クチャの巨大仏教遺跡 スバシ故城

クチャ市街地から北へ23km。天山山脈の麓に広がる西域最大の仏教遺跡と後漢時代の町跡が残っている。山脈から流れ出るクチャ河の源流部近くに魏晋から唐の時代創建されたスバシ故城で、2014年には「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の構成資産として世界遺産にも登録されている。

ホテルの受付嬢に運転手を紹介してもらい、500元でクチャ郊外に遺るスバシ故城・クスルガハ烽火台・キジル石窟を時間無制限で回ってもらうことに。

禿げたポプラ並木の“トンネル”を一路北へ。


高々とそびえるポプラ並木を抜け、果てしない砂漠の中に一直線に伸びる舗装道路を時速100キロ超で爆走する。


クチャ市内から30分程だろうか、礫沙漠の荒涼とした大地を北に走ると、荒山の麓にあるスバシ故城のゲートに到着した。山の麓だけあって市内より寒く、マイナス8度だと。手袋・マフラー・ニット帽をしっかり装備してから車を降りる。


ここスバシ故城にはあの玄奘も2ヵ月に渡り滞在し、大唐西域記で昭怙麓大寺として以下のように触れている(昭怙麓大寺はキジル石窟を指すとする学説も出てきているそうだが)。

荒城の北40余里のところ、山の入りこみに接し、一つの河をへだてて二つの伽藍がある。同じく昭怙釐(註・しょうこり)と名付け、東昭怙釐・西昭怙釐と位置に従って称している。仏像の荘厳はほとんど人工とは思えないほどである。僧徒は特戒甚だ清く、まことによく精進している。東昭怙釐の仏堂中に玉の面の広さ2尺余、色は黄白をおび、蛤のような形をしたものがある。その上には仏陀の足のうらの跡があり、長さ1尺8寸、広さ6寸に余るものである。斎日に光明を照らし輝かすことがある。

玄奘/水谷真成訳 大唐西域記

栄華を極めたスバシ故城であったが、今やその繁栄ぶりを偲ばせる建築物は殆ど遺っておらず、だだっ広い荒野にただただ廃墟というか壊れた土の塊が累々と横たわっているのみとなっている。時の流れとはなんと残酷なものか。

原型を留める遺跡殆ど無いが、朽ち果てた遺構が遺された範囲はすこぶる広い。

遠くの荒山から広がる扇状地性の緩い斜面に赤土の壁が何ヵ所か点在しているようだ。唐代には100の伽藍と5,000の僧侶を誇る繁栄ぶりだったとされるが、今は仏塔と伽藍跡の日干し煉瓦の土塁と土塀が辛うじて残るだけの茫漠たる光景が広がる。

荒涼とした大地に残る遺跡群を見ると、良くぞまあこんな荒れ果てた土地に聖地を建立したものだと感心してしまう。


山の斜面の方に歩いてみると、遠くに辛うじて人の手が作り上げたものだと判別のつく構造物が塹壕のようにちらばっているように見えてきた。周囲に誰もおらず、物音一つしないこの不思議空間は本当に神秘的。

ひだり みぎ
大寺院の煉瓦壁は周囲318メートルもあるのだと。

ひだり みぎ

西側の遺跡には高さ18mの仏塔が堂々と残っている。1978年にはこの塔の周辺から墓が発見され、棺材の放射性炭素測定結果から仏塔は3世紀には建立されていたことが明らかにされている。


兎のような伽藍跡。


こちらはまるで象の頭部のように見える。インドからの影響で敢えて象を形造ったのだろうか。


日干し煉瓦なので殆どの遺構は崩壊してしまっている。土の壁はジャリが入っているのと入っていないものの層になって積み重なっているのだが、あたり一面に広がるジャリは壁が崩れたものなのだろうか。全国重点文物保護単位に指定されているわりには手入れが行き届いておらず、何十年か後にはすべて崩れ落ちて沙漠と同化してしまうのではないだろうかと心配になる。


殿堂かな。魏・晋時代に繁栄した大仏教寺院は唐末あたりから衰えてゆくが、いついかなる理由で廃墟となったかは究明されていないのだと。


霧がかった白い空が遺跡の濃淡を際だたせ、寂寥とした周囲の山並みと相まって、沙漠に生きる人々の祈りが壮大な寺院いっぱいに響いていたであろう当時にタイプスリップした感じがする。

この草木も生えない大荒野の中の大寺院で、僧侶たちはどんな生活を営んでいたのだろうか。荒れ果て崩れ落ちた廃虚に残る土の塊がロマンを掻き立てる。

【スバシ故城】



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