宋都御街・龍亭公園 開封日帰り旅行2

鄭州からの開封日帰り旅行。夏の禹王を祀った禹王台公園の見学を終え、8路のバスで開封市街地へ。次なる目的地は宋代の宮廷画家・張択端の画巻『清明上河図』に描かれた風景・風俗を再現した古都開封市内の歴史文化テーマパーク・清明上河園。

中国北宋の都・開封の都城内外が賑わい栄えた様を描いた清明上河図。残念ながら1305年の黄河の氾濫により宋の都・東京は地中深く埋もれてしまったこともあり、清明上河図は当時の東京のありのままの姿を残した唯一の資料となっている。


東京開封府内外の人士が行楽する様子が全長約5メートル・縦24センチに渡って活き活きと描かれた清明上河図。その登場人物数は実に773人。幸せそうな市民の生活の様子が事細かに描かれ、宋朝当時の市街図や風俗図としても極めて資料的価値の高い資料となっている。

そんな古の街・開封。市街地への途中には磚積みの城壁が遺されていた。


戦乱や黄河の氾濫を経験してきた開封の城壁は多くの王朝が修復を繰り返してきたそうで、東西4km・南北3.3kmの範囲を取り囲んだ現存の開封城跡は、1842年に清王朝が再建したものになるそうだ。

最近になって建てられた鼓楼なんかも。

7代の王朝が都を構え、宋代にはコルドバ・コンスタンチノープルと並んで世界一の繁栄を誇った歴史的都市・開封であるが、今や人口50万人程度の中小都市。中華人民共和国設立後は省都の座もお隣の鄭州に奪われ、地方都市の一つに成り下がってしまった。そこでなんとか盛り返しを図ろうと、古都の名前を活かして観光都市としての再生を図っている最中にあるようだ。



文明市民は赤信号を渡らないよとの看板の直ぐ横を信号無視する非文明市民多数で、民度の低さをまざまざと見せつけられた。多分、赤信号に対して罰金を課すようにするくらい強気に出ないと効果は上がらないんだろうな。


鼓楼から清明上河園を目指して歩いていると、ちょうど宋都御街に行き当たった。北宋時代、北の皇居の宣徳門から外城の南熏門までの5Km余りに栄えた御街を模倣して造られた商店街ということらしい。こういった模倣物ばかりなのが残念なところなんだけど、黄河の洪水が頻発してきた当地では、街が栄えては洪水で埋もれるというサイクルを繰り返してきたようで、過去に築かれた歴代王朝は全て今の町の地下に地層となって埋もれているのだと。


ひだり みぎ
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現在の宋都御街は全長400m程で、通りの両側には土産物・骨董品・絵画・刺繍品なんかを取り扱う合計50程の楼閣店舗が軒を連ねている。屋号も宋時代の文献通りに書かれている程の拘りようなんだけど、道幅広く自動車が行き交っているからか、歴史街と言われてもどうもしっくりこないところがある。


樊楼も史書に基づき忠実に再建されたもので、東・西・南・北・中の5つの3層の楼閣から成り、それぞれの楼閣が飛橋で繋がっている豪華な造り。

宋都御街の北端には宋・金代の皇帝の御苑で明代の周王府の跡地に建てられた龍亭公園の入口となる午門と湖とが見える。地図を見ると、龍亭公園・天波楊府・中国翰園・清明上河園と王府跡地内で繋がっているようだ。

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湖と園林の景観が美しく、龍亭公園は中国の百家名園の一つとされているそうだ。はっきり言ってただの公園なんだけど、驚くべきは、湖の下6メートル程に明の周王府が、10数メートル更に深い所には北宋の紫禁城が埋没されているという事実。観光都市として巻き返したいのなら、こんな宋代の再現アミューズメントパークなんか作ってないで歴代王朝の都を掘り起こした方が…と思わざるを得ないのだが、何かしら採掘できない事情があるのだろう。

入場料50元を支払って園内へ。

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入口の門を入り、左右に広がる楊家湖と潘家湖という人造湖の間の道を歩いて行くのだが、この湖に纏わるストーリーが面白い。なんでも、宋の開国当初に活躍した楊業と潘仁美という二名の官吏に由来する湖なんだそうだが、公園の西側に広がる楊家湖は水がきれいで東側の潘家湖は汚く濁っているのである。まぁ平たくいえば、楊業は実績十分で公明であり、潘仁美は卑怯下劣で汚い男だった、ということらしい。

中門を抜けた先には、高く積み上げられた煉瓦の台の上に黄金色の瑠璃瓦屋根が眩しい龍亭宮殿、通称・万寿宮大殿が建てられている。煉瓦の台の高さは13mで、72段の階段を上って上部からの景色を楽しむことができる。

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周囲を囲む2つの湖や宋都御街や清明上河園などが見渡せる。


万寿宮大殿の中には当時の皇帝の玉座が再現されている。


続いて、先述の楊業の邸を再現したという天波楊府へ。別にここに来たかったという訳ではないのだが、龍亭で迷ってしまって、気付いたら龍亭公園の中にある天波楊府に彷徨いこんでしまったというわけ。入場料30元。


楊業氏?

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楊一族の屋敷と言われても、自分には知識が無いので、龍亭公園と同じくただのだだっ広い公園にしか映らない。


正直、楊一族に思い入れの無い一介の外国人観光客には、こんなんで金を取るんか?という内容。美しい公園程度に考えた方が良いだろう。


この日も36℃のカンカン照り。あー、暑いわー日陰に入りたいーと思っていた自分の前をバンドで日傘をおでこに固定して颯爽と歩き去るオッサン。必要は発明の母なり。なんか最後に中国の強さを見せつけられた気がしたね。

…謎の公園に時間をかけすぎたばっかりに結局ここでタイムオーバー。清明上河園を見ずして開封を後にする。

【鼓楼・清明上河園・龍亭公園】



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鄭州から開封日帰り旅行1 禹王台公園と繁塔

鄭州から高速鉄道でやってきた古の都・開封。西安や洛陽といった都城の東に位置していたことから東京と呼ばれ、北宋の時代には世界最大級の都市として栄えた古都である。

主な開封の観光名所は以下の通り。
・清明上河園(『清明上河図』に描かれた街並みを再現したテーマパーク)
・龍亭(明代に建てられた宮殿)
・禹王台(夏の禹王を称えて作られた廟)
・繁塔(974年建立の仏塔)
・宋都御街(宋代の商店街を再現して作られた町)
・鉄塔(1049年建立の仏舎利)
・延慶観(元代に作られた寺院)
・大相国寺(555年建立の寺)
こんなところかな。古都なだけあって、古い寺や公園が主な見所となっている。

時間はちょうど10時、どこから攻めたら良いだろうか…。鉄道駅前には開封の観光スポットを紹介する広告が立てられていたのでチェック。
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開封が東京開封府と呼ばれていた頃の名残だろう。東京極地海洋館なる施設があるのだが、その英訳がまさかのPolar Aquarium in Tokyo。なかなかやってくれるわい。


とりあえずローカルバス乗り場で出発待ちだった8番のバスに乗り込むと、お誂え向きに終点が夏の禹王を称えて作られたという禹王台公園。運転手曰く渋滞が無ければ1時間で着くとのことだったので、ここは思い切って31駅先の終点・禹王台公園まで行くことに。寺とか塔を見るよりも、伝説の王朝・夏を作ったとされる禹王に纏わる公園の方が面白そうだしな!


運転手が言う通り開封北駅を出てちょうど1時間、禹王台公園に到着した。見た感じ場末感マックスで冴えない公園といった感じなのだが、一応は有料の観光スポットらしいので30元の入場券を買ってから中へと入る。

古代梁の時代の庭園遺跡で、千古名園とも称される禹王台公園。樱花园・牡丹园・芳春园・石榴园が広がり、まるで植物園かのように多くの緑で覆われた敷地内に、「古吹台」「御書楼」「禹王廟」「三賢祠」といった幾つかの見所が点在してるようだ。

ひだり みぎ
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禹は言わずと知れた夏王朝の初代王。夏王朝の始まりは紀元前2070年頃で、史記などの文献でしか語られることがなく多くの謎に包まれてきた。これまで伝説や神話上の王朝と言われてきたのが、近年の相次ぐ考古学的な発掘により禹が作った中国最初の王朝の姿が次第に明らかになってきている。なんでも黄河の治水に成功し、「黄河を治むる者は天下を治む」を最初に体現した王朝だったのだとか。

史記には禹王についてこのような言及がある。

遥か昔、世界は洪水が相次ぐ厳しい時代で、農業に頼っていた古代中国の集落は壊滅的な被害を被ることに。為政者たちがどのような策を講じても荒れ狂う大河を抑することは出来ず、人々は貧しい生活を余儀なくされていた。そこに禹という一人の若者が現われた、全国の治水に邁進した。厳しい自然との戦いで若々しかった肉体は老人のように不自由になったが、それでも歩みを続けることを止めなかった偉大な禹は13年後に全土の治水に成功。生まれ変わった豊かな土地で民の暮らしは一変し、周囲から推された禹は王として即位。中国最初の王朝・夏を作り、大いに繁栄させましたとさ。


歩を進めると、先ずビックリするのはトイレ。ありますよね、トイレ行きたい時に限ってトイレの前に長蛇の列って時。そんな時の為に、こちらの公園では一般的なトイレに加えて緊急トイレなる施設を用意がされている。その名も応急厠所。流石は治水王を祀る公園といったところか。

西門には974年建立の古い繁塔が遺る。宋代は六角九重の塔で高さ80メートル余りの仏塔だった。それが明代には三重を残して崩れ落ちたので、三重の塔の上に七重の小さな磚塔を増築したそうだ。
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塔身は異なった釉で焼かれた四角いレンガで築かれており、一つ一つのレンガに精巧な釈迦牟尼・観音・羅漢など様々な仏の姿が彫られている。何とも不思議な塔である。



碧露元君祠。

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続いて1517年に建てられた三賢祠。ここで言う三賢とは李白・杜甫・高適の唐代三大詩人を指すようだ。

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三大詩人による名場面集が塑像をもって表現されている。一体全体何が表現されているのか漢詩について明るくもない自分には看取れんが、李白・杜甫・高適の仲がすこぶる良かったのであろうことはなんとなく伝わってくる。

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こちらは詩人の家の再現だろうか。


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大禹治水廟の石碑。文明を生んでは破壊し、また文明を生み出し破壊する母なる大河・黄河。時には荒れ狂い都市をも飲みつくす強大な大自然を制して国を発展させた禹王は、今の中国の礎を作った人物として古代から多くの人々に信奉されてきたそうだ。


正殿の西院は中国の歴史上で治水に功績を挙げた人物38名を祀る為に建てられた水徳嗣と呼ばれている。「功在河洛」の文字は乾隆帝によるもの。


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治水の様子を描いた壁画や治水に関する記載のある石碑が並ぶ。


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こちらが王の廟。もともとは春秋時代の晋国の大音楽家師昿がこの高台で演奏を楽しんでいたことから「吹台」と呼ばれていたが、明代の1523年になり中国最古の治水の王である禹王の功績を称える為、この高台に禹王廟が建てられ禹王台と改名された。

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ここには禹王による名シーンの再現が。

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他にも子供騙しな遊園地があったり…

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防空壕があったりと、見所満載の禹王台公園!毎年10月から11月にかけては菊花花会なるお祭りも催されるようですよ。

【禹王台公園】

住所:開封市繁塔東街38号
入場料:30元
アクセス:8・12・15・46路のローカルバス



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三国志ファンの聖地 成都武侯祠と錦里古街 楽山・成都旅行10

成都二日目正午前、成都北郊の都市・広漢にある三星堆遺跡から成都に戻ってきた。宿泊先のJWマリオットには16:00までのレイトチェックアウトを申請していたので、まだまだ次なるホテルへの引越しをするまで観光に充てる時間がある。

成都には見応えある史跡が山ほどあるのでどこに行こうか迷ったが、ここはホテルコンシェルジュ一押しで、蜀の皇帝・劉備の陵墓と蜀の丞相・諸葛亮の祠があり三国志ファンの聖地として知られる成都武侯祠を参拝しに行くことに。いや、べつに自分、三国志ファンという訳でもないんですが、成都=三国志ですからね。成都に来て三国志ファンの聖地とまで言われる史跡をスルーする訳にはいかないでしょう。

一つ違和感があるのは武侯祠という名。劉備の陵墓は恵陵という名なのになぜ武侯祠なのか。これは諸葛亮の諡号である武侯から来ていてんだけど、臣が君を食ってしまっている何とも訳アリなネーミングが…。これじゃあ三国志・蜀の初代皇帝となり成都を蜀の都と定めた劉備の墓が蜀の丞相の祠の敷地内にあるみたいな構図になっちゃってるしw 武侯祠に面した外の大通りも武侯祠大街だし、どうやら主君の劉備玄徳より諸葛亮孔明の祠として認識されてしまってるのである。幾ら中国で諸葛亮の人気が高いからってこれじゃああんまりだ。
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そんな劉備カワイソスwな武侯祠へ昭覚寺バスターミナルから1路のバスで移動する。


途中渋滞に巻き込まれ、1時間ほどかかって辿り着いた成都武侯祠。バスを降りる場所を間違えたのか、くっそでかい祠の西の外れに建つ牌坊門まで来てしまった。


三義廟・武侯祠といった見所に近い東の大門から入るのが定番観光コースだったらしく、一般的ではない入り口から入った自分は長距離の徒歩移動を余儀なくされることに。

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四方亭の下をくぐり、良く分からないまま人民様が多数はしゃいでいる賑やかな北の方向へと歩いていく。ガイドブックに書いてある60元の入場券の購入も求められず、何だか特別な神のご加護を感じますw


こ、これがかの有名な三国志の蜀の雄・劉備の陵墓?すっごい失礼ながら劉備の墓の割にちょっとスケールが…と思ったら、よくよく見たら劉湘という中華民国時代の軍人さんの墓だった…。特に劉備の末裔というわけでもないらしいのに苗字が間際らしいこのお方、地元四川出身で、抗日戦争を司令官として戦われた方らしいが、世界史的には無名もいいところ。東の大門から入っていたら確実にここまで見に来てなかったことは確か。

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この墓から東へ進むと、劉備のお墓を囲う大きな大きな庭園が見えてくる。

錦里古街
庭園の中には秦漢時代からの繁華街を清末から民国初期の様式で再現したという錦里古街があり、水路や竹林なんかで綺麗に整備された小路の両脇に並んだ雑多な小店舗が賑わいを見せている。
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串物や豆腐料理などの各種四川料理の軽食や土産物を中心に四川の民間風俗も満載。飲食店あり、民芸品等の土産物屋あり、バーあり、射的なんかの露店あり、四川劇の見世物小屋ありのお洒落スポットになっていて、どの通りも小吃片手に闊歩する若者で溢れ返ってる。近くの寛窄巷子然り、こういった古街風情が若者に受けているんだな。皆さん古の時に思ひを馳せるといった感じではないけれど。

ここまでは入場料が要らずラッキー!と思っていたのだが、正確には錦里古街の南の区域が武侯祠になっていて、ここで60元の入場料が徴収された。長い歴史を感じる建築に風情たっぷりの庭園や錦里古街といった無料の開放区だけでも見応え十分なんだけど、せっかくだから60元を払って武侯祠の中まで入っていくことに。
三義廟
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三義廟と言えばもちろん主役は劉備・関羽・張飛の三兄弟。「桃園重義」は3人が「生まれた年月日は違えど、死ぬ時は3人同じやで」と義兄弟の契りを交わした桃園結義のことかな。三義廟の裏には桃園を模した場所なんかもあるけれど、これは全くの偽物で、桃園の誓いが行われた場所は楼桑村といって劉備の家があった場所になる。

「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せん事を願わん。皇天后土よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮すべし。」
今思うと大変クサい契りのようにも聞こえんでもないが…

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いらっしゃいました。ちょっと現代人風にアレンジされ過ぎた感のある関羽(左)と劉備(右)の塑像。厳つい顔をしているのは威厳を保とうとしてなのか。


喧嘩っ早く荒くれ者のイメージがある張飛のキャラはブレないね。体格はもっとザンギエフみたいにムキムキだと思ったけど、これは晩年の張飛なのかな。

武侯祠
続いて諸葛亮の祠である武侯祠へ。諸葛亮の祠は中国の至る所に存在するが、その中で最も格式が高く最も有名なのが成都の武侯祠。

中央に太陽が如くピカピカに輝く諸葛亮が鎮座し、左側に息子の諸葛瞻、右側に孫の諸葛尚の塑像がそれぞれ並ぶ。


こちらも現代人風の諸葛瞻。それでもやっぱり描かれ方はスマートで、髭の感じもお上品w


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三国文化陳列室なる小さな展示コーナーもあり、三国時代の蜀の国土で出土した俑なんかが展示されている。


石に刻まれた人物の模写。

漢昭烈廟
ここから先の漢昭烈廟が劉備の祀られる恵陵。円周180メートルの円墳となっていて、竹林と朱の壁に囲まれた小路をぐるっと一周できるようになっている。暗君として後世の歴史書で評価される劉備の子・劉禅も一度はこの地に祀らたが、南宋の頃に廃祀となったらしい。

なんか、元来から劉備のお墓と霊廟があった当地に後世になって諸葛亮の廟が併合してきたんだと。それなのにこの地の名称が武侯祠にされちゃって…墓で眠る劉備の心境や如何に…。

【成都武侯祠と錦里古街】

住所:武侯祠大街231号
入場料:60元
営業時間:08:00-19:00


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【2017年成都・楽山旅行記】












宇宙人による遺跡? 中国史の常識を覆す三星堆遺跡 楽山・成都旅行9

成都二日目は朝一から成都の北約40キロの広漢市三星堆の遺跡へとバスを乗り継いで移動する。

三星堆で初めて玉石器が発掘されたのは1929年。その後、1986年になって古代文明の祭祀坑と推測される穴から青銅品を中心に数々の遺物が出土した。

この出土品がまた調査にかけたら凄くてね。青銅器の放射性炭素年代測定や坑の地層から推測されるに、約5000年前程前に栄えた古蜀文化の遺物であるんだと。5000年前ですよ、5000年前。中国4000年の歴史を超えちゃってますがな。
現在、中国考古学会の常識となっている所謂「中国4000年の歴史」は紀元前2000年頃に漢民族の祖先が黄河流域に興した夏王朝に始まる。今回、夏王朝より1000年も前に長江流域に高度な青銅器文明が栄えていたという大発見がなされたのは、とりもなおさず中国史の常識を覆す新事実なのであり、エジプト文明・メソポタミア文明・インダス文明・ 黄河文明にも匹敵する文明の発見により世界史の教科書の四台古代文明が五大文明に書き換える事になるかもしれないくらいの驚愕の事実だと考古学者は興奮しているよう。まぁもはや人類の古代遺産の眠れる宝庫・中国の歴史には常識は無いというのが常識になりつつある感じだけどな。「敦煌莫高窟」、「殷墟」、「馬王堆漢墓」、「秦始皇帝兵馬俑坑」などなど、20世紀以降も中国史は常に従来の定説が覆えされ、歴史が塗り替えられてきいるから。

また、単に古いだけでなく、三星堆から出土した青銅器はこれまで中国最古のものと考えられていた青銅器とは全く異質のもので、眼の突き出した異様な仮面や、人頭像、巨大立人像など複雑で奇妙な形状をした物が多数見られるそうだ。これは現地調査に乗り出さねば…ということで広漢市三星堆へと移動する。
ひだり みぎ
ホテルのコンシェルジェに成都旅游集散客運中心から三星行きの直通バスが出てると教えてもらったが、残念ながら発券窓口の婆さんに「そんなバスは今日は運行してない!壁に掲示してる運行表をしっかり見てきなさい!」とのお叱りを受け敢え無く一蹴される。


こちら、成都旅游集散客運中心の運行表。確かに広漢市三星という便も掲示されているのだが、この日は何かの加減で運航が見合されたということなのだろうか…違う窓口でも三星行きは無いと言われたので、諦めて広漢市行きバスが出てる昭覚寺バスターミナルへと向かう。先ずは広漢へと向かい、そこから三星行きのローカルバスに乗り継げば三星堆まで行ける筈だ。

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早速49路のバスで昭覚寺バスターミナルへと移動し、広漢行きのバスに乗り換える。広漢行きは07:00-20:00の間に15分間隔で運行しているそうで、適当に空いてるバスに乗りなさいといった緩~い感じで席も全席自由席。

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乗車券は当日最終便の20:03まで有効で、運賃は17元。広漢までの所要時間は約40分となっている。

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広漢バスターミナルを出て直ぐのところが三星堆博物館行き6路ローカルバスの停車場所となっているので、土地勘が無くても迷う心配はないでしょう。三星までの運賃は2元で、所要時間約30分。


電動三輪車の運転手からも声かけられるかもしれんが、ケツ痛くなるし高いからバスの方が良いと思う。またはタクシーか。


バスが発車するまで15分程待ったが、走り出したら早いもので、バスターミナルから25分程で三星堆博物館に到着した。こここそが謎の古代文明が遺した城址と祭祀坑が発掘された現場である。


入場するといきなり不気味な人頭像がお出迎えw ここ三星堆で発掘された莫大な量の青銅器遺物はどれも殷や周の青銅器とは明らかに異なっていた。従来の古代中国の青銅器とは鼎・尊・爵といった類の祭祀用儀礼容器あるいは斧などの武器、鐘などの楽器であり、人物像を立体的に鋳造することは技術的にもできなかったのだ。それが、三星堆の青銅器は、このような人頭像や仮面など、神や人の姿を象ったと思われるものが殆どだという。実に奇妙の古代文明跡の出現に、宇宙人遺跡説を唱える学者も出てきたくらいらしい。


入り口から少し歩くと右手の小丘に第一展示館(総合館)が見えてくる。ここでの展示は「序展」に始まり、以降6つのコーナーに分かれている。
第一展示コーナー:雄踞西有 古蜀2000年的滄桑史
第二展示コーナー:物華天府 三星堆的農業与商貿
第三展示コーナー:化土成器 三星堆陶器
第四展示コーナー:以玉通神 三星堆玉石器
第五展示コーナー:烈火熔金 三星堆冶
第六展示コーナー::通天神樹 古蜀人智慧与精神的象征

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猛禽のような像や立人像のポスター等、いきなり妖しさ全開の様相だ。特にこの立人像は身長180cmのという古代の人物造形としては異例の大きさ。長い衣をまとい、大きく誇張された両腕両手は祭祀儀礼にまつわる器物か何かを抱いて呪術的動作を示すかのように前で構えている。手は親指とその他の4本指で円筒をつくっているので、指の筒の内に何かの祭祀用具を握っていたということか?というか、そもそもこいつは誰なんだろう。眼は大きく見開き、一文字に引き締められた口の両端は下に折れ、顔面全体に緊張感を漂わせているが、祭祀儀礼を執り行う神官なのか?当時は祭政一致だっただろうから、政治的指導者だった人物であるかもしれない。詳細は不明とされる展示品が多いので、謎に包まれた様々な発掘物を色々と想像を張り巡らせてみるのも三星堆博物館の楽しみ方の一つだろう。

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農村に突如現れた古代文明跡。三星堆文明は新石器時代晩期文化に属し、新石器時代晩期(紀元前2800年)~殷末周初期(紀元前800年)と、延2000年程続いたと考えられている。

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三星堆二号坑出土の神樹上立鳥。

ひだり みぎ
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続いて青銅器が多く展示されているという、これまた怪しげな第二展示館へ。



妖しさ全開。

ひだり みぎ
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入って直ぐの空間には、極太の眉・腫れぼったい瞼・でっかい鼻・真一文字に結んだ口をした不気味な表情の青銅面具がこれでもかと並ぶ。

太陽崇拝やアニミズムの象徴と考えられる青銅太陽形器は殷代晩期のもので、直径84.5cm、2祭祀坑で1986年に出土した。

ここで見られるのは本当に奇妙な展示品ばかり。これらを遺した三星堆の民族については東夷説・越人説など色々な学説があり、いずれの説も確信的根拠を示せてはいないものの、民族的には中原から移住してきた一派というよりは四川一帯に古来から住んでいた民族であろうとの見方が有力なようだ。青銅の仮面のデザインがある程度写実性を帯びているとすれば、トルコ系なんて可能性も捨てきれないと思うけど。少なくとも漢族ではなさそう。

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こちらがかの有名な突出した目を持つ巨大な縦目仮面。横から見たら分かり易いのだが、眼球が円柱状に10センチ以上も突出し、3条になって耳まで切れ上がった口は怪しげな笑みを浮かべているようでもある。耳に関しても上半分が牛の耳のように大胆に大きく伸びていて、その巨大さと特異な形態から人間の顔とは考えにくい。人のようで人でなく、獣のようで獣でもない何か。神として崇拝する存在だったのだろう。飛び出た目と巨大な耳・口は古代エジプトやマヤの神々の遺構と共通する特徴らしいし。

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文字的にも漢字のルーツと言うより、古代エジプトの神聖文字であるヒエログリフや、メソポタミアのスメルの象形文字に近い類のものが刻まれているのも興味深い。三星堆の文明を築いた太陽崇拝の民と文化は、エジプトからメソポタミアと渡り、チベットを超え四川へと辿り着いた可能性も見えてくる。これが中国共産党的には面白くないようでね。そりゃああれだけ漢民族による中国支配を正当化してるのに、中華文明の発祥が非民族とか中国共産党的には許せんわな。宇宙人説は歴史的発見に蓋をしたい中共の息がかかった学者によるものなんじゃないかとも思えてくる。

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青銅人面具の展示はまだまだ続く。

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金メッキが施されていたり、頭に捩じり鉢巻きのようなものを巻いていたり、額に穴があったり触角がついてたりと様々なバリエーションが見られる。


高さ3.84mにもなる巨大な青銅神樹は殷代晩期のもの。3階層になっている幹の各層に3枝ずつが張り出しており、それぞれの枝に1羽ずつ、全部で9羽の霊鳥が留まっている。古代エジプトでも天の鳥船が遺されてるし、やっぱり三星堆文明と古代エジプト文明との間で何らかの繋がりがあったのではないかと思えてくる。

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鳥の頭に蛇。蛇も古代エジプトでは畏怖の対象として壁画なんかにもよく描かれてましたよね。

それにしても、最後は何故これら大量の青銅器を一度に坑に詰め廃棄したのか。支配者の交代による前王朝祭祀物処分説や王の埋葬品説など様々あるようだが、やはり確証めいた証拠等はどの説からも一切提示されていないようだ。
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そんな謎に包まれた三星堆、土産屋の商品も相当ふるってるw。人面具キーホルダーなんて誰が買うんだと思うが、メモパッドは御洒落だったので買ってしまった。

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謎ばかりで悶々とした気持ちを抱えながらも、土産物も買ったし満足してバスを乗り継いで成都へと戻る。

あまり観光ガイドブックには取り上げられていないようだけど、個人的には成都の中でも屈指の観光地だと思う。成都から半日も有れば行って帰ってこれるので、成都観光の際には是非この神秘的な古代文明の遺跡にもお立ち寄りください。

【三星堆遺跡】

住所:広漢市南興鎮真武村
営業時間:08:30-18:00
入場料:82元
アクセス:広漢市バスターミナルから6路バス
*広漢から成都行きの最終バスは18:30


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【2017年成都・楽山旅行記】












金沙遺址博物館で見る古蜀文明跡 楽山・成都旅行8

永陵博物館での見学を終え、次なる目的地・金沙遺址博物館へと急ぐ。

金沙遺跡と言えば中国に於ける21世紀初の考古学的大発見。
遡ること16年前の2001年、住宅開発の為の下水道工事の際に偶然にも殷周時代のものとされる巨大な金沙遺跡が発掘されたのである。長年、文化不毛の地と考えられてきた成都平野の歴史的定説を覆す大発見。1986年に成都北郊で発掘された三星堆遺跡との共通点も見られ、黄河と揚子江の流域以外だけでなく、四川も中華文明発祥の重要な地の一つとして一躍注目を浴びることになった。

その後の発掘調査では、紀元前1200~500年頃の古蜀文明で生まれた金のマスク及び太陽神鳥、青銅器約1,200点・玉器約2,000点・石器約1,000点・金器約200点・陶器数万点・象牙1トン・動物人骨多数などが発見され、それらは2007年から一般客に展示されている。21世紀にもなってこんな考古学的大発見があるとか、中国はほんとロマン溢れすぎ。
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というわけで歴史ロマンの詰まった金沙遺跡へレッツゴー。永陵博物館から金沙遺址までは撫琴南路駅から163番のバスで一本。運賃1元でサクッと移動できる。

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バスに乗って20分程で到着した金沙博物館。主に大型祭祀場跡をドームで覆った遺跡館と、出土品を展示した陳列館という2棟の建物で構成されている。

先ずは遺跡館から。面積約7600㎡・高さ18m・幅63mの建物が大型祭祀遺構を覆っている。
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遺跡を取り囲むように展望フロアが設けられている他、間近で観察できるように遺跡中央部に板張りの歩道も設置されている。

「この地点から〇〇が出土しましたよ」といった案内板はあるが、出土品は全て陳列館に移されているので味気ない感じはする…が、しかしかまぁとにかくデカくて遺跡の規模には圧倒される。しかも、これでもまだまだ発掘されているのは遺跡全体のほんの一部なんだと。


もう一つの見所、陳列館は遺跡館を抜けた先にある。

ひだり みぎ
紀元前1200~500年頃の古蜀文明時代にタイムスリップ。


ほんとにこんな立派な家屋に住んでたんかいとも思うが、こちらは古蜀文明を生きた人類が住んでいた住居の再現らしい。金沙の文明が滅びて2,500年が経過した現代の四川省の農村地帯でもこんな家に住む人達って割と多くいるだろう。

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宗教的儀礼で象牙や鹿の角、牛の骨、猪の牙等が大量に使われていたらしい。


ひだり みぎ
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陶器造りの跡。

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玉器や金器の出土品。当時の鋳金技術にはただただ驚かされるばかり。金は錆びないし硬くて丈夫なので、中国では「永遠」の象徴とされている。きっと当時の人々も同じように、金に神秘性を感じていたのだろうな。

ひだり みぎ
石器は祭祀品と思われる奇妙な像が多し。ここらへんの像のユニークな表情は翌日訪問した三星堆文明跡からの出土品にも通ずるところがある。


こちらは陳列館のハイライトとなるお宝ルーム。国宝級の展示品が並ぶとだけあって、常に人で賑わっている。

展示室の中央に目玉中の目玉である太陽神鳥金箔が鎮座し、その四囲四箇所に文化芸術的価値の高い出土品が展示されている。


こちらが太陽神鳥金箔(拡大画像は金沙博物館の公式ホームページから借用した)。外径12 5cm・内径5 3cm・厚み0 02cm・重量20g・金の純度94.2%、制作年代は三千年前の商の時代だと推定されている。四羽の神鳥は四季を象徴し、中央の空洞(太陽)の周りに透かし彫りされた12本の光芒は12カ月を表し、太陽と万物の生命が循環を繰り返す様を象徴していると考えられているそうだ。こんな細微な物を作る技術もそうだけど、古代四川人の天文知識にも恐れ入る。

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石虎に跪坐石人像。

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玉斧。斧は武器であると同時に斬首を執行する刑具でもあったようで、将軍の権威の象徴ともなった。斧で敵を討ち、味方でも反逆者を処刑できるという意味で生命与奪の権威を示したのである。


こちらも国宝級の金面具。金沙遺跡が三星堆文化を継承したことが分かる遺物である。

常設展示は以上。

最後に臨時エジプト展が開催されていたのでちょこっと時間を取って見てみることに。

ひだり みぎ
ひだり みぎ
なんかエジプト展のインパクトが凄すぎて、やっぱり古代文明はエジプトがナンバーワン!みたいに最後なってしまったのが悲しいところ…

【金沙遺址博物館】

営業時間(5月1日-10月31日):08:00-20:00
営業時間(11月1日-4月30日):08:00-18:30
入場料:80元
ホームページ:こちら


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