20世紀最大の発見 始皇帝が遺した兵馬俑

1974年、突如として世界の考古学界を揺るがす20世紀最大の発見が発表された。中国史上で初めて中国全土を統一した中国皇帝の先駆者・始皇帝が遺した8,000体にも及ぶ兵馬俑が秦の都城近くの平原で発掘されたのである。

始皇帝(紀元前259~210)は圧倒的武力でもって中国を割拠していた戦国を次々と征服、戦国時代に終止符を打ち中国大陸初の統一国家を築き上げた初代皇帝である。統一を果たした後は中央集権化を進め度量衡・貨幣・漢字書体の統一を行い、焚書・坑儒を行い自身への一切の批判を封じ込めるなど、強権的政治体制により全国統治を推し進めていった。度量衡の統一・文字の統一・貨幣の統一…いずれも世界史に残る難事業であり、その難易度たるや郵政民営化などの比ではないのだが、始皇帝はこれらのビッグプロジェクトを全て、しかも極めて短い期間に一人で成し遂げたのである。まさに伝説のエンペラー。そんな彼の肝いりプロジェクトとして作られたのが兵馬俑であり、中国史きっての大物に関する歴史が紐解かれるだろう発見に考古学会に激震が走った。
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兵馬俑遺跡へのアクセスは西安駅からのバスが一番楽。西安駅の出口を出て、左手に100メートル程行った場所が出発地点となる。他の観光客がぞろぞろそちらの方向に歩いていきますので迷うことはないかと思う。チケットも事前購入の必要は無く、乗車後に係員に運賃7元を支払う仕組みである。

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「国営游5(306)路」という中型バス。満席になり次第出発する。

バスを降り、兵馬俑のチケット売り場に向かう道中でワーッと四方八方から人が集まってきて、100元!120元!と日本語・中国語で数字をぶつけてくる。物売りや即席パーソナルガイドの連中で、一様に顔は笑っているが獲物を逃さまいと声は殺気立っていた。そんな十数人の山をかき分け、兵馬俑の入り口を目指して歩いてゆく。
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発見後40年以上が経過した今もなお調査が続けられている始皇帝陵では、兵馬俑だけでなく地底宮殿やその周囲を取り囲む水銀で造られた人工の川の存在も明らかになりつつある。なんと盗掘を防ぐための弓矢の自動発射装置まで設置されていたんだとか。自分の中ではピラミッド級のロマンで、兵馬俑は「生涯の中で必ず訪れるべき場所リスト」の一つとして挙げていた。それだけにようやく訪問が叶い大興奮である。


観光客の流れに合わせて歩いていると、兵馬俑第一号坑が見えてきた。1974年、農民が井戸を掘る際に偶然見つけた総面積約1万4260㎡の1号坑を皮切りに、2号坑、3号坑が次々に発掘され、死後の秦始皇帝を永遠に守る為の近衛師団として地下に配された総計8,000点もの兵馬俑が発見されたのである。それも、全ての像が当時の仮想敵国があったであろう東の方角を向いて…。因みに世紀の大発見をした農夫は兵馬俑サイトで有料サイン会を催し生計を立てるなど、今でも慎ましやかな生活を送っているらしい。

秦の始皇帝を死後の世界で守るために副葬された夥しい数の素焼きの兵士像。現在も発掘の最中であるが、一号坑には剣や槍、石弓など青銅の兵器を携えた歩兵隊を中心に兵士6,000体・戦車45両程の俑が出土している。服の皺や髪の毛といった細部まで入念に作り込まれたそれら兵馬俑たちは、実際の武器を手にした状態で地下に約2000年眠っていたと言われている。そのクオリティの高さにも驚かされるが、更に驚愕なのは、それらの像が型ではなく手作りのカスタムメイドで作られたもので、髪型・表情・衣服・姿勢のどれ一つとして同じ像がいないということである。

戦国時代の最強部隊がほぼ等身大の兵俑となり軍律正しく東方の敵地へ今にも行軍しようとしているようで、方陣の隊列を組んだ兵士の表情は逞しいが緊張感に包まれたような重苦しいものとなっている。古代ギリシャやローマの彫刻のように芸術として追求されたのではなく、写実そのものを目的としたとしか理解できないような、何とも言えないピリピリとした緊張感が伝わってくるのである。この場に来れて、もうただただ感無量。

戦国末期の秦の兵力と言えば歩兵百万・騎兵一万・戦車千両ほどと推量されている。ちょうど戦さで歩兵が重視されはじめた時代で、兵馬俑の兵士像も将官・歩兵・鎧を着た下級兵士・弓矢で武装した歩兵など幾つもの兵種に分かれて軍陣が組まれてる。
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1号兵馬俑坑の前方に配置された前衛部隊は殆どが鎧のない軽装歩兵俑で固められ、その背後に騎兵隊や指揮官である軍吏俑が続く。更にその後ろには重厚な鎧で身を固め、槍や矛など長い柄の武器を手にした重装歩兵俑の部隊が控えるといった陣形である。戦端が開かれるなり身軽な軽装歩兵部隊が真っ先に展開して敵に矢を射かけ、指揮車が率いる重装歩兵部隊が敵陣めがけて突入する…。どこまでもリアルが追及された兵馬俑は隊形まで実戦仕様で、兵馬俑1体ずつの造形・装飾・装備にそれぞれ意味があるように、兵馬俑全体の配置にも写実性が貫徹されているのである。

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兵俑は足から上の部分は中空で、別に作られた顔と手足を後から接合して組み立てられているようだ。全国から選りすぐられて腕の立つ陶工が塑像の作成彫刻を担当し、その後に彩色まで施されたらしい。実に精巧な出来栄えで、とても2,200年前の作品とは思えない。


兵馬俑の製造に携わった3,000人とも言われる職人は秘密を守るために別の穴に閉じ込め始末されたらしい。始皇帝、これが本当ならゲスすぎる。

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続いて見学する二号坑は一号坑の半分程度の面積で、射撃部隊の兵馬俑約1,400体、戦車89両の埋蔵が確認されている。

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兵馬俑を見学できる建物は相当に大きく、建物の外周沿いの見学ルートしか歩けない為、建物中央の兵馬俑まで確認したい方は望遠鏡の持参をお忘れにならぬよう。

二号坑には各階級の兵馬俑が展示されている。兵馬俑はリアリズム彫塑の先駆であり、歩兵は痩せ気味で将校の腹が出ているというくらいに写実的。秦の時代にタイムスリップして当時の軍人と対峙しているような気にすらなってくる。
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重装歩兵部隊の跪射俑(左)と中級軍吏俑(右)。それにしても躍動感あるよな。残念ながら木で作られた武器は既に朽ち果ててしまっているが、跪射俑なんて今にも矢を放ってきそうだわ。

高級軍吏俑と鞍馬騎兵俑。
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面長の顔に立派なひげを蓄えた貫録十分な将軍は冠をかぶり、鎧も他の兵士のものと比べて防護性が高く豪華。思慮深い眼差しと筋骨逞しい両腕に百戦錬磨の武将ならではの威厳と風格が漂う。

三号坑は兵俑68体・兵馬四頭・戦車一両のみの出土と規模は小さく、指揮・作戦部隊と確定されている。

また、遺跡だけでなく兵馬俑に関する博物館も設置されている。

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始皇帝陵の墳丘近くで地下8メートルの地点から御者の像と共に出土した二台の彩色銅車馬。金銀で飾られた青銅製の馬車二両はそれぞれ30,00もの部品から構成されている。装身具を纏い生き生きとした河西馬も実に見事であり、今には走り出しそうなリアリティに圧倒される。


死後も生前の生活そのものを来世に持って行き、皇帝として永遠に世界の支配を夢見ていた始皇帝の野望が強烈に感じられる。人物の階級や役割の違いまで忠実に俑に表わし副葬品とすることで、皇帝を頂点とする統一後の秩序を完璧に来世に移植しようとしたのである。前例のない大事業を成し遂げた始皇帝ならではの豪快な設計思想と行動力である。


遠くに見える丘が秦の始皇帝陵になっているのだが、残念ながらここでタイムアップ。フライトの時間が迫っていたので、ここからタクシーをチャーターして空港へと向かうことに。

絶大な権力を手中にした始皇帝だったが、後世では「老い」と「死」を極度に怖れ、不老不死を求め迷走したそうだ。仙人の境地に達する神仙思想に傾倒し、不老不死の薬を部下に探させたり、自身も不老不死を祈る儀式を行ったりと…。そして遂には不老不死の霊薬と信じた水銀を飲んでみたりもしたらしい。そんな彼の晩生のエピソードを聞いてると、世の常識を超越した死後の軍団である兵馬俑も、不老不死を求め続けた始皇帝の生への執着心が造らせた哀しき夢の跡という気がしてきた。ひたすら生に執着し、死の影に脅え、不老不死を求めて国庫を傾け、病的なまでの恐怖を心に抱いたまま死んでいった中国のファーストエンペラー・始皇帝。そんな晩生は迎えたくないなぁなんてしみじみと思ってみたり。

【兵馬俑】

所在地 : 陝西省西安市臨潼区西楊村
入館時間 :08:30-18:00(3月16日—11月15日)・08:30-17:30(11月16日—3月15日)
入館料:150元(3月1日-11月)・120元(12月1日-2月)



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