ホテルでチェックインを済ませ、トゥクトゥクでキリングフィールドに向かう。キリングフィールドとは、ポル・ポト政権下のカンボジアで大量虐殺が行われた刑場跡兼死体埋葬地の俗称だ。ポルポトによる原始共産主義という過激な思想によって、都市居住者は有無も言わさず一人残らず地方の集団農場に強制移動させられ、市場・通貨の廃止、学校教育の廃止、宗教活動の廃止など、毛沢東主義を基盤とした極端な共産主義体制が敷かれていき、知識人と見なされたカンボジア人は粛清の名の下に皆殺しにされた。知識がある=クメールルージュ(カンボジア共産党)に対して反革命分子となり得るとの無茶苦茶なバイアスから、知識人達はその家族と共に徹底的に処刑された。一族根絶の為に処刑する者の赤ちゃんでさえ叩き殺すという徹底した極悪披露ぶりだ。教師や医者、技術者などは勿論のこと、読み書きができ学識がありそうだから知識人・・・外国語を話せるから知識人・・・メガネをかけているから知識人・・・手が綺麗だから・色が白いから(労働階級は手が汚れていて肌が焼けているとの独断と偏見)知識人・・・という余りに理不尽な理由で処刑対象となっていった。知識人以外でも美形の者はベトナム系のレッテルを貼られて処刑されるなど、全くもって罪の無い人々の無辜の命が奪われていった。正式な統計数字は出ていないものの、強制労働による過労死、病死、飢餓死などを含めると最終的には当時の人口の3/1~1/4にあたる200万人から300万人ものカンボジア人がクメールルージュの犠牲になったという身の毛もよだつ大量殺戮が僅か40年ほど前の出来事というのが信じられない。
本日向かうのは全国に300程あるキリングフィールドの中の一つで、正式にはチュンエク大量虐殺センターと呼ばれるところだ。チュンエク大量虐殺センターはカンボジア市街地から南に約15Km離れたカーン・ダンコ-地区のチュンエク村に位置している。市街地にあるトゥルースレン(通称S21)刑務所で監禁・拷問されていた“囚人”がトラックにて輸送されてきて、虐殺、埋葬された場所。当地だけでも約2万人が虐殺されたという惨劇の地に行くというのは流石に気分が重たくなるものだ。
トゥクトゥクに乗って出発をする。街はかなりワイルドなようで、道交法が無いのか、バイクは2~4人乗りだらけだし、黒い排気ガスを撒き散らしながら平気で歩道や反対車線を走ったりしている。余りの無法っぷりに心配になった矢先、案の定、ガツーンとトゥクトゥクのケツを後ろからバイクで掘られ、危うくトゥクトゥクの座席から放り出されるというハプニング発生。れっきとした衝突事故だと思うのだが、何故かぶつけた方もぶつけられた方も嬉々とした表情を浮かべ、特攻を仕掛けてきたバイクは何事も無かったかのように走り去っていった。ワイルドだ。
僧侶や警察も2ケツ、3ケツは当たり前。バイクの後ろに簡易ベッドみたいなのを据え付けて3ケツしたりするバイクも見かけました。
カンボジア市街地からトゥトゥクで10分も走れば交通量は激減。一国の首都であるプノンペンではあるが、郊外のインフラ整備はずいぶん遅れている。道路も舗装が剝れたガタガタ道になってきて、砂埃と強烈な生ゴミ臭が襲ってくる。よくもまあこれだけ道の悪い場所をバイク4人乗りで走れるものだと妙に感心する。
道の両脇にはカンボジア特有の高床式住居が点在し、コケコッコーと鶏の鳴く声が聞こえてくる。
大きな通りを左に折れ、この長閑な畦道を真っすぐ行った先にカンボジアの闇歴史の象徴の一つであるチュンエク大量虐殺センターがある。ここがジェノサイドの地であるという歴史的事実と不釣り合いな長閑さだ。
立ちションを終えた名倉は再びトゥクトゥクを走らせ、漸くキリングフィールドに到着した。この長閑で小鳥の囀りが聞こえるほどに静かな土地で、虐殺が繰り広げられたのか。「No more than one hour!(1時間以内だぞ!)」と時間指定してくる名倉には返事をせずにトゥクトゥクを離れ、入り口にてチケットを購入。日本語オーディオガイド料金と合計でUS$5。
オーディオセットと合わせて渡された日本語マップ。各種建物はポルポト政権解放後に壊されて建材として持ち去られてしまったそうで、田園風景の前にポツンと慰霊塔が聳え立っている。
各種建物はポルポト政権解放後に壊されて建材として持ち去られてしまったそうで、田園風景の前にポツンと高さ20m程の慰霊塔が聳え立っている。四方にはナーガが頭を伸ばしている。内部はガラス張りの空洞で、水平に何層にも区切られた棚に、夥しい数の犠牲者の遺骨がボロボロになった衣服などと一緒に安置されている。
写真を撮るのは躊躇われたが、人間の愚かさを記録する為に撮ってきた。慰霊塔の中で天に届くかのように見上げる限り無数に髑髏が慰霊台を埋め尽くしている。この異様は圧巻すぎて、正視にも耐えられず、ただただ無心で手を合わせて鎮魂を願うのみであった。私以外の参拝客も献花をし、祈祷を捧げたり胸で十字を切ったりしている。宗教の枠を超えて、人の心に刺ささってくるるものがあるのだ。オーディオガイドによると当キリングフィールドで発掘された8,985柱の遺骨が安置されているとのことだ。この慰霊台を中心に反時計回りにフィールドを回る。
手前の看板の地点でトゥールスレンで収容されていた人々を乗せたトラックが到着した。別の施設に移動すると言われて目隠しをして運ばれ、老若男女、無条件に事務的に処刑され、死体はフィールド内に掘られた穴に無造作に投げ込まれた。フィールド内には果樹園が広がっていて、平和そのものといった雰囲気だが、足元にもまだまだ沢山の遺骨が埋まっていると言う。あちこちにある地面のくぼみは遺体を掘り出した跡で、キレイに整備された芝生と木の足元をよく見ると今でも人骨や犠牲者の物であろう布キレなどが見られたりする。何とも生々しい現場である。
写真右の菩提樹はマジックツリーと呼ばれ、枝にスピーカーを取り付けて大音量の革命歌など流すことで、処刑時の断末魔の声が外に漏れないようにしていた。のどを切って声を奪ってから処刑するなどの“工夫”もこらされていたそうだ。
写真左はキリングツリーと呼ばれ、子供を処刑するのに使われた。処刑人が子供の両足を持って、頭を木の幹に打ち付けたのだという。自分が生き延びるためにか、集団心理なのか、クメールルージュを盲信していたのか、よくぞこんな惨い狂気の沙汰を自国の子供に対して…
同じ言語を話し、同じ故郷に生まれた同郷の者を大量殺戮する狂気。「腐ったリンゴは箱ごと捨てなければならない。」ポルポトの言う「腐ったリンゴ」は自国の民を指す。フィールド内を一周し、慰霊塔に戻って暫し放心状態に。もう、言葉なんて出てこない。知らない事実、歴史が沢山で、本やネットからは得られないものがここには沢山ある。直接足を運んで、肌と第六感で得るもの、感じるものが沢山ある。最後にもう一度慰霊塔に入り、殺された人々に対して黙祷し、キリングフィールドを後にした。次の目的地はおどろおどろしい名前のトゥルースレン虐殺博物館だ。
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