大連開発区から日露戦争の最激戦区・旅順へ

今日は早起きして朝一のバスで旅順へと向かう。

日露戦争の最激戦地として歴史の教科書に登場する旅順は、海外情報に詳しくなくとも名前だけは聞いたことがあるという方も多いと思う。旅順は遼東半島の最南端に位置し、現在は大連市旅順口区として大連市の中の一行政区となっている。総面積506km²、人口約26万人で、大連市中心部からは約45キロの地方都市だ。太古から天然の良港として知られていた旅順は小さな漁村として歴史を歩んでいくが、1878年に清の北洋艦隊の根拠地となったことでその静かで穏やかな歴史が一変。日清戦争で清が敗れた後から日露による争奪戦の的となり、激しい戦火に晒されるという惨事に見舞われる。日露戦争後は日本の、終戦後はソ連軍による統治を経て1955年には中国へ返還されました。中国返還後は人民解放軍の軍港都市として軍事上の関係で外国人の訪問を禁止されていましたが、2009年12月には軍事施設以外の訪問可能地大幅拡大という解釈で外国人の訪問規制が大幅に緩和され今に至ります。こういった歴史の街なので、観光スポットの殆どが日露戦争関連だ。最大の激戦区となった203高地、戦争終結が宣言された水師営会見所、堡塁に監獄など…小生はミーハーですので、坂の上の雲で読んだ203高地をどうしても我が目で見てみたいと思い、半日という限られた時間で旅順を周ることにした。

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大連開発区バスターミナルから旅順まではバスで約80分、運賃は19元だった。朝一なのに人民の皆さまはハイテンション。ギャーギャーワーワー騒がしい!!

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駅舎の様子。規模は小さいが遼寧省各地へ向けてのバスが出ているようだ。朝飯として肉まんやら揚げパンやらを思い思いのまま食べてバスの出発を待つ人民たち。旅情が漂います。

【大連開発区⇒旅順のバス運賃・時刻表】

出発地点到着地点出発時刻距離運賃
市开区汽6:3071キロ¥19元
市开区汽7:3071キロ¥19元
市开区汽9:2071キロ¥19元
市开区汽10:2071キロ¥19元
市开区汽13:1071キロ¥19元
市开区汽14:1071キロ¥19元
市开区汽16:1071キロ¥19元
市开区汽17:1071キロ¥19元

大連市内からはバスや列車で旅順まで向かう事ができる。

◎バス利用
・黒石礁バスターミナル
06:30~19:00 15分間隔 6元 約35分

・大連駅北広場
05:30~19:40 5元’各駅)・7元(直通)約1時間

◎列車利用
大連←→旅順
快速 大連 15:00 ⇒ 旅順 16:03
快速 旅順 09:26 ⇒ 大連 10:29

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06:30開発区発のバスに乗り込む。乗車後は車窓風景を楽しみたかったが、ついつい転寝をかましてしまう。

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目を覚まして外に目をやると、なんとまあ普通に馬がお隣の車線を走っててぶったまげた。。

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道中は殆ど寝てしまい、気づいたらあっという間に旅順バスターミナルに到着。

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バスターミナル内部。ドーム型屋根で非常に開放的な設計になっている。

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おっ!!?

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え~~。どうしてそんな恰好なの!?無防備すぎるだろうwww

気を取り直して市内探索へ出てみることに。
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ロシアによる統治の影響だろうか、街並みはどことなくヨーロッパの街並みを彷彿とさせる。

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おっ?これはなんだ?

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旅順萬忠墓記念館…これはもしや…

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エントランスにいきなり真っ赤な『旅順大虐殺』の文字が!!そして下には『沈痛悼念在旅順大虐殺中殉難的同胞』書かれている。こりゃあ愛国主義基地の一つか!?

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きたーーー!やっぱり!!!

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博物館の最後は『Never Forget!!』と力強い一言で結んでいます。こりゃあ


帝政ロシアによる都市計画の名残り 大連・中山広場

大連の中山広場はかつて日本の統治時代には大広場と呼ばれた大連を象徴する場所であり、どのガイドブックにも載せられる大連の定番観光スポットだ。

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大連国際貿易中心ビルの展望室から撮られた写真を見るとよく分かるが、直径213メートルの円形広場を中心にラウンドアバウトになっていて、10本の道路が放射線状に伸びている。パリを模して大連の都市開発にあたった帝政ロシアによる設計であり、当時はロシア二世の名前を取ってニコライフスカヤ広場と呼ばれた。そういやパリの凱旋門の周りもラウンドアバウトになっている。壮大な都市計画を抱いて大連の都市開発に着手した帝政ロシアだったが、直ぐに日露戦争が勃発して大連開発が頓挫する事に。そして日露戦争に勝利しロシアから大連の譲渡を受けた日本は、ロシアが作成した都市計画を踏襲し、広場名を大広場へと変更し、ラウンドアバウトの周囲に当時の行政機関や銀行を集めて新都市・大連の中枢にふさわしい西欧風建築を配置した。中山広場に面して建っている現存の建物10のうち、なんと7つもが、日本人の手によって建てられた建物であり、それらは竣工から100年経った今でも現役で使われている。ニコライフスカヤ広場⇒大広場⇒中山広場という名称の遍歴だけ見ても大連近代史の複雑さが分かる。

さて、見事な円形をした中山広場であるが、住所は中山路北のスポットを1号地として、そこから反時計回りに10番地まで区分けされている。各番地に建つ建造物の旧称と現在の名称、建設者は下記の通りである。
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所在地
建築年旧名称現名称設計者
中山広場1号1920年朝鮮銀行大連支店中国工商銀行中山広場支行中村與資平建築事務所
中山広場2号1908年大連民政署(大連警察署)遼寧省対外貿易経済合作庁前田松韻(関東都督府民政部土木課)
中山広場3号1914年英国駐大連領事館H.Ashead
2000年大連金融大廈同左未発表
中山広場4号1914年大連ヤマトホテル大連賓館太田毅(満鉄工務課)
中山広場5号1919年大連市役所中国工商銀行大連市分行松室重光(関東都督府民政部土木課)
中山広場6号1936年東洋拓殖株式会社大連支店交通銀行大連市分行宗像主一建築事務所
中山広場7号1910年中国銀行大連支店中信銀行中山支行中国人
中山広場8号1950年大連人民文化クラブ同左ベラルーシ人を長とするソ連チーム
中山広場9号1909年横浜正金銀行大連支店中国銀行遼寧省分行妻木頼黄、太田毅
中山広場10号1918年関東逓信局大連市郵政局松室重光(関東都督府民政部土木課

 

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この中山広場の周りのラウンドアバウトは一方通行だが4車線もあり、交通量が多いもので道路を渡るのには苦労を強いられる。ただ、周りの建物を見ようとするとどうしても広場の中に入らないといけないものですから命懸けで渡ることになる。

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こちらは現中国銀行遼寧省分行、旧横浜正金銀行大連支店。どの建物もライトアップされていて異国情緒を醸し出している。

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現交通銀行大連市分行、旧東洋拓殖株式会社大連支店(左)。植民地事業のための国策会社である東洋拓殖株式会社の大連支店であったが、戦後の1951年から1957年まで中国共産党大連市委員会庁舎として、その後は市政府の分庁舎として使用された。奥に見える紫色にライトアップされた建物は現中国工商銀行大連市分行、旧大連市役所。

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現中国工商銀行中山広場支行、旧朝鮮銀行大連支店。朝鮮銀行は日本統治領での中央銀行としての機能を担っていて、大連支店の業務拡大に伴って建物を新築した。竣工は1920年、中村與資平による設計。

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中山広場から真っすぐに東に延びる人民路。

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旧大連ヤマトホテル、現大連賓館。

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旧中国銀行大連支店、現中信銀行中山支行。

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一際目立つ赤レンガ建築は現シティバンク、旧大連民政署~遼寧省対外貿易経済合作庁。中国東北地方に渡った最初の日本人建築家であった設計者の前田松韻は、時計塔を持つドイツ・ハンブルク市役所をお手本にして大連民政署を設計したそうだ。関東都督府民政部の下で大連を管轄した行政機関、大連民政署の庁舎として建てられた、日本統治下の大連で最初に建てられた官庁建築でもある。

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大連市内で見る帝政ロシア統治の名残

時は遡り20世紀後半、帝政ロシアは遼東半島南部の租借に成功し、今日の大連となる当時の漁村を「遥か遠い」という意味のロシア語「ダリーニ」と名付けてパリをモデルとした都市開発に着手した。ヨーロッパとロシアの伝統的な設計に倣い、大連をヨーロッパ区・行政区・中国区として区画分けし、都市広場や放射状に広がる道路を中心として典型的なヨーロッパ風建築物を造る構想を抱いていた。しかし、1904年には日露戦争が始まり都市開発は計画半ばで頓挫することを余儀なくされ、都市計画は次なる統治者となった日本の手に委ねられることとなった。こんな近代史を持つ大連であるが、日露戦争までの僅かな期間に帝政ロシアにより建造されたロシアン行政区跡の雰囲気を漂わす通りが大連の一角に残っている。大連駅から路面電車の線路に沿って東北に進み、勝利橋を渡った先にある旧ロシア人街と呼ばれる一角だ。

とはいっても、実際には2000年に整備復元された町並みであって、建物の全てが当時のものというわけでもないく、ロシア人が住んでいるわけでもないらしい。
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約400メートルある小さな通りはロシアン屋台や各種ロシアグッズの土産物屋などが道の両側にぎっしりと軒を並べる商店街となっていて、日本の縁日のような雰囲気を味わえる。ロシアには行ったことないので比較のしようがないが、建築物だけみたら確かにロシア風っちゃロシア風だ。

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ロシアのアイスクリーム屋。看板にはご丁寧にロシア語文字も書かれているが、間違いだらけの日本語メニューを平気で使うお国ですので、ロシア文字が書かれているだけで何の意味にもなっていないかもしれない。

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“モスクワショッピングセンター”“シベリア特品店”など、それらしい名前の店舗が並んでいるが、売り子も買い物客も皆中国人。

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ロシアのおタバコやチョコレート、キャビア、ウォッカにお菓子などなど。『俄羅斯』=ロシア、『暇一賠十』とは偽物だったら売りの値の10倍支払いますくらいの意味。オーセンティックなロシアプロダクトだとアピールするキャッチフレーズだ。売り子は中国人だがロシア語っぽい言葉で話しかけてくる。ロシア人には有効だろうが、私にロシア語で話しかけられてもさっぱり何だか分からない。

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表通りの露店にはロシア土産の定番民芸品であるマトリョーシカを始め、いかにもロシアらしい軍用双眼鏡・ガスマスク・赤外線スコープなどの旧ソ連軍からの軍事放出品や、ロシア産ライター、シベリア風毛皮コートや手袋、耳付き帽といった防寒具などのロシアグッズが所狭しと置かれていて、見ている分には非常に面白い。ただ、地元中国大連の物価相場を考えれば相当高額な値段もさることながら、露天屋台の売り子が全員こってこての中国人なので、買う気も一気にトーンダウン。中国の露天屋台の品物はどうしてもパチ物、バッタ物というか、模造品、B級品、粗悪品といった良くないイメージも相まって、購入は控える事に。実際に手袋のタグを見ると中国語オンリーだったし…どうせならタグまでちゃんと模倣しとけよ!!ここらへんの詰めの甘さが如何にも中国である。

屋台露店の常として売り物が凄く怪しさ満点に感じられるが、まぁ何しろ中国なんでどこで何を買っても怪しいといえばどれも怪しいし、そう考えれば露天屋台だからといって特に神経質になる必要もないのかもしれない。意外にも大連の他の場所ではロシアグッズは余り見かけることはなかったので、時間的余裕がない短期旅行者でロシアングッズをお求めになられたい方は大連ロシア人街の“ロシア風”土産で妥協しても良いかもしれない。少なくともタバコやスナック類は本物の輸入(密輸!?)品だろうし。

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ロシア人街の突き当りにあるのは帝政ロシアによって1900年頃に建てられたダリーニ市庁舎。当初はロシアの東清鉄道事務所として利用されていたこの建物が1902年にダリーニ市庁舎となり、日本統治後の1907年に東京から移転してきた南満州鉄道本社となる。非常に優美な建築物であり、満鉄の本社が1908年に現在の中山広場に移転した後は二代目の大和ホテルとして転用されることに。明治を代表する文豪・夏目漱石も宿泊したそうだ。その後も満州物質参考館、満蒙資源館、満州資源館と役割を変じていく中で終戦を迎えることに。戦後は大連市自然博物館と改称して利用されるも、1998年に博物館が他所に移転されてからは利用されていないとのことだ。建物の前には噴水がロータリーとなっており往時を忍ばせるが、現在は建物自体残念なほど朽ち果てていまっていて、廃墟のような雰囲気すら漂わせている。

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こちらは戦前、児玉街と呼ばれていた現ロシア風情街の写真であり、奥に初代大連市役所の建物を見ることができる。これを見ると建物の数も未だ少なく、ロシア人街に今あるロシア風建築物は後付けの模倣建築物であることが分かる。まぁ観光地として散策する限りはロシア情緒を味わえるエキゾチックな雰囲気はありますし、20世紀初頭の帝政ロシアを想いを馳せながらロシア人街を探索するのも良いかと思います。

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ロシアの雰囲気ぶち壊し…


開発区から大連市内の屋台街へ

広州から飛行機で4時間かけて大連に到着。こんな長距離のフライトでも国内線というのが何とも超大国中国である。今回は土曜日夕方に大連入りし、夜は大連市内の街歩き。明日日曜日の朝には旅順へ行き、夜には大連市内で客先と会食というキツ目の計画だ。

宿泊先は大連市内から電車で約30分、日系企業が密集する大連開発区内にあるホテル。チェックイン後に速攻で開発区駅へと向かい、大連火車駅から金石灘間13駅49.1kmを結ぶ大連快軌3号線に乗って市内へと向かう。

6:30~18:30の間20分間隔で運行されているらしいが、何故にこんなに終電の時間が早いのか。大都市・大連へ向かう路線なので夜間運行の需要はあるかと思うのだが…
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電車内には2×2のボックスシートが並び、どの車両も満席。広東省の人と比べてやっぱり北方の人は体格が良いので余計に窮屈に感じる。

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車上で爆音鳴らして音楽聞いたりドラマ見たりする輩がいない分だけ南方の人民たちよりは行儀が良いみたいだ。

2004年9月29日に開通した大連火車駅に到着。火車とは火炎放射機を装備した戦車のような字ヅラであるが、ただの電車のこと。
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全面ガラス張りの駅舎が特徴の火車駅は、混雑緩和のため乗車専用ホームが中央1面、降車専用ホームがその両側に2面の3面2線となっていて、乗降ホームが分離されている。

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駅前広場を含む駅周辺は出店や屋台があり凄い賑わいを見せている。叫び声にも似た客引きの声に、謎の街頭演説、大音量で流れるダンスミュージックに合わせて踊る人民たち…南も北も中国の活気は変わらぬようです。

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屋台では食材を選んでその場で調理してもらう。食材、料理方法、味付けも全て好みのままにというスタイルの屋台が主流のようだ。煙と匂いがたまらない。

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客足の途絶えない炭火焼串焼き屋は定番の羊肉や鶏皮、鶏軟骨、豚軟骨だけでなく、大動脈や腎臓などもメニューにありました。一本一元(16円)からという良心的なお値段。ここいらには庶民派グルメだけではなく、ウニや牡蠣、アワビにナマコなどの高級海鮮食材などを使った料理なども供されていて、ここら一帯が何でもありの巨大大衆食堂といった様相を呈している。

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先程の串焼きに続き、軽い晩飯を摂ることに。その名もごちゃまぜ海鮮炒め。見た目は“あれ”だが、歯ごたえ最高の海鮮ネタばかりの逸品だ。

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こちらは天津街、出店が連なる夜市のようだ。一人前100円程度の串焼きや焼き物、煮物、揚げ物など一品料理の露店が集中。

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見渡す限りの人・人・人!!!それぞれお気に入りの屋台で買ったスナックを嬉しそうに頬張りながら夜の道を歩く人民たち。皆、幸せそう。

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職人さんが腕を奮って作る一品料理の数々。ベルトを緩めてかかるも、いくら胃が有っても足りん…

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大連といえばやっぱり海鮮だな~。ここにもカニやナマコ、アワビにホタテなどが並んでいる。

時間は足りなかったがすっかり夜の大連を楽しめた。終電の電車が無いのは分かっていたが、バスか何か出ていないかと思い一度大連駅まで引き返すと、白タクの運チャン4~5人に囲まれる。私みたいな終電逃しの民向けに営業活動しているのだろうが、200元とか吹っかけてくるので頼みずらい。『電車もバスも無い。俺らに頼むしかないぜ。』とか言って思いっきり足元を見る悪徳商人だ。

暫く聞いて回るもどうやら本当に夜行バス的なものもないらしく、メータータクシーとの交渉に入るも、なかなか開発区まで行ってくれない。結局、人の良さそうなメータータクシーのおじさんと100元で商談成立、無事に戻れることに。

タクシーに乗車し、いざ出発すると、所々で停車して『有没有去開発区的?(開発区行く奴いないか?)』と言って同乗者を募りやがる!そんなことすんなら最初に言えよ!と思うのだが、東北ではタクシーの相乗りが一般的なのだろうか…
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結局見知らぬ中年男性と相乗りで開発区まで戻る事に…


満州時代の街並みが色濃く残る歴史都市・大連

遼東半島の南端にあり、『北海の真珠』『北方の香港』とも称される美しき港町・大連。19世紀末に帝政ロシアの租借地となり、1904年の日露戦争以降は日本がロシアの都市計画を引き継いだ。現在の大連駅から東側の区割りとごく一部の建築物ができた状態だった極東の一地方都市を貿易都市として発展させるため、関東都督府と南満州鉄道にインフラの整備を続行させ、直径213mの円形大広場を中心に道路のアスファルト舗装や、レンガなど不燃建築物が立ち並ぶ堂々たる町並みが完成する。街の発展と比例して日本人の入植も進む。1945年の敗戦時には大連市の人口約80万人に対し、日本人が20万人も占めていたそうだ。の今でも満州国時代に造られた放射線状に並ぶ道路や大同広場(現中山広場)、横浜正金銀行(現国銀行大連分行)、旧大連市役所(現中国工商銀行)、大和ホテル(現大連賓館)、東洋拓殖ビル(現中国交通銀行)などが現存する他、坂道の多い街並みにはロシア風の洋館も立ち並び、エチゾチックでノスタルジックな雰囲気が漂う。

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貿易中心ビルの57階から見下ろす中山広場。大連の歴史は意外と浅く、シベリア鉄道の太平洋側の玄関口として不凍港を欲していた帝政ロシアが、日本に対する三国干渉の流れから遼東半島の南端をちゃっかり清国から租借した1898年に始まる。ロシアは大連湾に面した青泥窪と呼ばれていた漁村に、パリに倣って放射状街路を持つ商業都市・ダーリニー(ロシア語で“遠く”の意味)の建設をはじめた。その中央に配されたのがニコライフスカヤ広場と命名された円形広場だった。しかし、1904年には早くも日露戦争が開戦。日本が勝利をし、1905年には大連や旅順を租借する権利を得た他、東清鉄道の大連~長春も譲渡される。大連には関東都督府や満鉄本社が設立され、ニコライフスカヤ広場を大広場と改名した上で、その周辺に次々と洋風の近代建築が建設されていった。帝政ロシア、日本が国家の命運を賭けた発展させた大連。都市建設へ込める強い意志が今もみなぎってくるようです。

主な見どころ
・大連中山広場近代建築群
・ロシア人街
・人民広場
・星海公園

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ロシア人街に建つ大連芸術展覧館と星海公園。

地理

黄海に突きでた遼東半島の最南端に位置。東は黄海、西は渤海に面し、海を挟んだ向こう側には山東半島や朝鮮半島がある。古くから日系企業が進出していたことから日本発着便も多く飛んでいて、中国の北の玄関口として旅順やハルピン、長春、瀋陽、中国東北三省各地への旅行の出発地点にもなったりする。

天気・気候

北半球の温暖地帯-ユーラシア大陸の東海岸にあり、気候は海洋性の特徴も兼ね備える暖温帯大陸性モンスーン気候に属す。一方(北)は山に、三方は海に面しているという地理環境の影響を受け、四季がはっきりしているが、四季があるものの極寒の東北三省にしては冬は厳しくなく、夏は酷暑でもない。年間平均気温は10.5℃、年間降水量は550~950mm、日照時間は2500~2800時間である。

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春:3月の海風は冷たく、防寒服が必要。4~5月は雨の日も少なく、長袖シャツに薄手のカーディガンで十分。
夏:5月の末から半袖シャツを着て外出する人の姿が目に入る。夏の平均気温は25度と、暑すぎず気持ちが良い。
秋:10月には夏が去った後の涼しさが感じられる。
冬:イメージする程の厳寒ではないとは言うが、朝晩の冷え込みは厳しい。

ちょうど今がベストシーズンであろう。来週には避暑を兼ねて大連旅行に行ってきます。