071キロ¥19元
市开区汽7:3071キロ¥19元
市开区汽9:2071キロ¥19元
市开区汽10:2071キロ¥19元
市开区汽13:1071キロ¥19元
市开区汽14:1071キロ¥19元
市开区汽16:1071キロ¥19元
市开区汽17:1071キロ¥19元

大連市内からはバスや列車で旅順まで向かう事ができる。

◎バス利用
・黒石礁バスターミナル
06:30~19:00 15分間隔 6元 約35分

・大連駅北広場
05:30~19:40 5元’各駅)・7元(直通)約1時間

◎列車利用
大連←→旅順
快速 大連 15:00 ⇒ 旅順 16:03
快速 旅順 09:26 ⇒ 大連 10:29

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06:30開発区発のバスに乗り込む。乗車後は車窓風景を楽しみたかったが、ついつい転寝をかましてしまう。

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目を覚まして外に目をやると、なんとまあ普通に馬がお隣の車線を走っててぶったまげた。。

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道中は殆ど寝てしまい、気づいたらあっという間に旅順バスターミナルに到着。

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バスターミナル内部。ドーム型屋根で非常に開放的な設計になっている。

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おっ!!?

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え~~。どうしてそんな恰好なの!?無防備すぎるだろうwww

気を取り直して市内探索へ出てみることに。
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ロシアによる統治の影響だろうか、街並みはどことなくヨーロッパの街並みを彷彿とさせる。

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おっ?これはなんだ?

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旅順萬忠墓記念館…これはもしや…

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エントランスにいきなり真っ赤な『旅順大虐殺』の文字が!!そして下には『沈痛悼念在旅順大虐殺中殉難的同胞』書かれている。こりゃあ愛国主義基地の一つか!?

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きたーーー!やっぱり!!!

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博物館の最後は『Never Forget!!』と力強い一言で結んでいます。こりゃあ