サ・カンペーン・ヤイ遺跡

次の目的地はサ・カンペーン・ヤイ遺跡。シー・サケートの隣町ウトゥムポン・ピサイに残るバプーオンスタイルのクメール遺跡だ。11世紀にシヴァ神に捧げる為のヒンドゥー神殿として建てられたが、上座部仏教がインドシナ半島に広がりをみせた13世紀には仏教寺院として改築された。先に見たカンペーン・ノーイ遺跡を建造したクメールの最強王ジャヤーヴァルマン7世がヒンドゥー教ではなく仏教を信仰し始めたことにも恐らく関係があるのだろう。クメール王朝に空前の繁栄をもたらしたジャヤーヴァルマン7世は、巨大仏教都市・アンコールトムを始め多くの仏教寺院を建築したことで「建寺王」とも呼ばれた熱心な仏教徒なので、ヒンドゥー寺院を仏教スタイルの宗教施設に宗旨変えするくらいの宗教改革をしてもおかしくない。有名どころではバンテアイ・クディなんかもジャヤーヴァルマン7世の治世にヒンドゥー寺院から仏教寺院に改築されたが、その後13世紀後期のジャヤーヴァルマン8世の時代には再びヒンドゥー教の国になって仏像が破壊されたりもしている。仏教とヒンズー教の両方が受け容れられ、時の国王がどちらに帰依するかによって、仏教が栄えたりヒンズー教が栄えたりしてきたクメール王朝だけあって、ある意味、ヒンドゥー文化と仏教信仰が重層的に重なり合って独自に築かれたクメール文明の象徴的な遺跡とも言えるだろう。


シーサケートからサ・カンペーン・ヤイ遺跡は4186番バスでウトゥムポン・ピサイまで行き、そこからサムローを利用するか、タイ国鉄の東北本線・南線でウトゥムポン・ピサイ駅まで行き、線路沿いにスリン方向へ15分程(1Km強)歩いて行くことになる。


カンペーン・ノーイ遺跡前でスリン行きのロットゥーに拾われた私は、公道のTESCO脇で降ろされた。できればウトゥムポン・ピサイの鉄道駅で降ろしてもらいたかったのだが、ロットゥーは鉄道駅には止まらず、ここから公道を更に西に進んでスリンへと向かうらしい。

ひだり みぎ
灼熱の太陽が照りつける中、何の特徴も無い街中を適当に30分程さ迷い歩き、汗びっしょりになった頃にようやく鉄道駅へと到着。ここから遺跡までバイタク往復40Bでバイタクと合意。古臭い原付の後ろに乗って西へ1Km強走ると寺院の脇に残る遺跡の姿が見えてくる。普通にロットウーを降りた場所からバイタクを拾えば良かった…


とりあえず寺院の門をくぐると、遺跡からの出土物なのだろうか巨大な銅鑼が目を引く。暁鐘、昏鐘用の鐘楼はタイの寺院でもしばしば見かけるが、こんな巨大な鐘(鰐口?)は初めてお目にかかる。僧坊のすぐ横にあるということは目覚まし用なのか。


そのまま進んでいくと右手には威厳プンプンの高僧らしい座仏像に縦長の礼拝堂、左奥がゴージャスな飾り付けが眩しい本堂で、その向かい側がクメール遺跡となっている。

ひだり みぎ
ちょっとアニメチックな仏教説話が描かれている。

ひだり みぎ


こちらが本堂だろう。棟飾りから何から非常に立派な建築物だが、中は工事中なのかクローズとなっていた。

ひだり みぎ
敷地内にはつっぱったお腹の贅肉を撫でながら幸せそうに眠る金ぴか仏陀像から地獄の民のようなグロ系の像まで盛り沢山。

ひだり みぎ
地獄寺さながらだ。手がデカ過ぎるなんてホンの序の口。胴体に比べて頭がデカ過ぎる為に身動き取れなかったり…

ひだり みぎ
嘔吐が止まらなかったり、日常生活に支障を来すくらいイチモツが巨大だったり…悪いことしたら来世でこんなんになっちゃいますよ!的なメッセージだろうが、余りにグロすぎる。他にも腕がもげてたり上半身しかなかったり脱糞が止まらなかったりと、タイ人が考え得るありとあらゆる地獄の苦しみが表現されている。


寺院の見学を一通り終え、肝心の遺跡へと移る。流石に「ヤイ(大きい)」を名乗っているだけあってプラサート・サ・カムペーン・ノーイよりは大規模で見応えがあるし、しっかり整備もされている。かつてのインドシナ半島の大平原には濃密な熱帯降雨林が広がり、カンボジアのアンコール王朝時代には鬱蒼とした密林や疎林の中を盛土と一部敷石した王道がアンコールの都城と地方拠点都市を結んで延々と続いていたという。西北方面へ向かう王道はダンレック山脈を越えて現在のピーマイ遺跡を経由してタイ中央部のスコターイ都城まで延び、東南方面は遠くベトナム中部のダナン近くまで繋がっていたとされる。サ・カンペーン・ヤイ遺跡はそんなアンコール王朝の繁栄跡だと思うと感慨深い。

ひだり みぎ
往時を偲ばせるラテライトと砂岩で建てられた遺跡回廊の横には派手メな現代風仏教寺院が並存していて、時代錯誤な感じを受けてしまう。

ひだり みぎ
クメール遺跡の見所は何といってもまぐさ石や破風に施された美しいレリーフの数々。ヒンドゥー教神話の一幕や、数多の神々が細やかな彫刻となり、我々に往時の信仰の様子を語りかけてくる。

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まぐさ石は入口支柱の間に渡され、建物上部を支えるという機能的な意味合いもさることながら、建物入口の目をひく「顔」の位置にあたるため、寺院建築などで気合を入れた装飾的彫刻が施される。 また、まぐさ石だけでなく、破風や石柱にもレリーフが残されている。話によると他にも出土品があるそうだが、一部はピマーイなど他の博物館に搬送されてしまったそうだ。


東回廊門の柱にはアクリル板で保護された創建当時の貴重な碑文もあるが、碑文の示す内容に関する説明は残念ながら見当たらなかった。折角の立派な遺跡なんだから、もう少し訪問客視点で整備してくれりゃあ違うのになぁ…

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