ファンボイチャウ記念館・ホーチミン博物館 フエの世界遺産巡り4

取りあえずカイディン帝陵・ミンマン帝陵・ティエウティ帝陵と南から3つの帝陵を見て回って、締めとしてフエの市街地に一番近いトゥドゥック帝陵を…と思ったんだが、どうにもホテルで貰った地図が指し示す場所を探しても見つからない。あっちをウロウロ、こっちをウロウロ…30分くらいしても見つからず、その内に照り付ける灼熱の太陽で腕と首裏が日焼けで痛くなってきた。人に道を尋ねたくとも周囲に人の姿が見えないし…。牛はいるけど。

もう3つの廟を見てお墓参りもお腹一杯になってきたし、ここは潔く諦めて近くのファンボイチャウ記念館を見ることに。ティエウティ帝と言われても???だったけど、ファンボイチャウクラスになると世界史の授業にも出てきましたからね。

懐かしいw 日本が日露戦に勝利したことに影響を受け東遊運動(ドンズー運動)を興した近代ベトナムの民族主義運動指導者なんだけど、授業で「〇〇に赴くも失意のもとに」とか「〇〇を働きかけるも大きな成果を上げれぬまま」みたいな紹介されててすっごい哀しい偽ホーチミンおじさんみたいに思った記憶がある。まさか後世で彼のお宅にお邪魔することになるとはその頃は思いもしなかったけど。

ファンボイチャウ記念館はフエの新市街地に程近いファンボイチャウ通りにある。もう通り名からしてファンボイチャウの英雄ぶりが伺える。他の都市でも見ますもんね、ファンボイチャウ通りって。

ここは彼が後世暮らした場所らしい。1925年、58歳の時に逮捕され終身刑を宣告されるが、国内の世論の反発を受け恩赦された後、1950年まで当地で軟禁されていたとか。

ひだり みぎ
中は何基かのお墓・ファンボイチャウを支援した日本人医師・浅羽佐喜太郎氏との交流を記した記念碑と家屋があるくらいで質素なもの。しかも、記念館の建物はあいにく閉まっていた。

ひだり みぎ
潘佩珠とは彼の中国語名。墓があるということは、ここで軟禁されたまま没したのだろう。

ファンボイチャウが幽閉されていた家屋が再現されている。
ひだり みぎ
フランス統治下のベトナムでファンボイチャウが独立運動を始めたのは1904年、37歳の時だった。ベトナム各所で反仏運動が興るも横の連携がない単発の運動だった為に直ぐに弾圧をされていた。そこでファンボイチャウは他国の支持を取り付け仏印政府の転覆したいと考えたのである。同志と共にベトナム維新会なる組織を結成し、翌1905年6月に日本海海戦でバルチック艦隊を破ったばかりの日本をお忍びで訪問、反仏独立運動の為を日本に訴えた。その流れから独立の為の人材を育成するべく若いベトナム人学生を日本に留学させる東遊運動が創められたのである。
しかし、この運動に危機感を覚えたフランスは日仏友好条約に基づきベトナム留学生を国外退去させるよう日本政府に要請、日本にいられなくなったファンボイチャウは中国に逃れるも、1925年に上海にて逮捕され、ハノイで終身刑を受けるといった流れになる。ファンボイチャウが亡くなった1950年に日本がベトナムに進駐したというのも何たる皮肉だろうかね。

ファンボイチャウ記念館の見学を終え、今度は旧市街の観光名所ティエンムー寺とグエン朝王宮の方面へとバイクを走らせる。

道中で目にしたフランス植民地時代に造られたフエ鉄道駅。ここからダナンまで鉄道で2時間半。


お、ホーチミン博物館だって。ここも立ち寄ってみよう。

ひだり みぎ
同じくベトナムの独立の為の革命を目指したファンボイチャウの記念館よりは随分と立派な造りだけど、ひたすら写真が並んでいるだけで楽しめる要素は殆ど無い。サイゴンのホーチミン博物館で見れるようなばっかりだし。

ひだり みぎ
こんなんばっかで、わざわざ立ち寄る価値も無いか。

この後はフォーン川の西の畔の見所・ティエンムー寺とグエン王宮を見て回る。やっぱりバイクを借りて正解だったわ。トゥドゥック帝陵を見つけられず悔しい思いはしてしまったが、限られた時間で見所を効率的に見て回るにはバイクのレンタルが一番。


ファンボイチャウ記念館 / Di tich luu niem Phan Boi Chau
住所:119 Phan Boi Chau, thanh pho Hue
開館時間:7:30 – 11:00 / 13:30 – 17:00(日・月曜休館)
料金:無料



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