マレー人郷土博物館(マレー ヘリテージセンター)

サルタンモスクを見学した後は、直ぐお隣のマレー・ヘリテージセンターへと移動する。空港で入手した観光マップによると、マレー・ヘリテージセンターはその名の通り「マレーの歴史や文化を紹介する博物館」とのことである。そのまんま過ぎて何の補足説明にもなってない。

それでは何故シンガポールにマレーのヘリテージセンターがあるのか。
そもそもシンガポールは19世紀初頭までジョホール王国(王都=現マレーシア・ジョホール州)のサルタンの支配下でマレー人と少数の中国人漁民合計150人ほどが生活を営む小さな漁村だったが、1819年にスタンフォード・ラッフルズ卿が東インド会社の貿易拠点を確保する為にジョホール王朝のサルタンと交渉してシンガポールの領有権を獲得したというところから国としての歴史が始まった。シンガポールを領有することになったラッフルズ卿が現在のアラブストリート周辺を“カンポングラム”と呼ばれるサルタンにとっての「領地」として認めると共にサルタン・モスクや宮殿を建造し、マレー人を中心としたアラブストリートが築かれていったのだ。

そのサルタン宮殿を改装して博物館として一般公開したのがマレー・ヘリテージセンターである。


手入れの行き届いた宮殿の庭園さながらの優雅な前庭にはベンチも用意されているので、アラブな空気を肌に感じながら一休みするのにも最適だ。

ひだり みぎ
チケットの販売窓口であるビジターセンターではちょっとしたマレー雑貨も調達可能。英語でのツアーガイドも定期開催されているようだが、開催時刻まで待ちきれなかったので一人で博物館のある本館へと向かう。庭には沢山の人がいたのに館内の見学者は私のみの貸切状態。興味深いテーマの博物館だけど、余り人気はないのかな。

マレーの風習に倣って入り口にて靴を脱ぎ、いざ参観。

マレー民族が分布する地域を示す巨大なアジアマップから博物館の展示が始まり、ここから順にマレーの歴史・文化が紹介されていく流れ。マレー族の民族衣装や装飾品、生活用品などが展示されており、日本でいうところの郷土資料館のような雰囲気かな。

先ずはマレー族の定義付けから入る。民族を定義する場合、客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多く難しいが、文化人類学的には「言語・宗教・伝承」という客観的基準と当人たちの「帰属意識」等の主観的基準に基づき決定されるとの説がある。その中でも大きな役割を果たすのが言語かと。
オーストロネシア語族に属するマレー語はもともと7世紀頃に誕生したスマトラ島のムラユ国の言語で、その後、スマトラ島ベースのマレー系海上交易国家・シュリーヴィジャヤ王国の発展により広く東南アジア島嶼部に行き渡っていった。1403年にはマレー半島に誕生したマラッカ王国と、1511年にマラッカの王統を受け継いだジョホール王国がマレー語の発展を促し、15世紀以降はマレー語はマラヤの土着言語とになると同時に東南アジア島嶼部で活動する貿易商の共通語としての役割を果たしてきた。インドネシア語だってマレー語をモデルにしてるらしいですからね。そんなことで、言語を軸に考えると、マレーシア・シンガポール・ブルネイ・インドネシア・フィリピンなど東南アジア島嶼部の国々に住む人々の多くが広義の意味でのマレー族ということになる。

当時は現在のビーチ・ロード付近が海岸線だったようで、マレー・インドネシア・ボルネオなどの周辺海域からの商船は現アラブストリート近辺の船着き場を利用し、すぐ東のロチョー川の岸辺には停泊した小船の中に住むマレー人水上生活者などが小さな集落を作っていた。


当時の王宮。ここは今でもシンガポールに於けるマレー人の心の拠り所。


ラッフルズ上陸時、ジョホール王国では息子二人による王位継承争いが起きていた。オランダが次男(称号名=サルタン・アブドゥル・ラーマン)の継承を承認したのに対し、イギリスは長男(称号名=サルタン・フセイン・シャー)をシンガポールの支配者として担ぎ上げることでシンガポールの領有権を主張した。なんとも強引な手法だが、こんな無茶がまかり通り、シンガポールはイギリスの海峡植民地に組み入れられた。

19世紀後半になると無関税の自由港政策が採られたことでシンガポールは貿易拠点として急速に発展、各地から移民が押し寄せた。中でもアラブ系移民はメッカ巡礼ツアーをサポートするツアコン事業で財を成し、モスクやイスラム学校への寄進や寄付などで影響力を強めていった。その彼らの功績の大きさは現在のアラブストリートに残るバグダットストリート・ブッソーラストリート・ハジレーン・アラブストリートといった道の名称からも伺い知ることができる。

ムスリムには断食・信仰告白・礼拝・喜捨・断食・メッカ巡礼の五行が信者としての義務として課せられている。最初の四行は自らの生活圏の中で実行可能なものであるが、メッカ巡礼は容易いことではない。今のように個人旅行者が気軽に航空券を買って旅行できる時代ではない。当時はコロンボ経由での過酷な船での移動である。しかも、巡礼者を輸送する船舶が圧倒的に不足したことにより遅延の発生や乗客の過剰積載といった事態が恒常化していて、ムスリムの皆様方にとってはまさに命を賭けた巡礼だったようだ。

ひだり みぎ
スルタンモスク前でバスを待つピルグリムの方々。船に乗ってからも過酷な修行が待っていて、不衛生な環境から疱瘡やコレラになる者もいたらしい。

20世紀になるとシンガポールの経済規模拡大に伴い中華系・インド系の移民の数も急増。新しいショップハウスや住宅がバンバン建造され、混雑を嫌った裕福なアラブ系移民たちは次第に郊外へと移り住むようになっていった。アラブストリートにインド系や中華資本の店も多く並ぶのはこの為だろう。

移民増加後は同じくイギリスの植民地であるインドやオーストラリア・中国大陸等との間での東西交易・三角貿易の中継地点として発展。すず鉱山・天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力・港湾荷役労働者・貿易商・行政官吏として中国やインドからの移民流入が加速し、現在の多民族国家の礎が築かれた。2000-2003年に行われた発掘調査ではカンポングラムから世界各国の通貨・東洋・西洋の陶器・日本やアジア各地の土器・石器・磁器などが発見され、当時の貿易の様子を解明する手がかりとして扱われている。

ひだり みぎ
当時の商材かな。クリスや金銀製品。

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生地類に骨董系。シンガポール自体がまだまだ新しい国ということもあり、残念ながら考古学的価値のある貴重な展示物等は一切見られない。

ここまでが博物館2階の展示内容。2階の展示コーナーを見終わり1階に降りると、近代以降のマレー人の活躍ぶりに関する展示品が並ぶ。
特に重要な産業としては印刷関連で、カンポングラムは戦後まで出版の中心を担ったそうだ。
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1920年代まで大衆の娯楽だったマレーオペラ、そこから発展した音楽・映画産業などの芸術がアピールされている。


ジャウィ文字のコーラン。

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マレー系イスラムミュージックのレコードが並んでいて、実際に幾つかの曲は試聴できるので、興味のある方はこちらで哀愁漂う当時のマレー楽曲を楽しんでは如何だろう。

あー面白いなぁと思って見て回ること小1時間、なんとこのレコードが最後の展示物とのこと。展示内容としては興味深くはあるが、如何せん展示物が少なく、ヘリテージセンターというのはちょいと誇大広告かも。流し見程度だったら数十分で見終えてしまうくらいのサクサク感ある博物館なので、サルタンモスクの見学時間までの時間調整くらいに利用するのがちょうど良いだろう。

マレー・ヘリテージセンター

住所:85 Sultan Gate
電話:63910450
営業時間 火~日:08:00-20:00、金~土:08:00-22:00
入館料:大人4シンガポールドル、6歳以下無料
英語ガイドツアー 火-金:11:00~11:45、土日14:00~14:45



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