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450年前の日本人商人のお墓(谷弥次郎兵衛、蕃二郎)


時は15世紀末、世界の覇者ポルトガル・スペインによる新世界「発見」を皮切りに大航海時代の幕が開き、世界は急速にその距離を縮め、東西様々な文化の「出会い」の機会が創出された。このような時代背景の中、極東の島国・日本にも南蛮船が到来、鉄砲やキリスト教などの海外文化が伝えられた。こうした“外世界”との接触は日本の為政者の視線を広く世界へ向かわせ、日本と海外との本格的な文化・経済の交流が始まった。殊に17世紀前半の30余年間は徳川幕府の政策として朱印船貿易が奨励され、日本人が海外との活発な交流を持った時代であった。この僅か30年余りの間に海を渡った日本人は10数万人と推定され、海のシルクロードの中継交易地であるベトナム、タイ、カンボジアなどインドシナ半島には、いくつもの日本町が栄えた。中にはアユタヤに渡った山田長政のように、渡航先で頭角を現す者も出た。しかし、そんな外部との活発な交流は長く続かず、1633年には江戸幕府が鎖国政策に踏み切ったことで各国に栄えた日本町は急速に衰えていった。

ここホイアンの日本町も例外ではない。最盛期には数百人~千人規模の日本人が居住していたとされるが、鎖国令により在住日本人の大多数は日本に引き揚げ、200名程の日本人がこの地に残ることを選択した。ホイアンの町はその後バンバン増殖した中国人の手により急速に中国色に塗り替えられ日本町は跡形も無く消滅してしまったが、400年近くを経た今でも当時の日本人商人が眠る墓が数基残されているそうだ。朱印船時代、海外へ行くという事は、現代では月面着陸に匹敵するような、突出した命がけの行為であった事が想像出来る。冬から春にかけて長崎を出航した船は、北東の風に乗って中国海岸伝いに南に向かい、海南島付近から潮にのってベトナム中部に辿り着く。ゆうに1か月以上はかかるだろう。飛行機と違って快適な空の旅と言う訳にいかず、時には大荒波に晒されながら命がけでの渡航だった筈だ。そんな彼らの当時の様子を想像していると、彼らが眠るお墓を拝んできたくなった。バイタク捕まえて墓参りに行こう。


掃いて捨てる程のバイタクオヤジが通りをウヨウヨしていて選択に迷う。腕を掴んでがーがーと唾を飛ばしながら自己アピールしてくるがめつく我の強いタイプを避け、一番誠実で大人しそうなこちらのオジサンをチョイス。チャーター費用は後に寄ってもらう陶器村への移動も含めてVND100,000と、こちらが想定していた費用の範囲内だったので、win-winだ。

ちょっと恥ずかしいが、渡されたピンクのヘルメットを装着し、ハイバーチュン通りを北に向けて走り出す。運転手選定時にヘルメットのデザインも考慮に入れておけばよかった。なんだってこんな女っぽいメットなんだ。

で、走り出したと思ったら5分程で民家の前で降ろされる。ヒャー、ヒャーと言ってるが、「here」という意味だろう。こんな民家の道脇に?と思ったが、民家の間を通る石畳の道を進むと、民家の庭裏に苔生え風化した亀甲墓が一基あるのが確認できた。400年以上前に生きた歴史的人物のものなので、お墓の写真を撮らせて頂いても大丈夫かな。イチお墓というよりは朱印船時代の大切な日本人の記憶を残す史蹟みたいなもんだもんな。

ひだり みぎ
墓標脇の石版に「1665年この地に永眠した日本商人 蕃二郎」との文字が見える。この蕃二郎という人物が350 年も前にこの異国の地でどんな思いで没していったか、とその当時を思い偲ぶ。鎖国令の後には在外日本人の帰国を禁止し、密帰国者は死刑に処するなどの罰則がもうけられたので、諸々の事情により意志に反して客死された人も多いのだろう。その当時の異郷における望郷の念というのは、現在の様に飛行機でパパッと帰郷出来る世の中とは違い、並大抵のものではなかったであろう。

ひだり みぎ


BANJIROのお墓、と。合掌していると墓守であろう老婆が線香を持って来てくれた。お参りを終え、老婆の好意に謝意を示して静かにその場を後にする。


続いてハイバーチュン通りを北上すると、一本道の両側に水田風景が広がった。日本と同様で水稲だが、畦道が殆どなく、青空の下にどこまでも緑が広がっている。3~4分程水田地帯を走っただろうか、バイタクのオジサンは右の方を指差し、幹線道路を右折した。


すっごいところ入っていくな。これ、人気の無いところに連れてかれて身ぐるみ剥がされるパターンじゃないのかと心配になる。


小川に沿って作られた凸凹した畦道を150m程進む。これが本当に墓所に通ずる道なのか。


ここだと言ってバイクを止めるオジサン。この先を進んで行けって言ってるが、辺り一面田圃しかないじゃないっすかw。

ひだり みぎ
一応は土を固めただけの田圃の畦道とは違い、幅70cm程のしっかりとした石組みの取り付け道が伸びている。しかし、左右は水量たっぷりの青い水田だ。一歩間違えれば泥まみれ必至である。

ひだり みぎ
遠くに菅傘をかぶった農夫がせっせと農作業に精を出しているのが見える。人里離れた水田のド真ん中に墓地を造成するという点に一体どういう墓相学的根拠が見出せるのであろうか。まさか一日本人が現地の五穀豊穣の為に祀られているというわけでもなかろうし。


水田の中を100m程進んだかな。静かな田園地帯に、ひっそりと佇む囲いつきの立派なお墓が見えた。やはりここでも沖縄で見られるような亀甲墓になっている。

ひだり みぎ
「1647年、日本人の貿易商人、谷弥次郎兵衛(たにやじろべえ)ここに眠る。言い伝えによれば、彼は江戸幕府の外国貿易禁止令に従って日本に帰国する事になったが、彼はホイアンの恋人に会いたくてホイアンに戻ろうとして倒れた。この彼の墓は母国の方向、北東10度を向いている。この遺跡は17世紀にホイアンが商業港として繁栄していた当事、日本の貿易商人と市民との関係が大変友好的であった事の証である」本当かどうか分からないが、映画の一本でも撮れそうな粋な男の深良い話のようだ。でも、急な幕府の方向転換に焦っただろうなぁというのは想像に難くない。「え、帰れって?仕事どうすんのさ、俺、彼女もここにいて、結婚も考えてんだけど!」…現地妻を娶り海外永住する日本人男性の走りのような人である。今から250年以上も前のことであるが、弥次郎兵衛さんの物語はこうして、現在まで受け継がれている。

ひだり みぎ
弥次郎兵衛さんの国際性・行動力に感嘆すると共に、海外雄飛と新天地に赴いていった当時の貿易商人のパワーに想いを馳せ、その彼らの生活ぶりはいかがなるものであったかと空想していると、まるでタイムスリップしたかのような錯覚にとらわれる。


墓の刻銘からは、「日本」、「顕考彌次郎兵衛谷公之墓」という文字が読み取れる。信心深い現地の人々に手厚く供養されているようで、多くの線香がぎっしりと差し込まれている。この墓は17世紀に日本人の青年とホイアンの女性との誠実で悲しい恋物語の証。風の音以外何も音のない静寂の中、一人の日本人の同胞の方が眠る地で見るこの光景に、なんとも言葉では言い表し難い不思議な情念がこみあげてくる。合掌。

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