ホイアンのランドマーク的存在の来遠橋(日本橋)

トゥボン川のミニクルーズを終えた後は、ホイアンのランドマーク的存在として知られる日本橋へと向かう。日本橋は16世紀末に造られた屋根付きの古ーい橋で、日越友好の架け橋ともされている。16世紀末といえば日本はまだ安土桃山時代、アジアはアジアは大航海時代の真っただ中か。中南米における爆発的な銀の生産、更に戦国時代を終えた日本の銀が市場に参入し、東南アジアの貿易量が急増した頃である。当時の東アジア貿易の基軸となったのは、中国、オランダ、ポルトガル船による日本向け中国産生糸・絹織物と、日本からの刀剣・銀・金である。1567年には中国の明が海禁令を解除し、中国人による南海貿易が日本の朱印船貿易開始に先駆けて合法化される。しかし、日本と明の間には貿易関係がなかった為、ホイアンが中継貿易港として脚光を浴びることになったそうだ。南シナ海に面し国際航路に近く森林資源や鉱物資源などが産出される豊かな後背地に恵まれた地理的条件も、ホイアンがアジア有数の港町となるにあたってプラスに左右した。そんな諸条件が重なり、16世紀末~17世紀初頭にかけてフエの阮氏政権の広南国と日本との交易が活発化、ホイアンの町でも日本人町が作られるほど多くの日本人が住み着いたそうだ。


でも、どうせ日本人やホイアンの地元民しか知らないマイナースポットなんじゃん?と思いきや、2万ドン札にも印刷されるくらい代表的な観光名所らしい。


うーん、正直、日本橋といっても純日本風というわけではなく、日中折衷といった感じだろうか。双竜争珠の細工など、屋根の装飾なんかも中国風だし。17世紀前半、第2代将軍秀忠の治世には鎖国政策に入ったことで海外の日本人町は衰退し、代わって中国・明からの亡命者の流入が加速したのだろうか。日本橋が架かるチャンフー通りには同郷会館や華僑商人の旧家など、中国人の手による建築物が華やかな色彩を放っている。きっとこの橋も日本人が築いた基礎に中国人が独自の文化を加えていって今に至るのだろう。


かつて、この橋の両側には日本人町と中国人町があり、両町を繋ぐ役割を果たした日本橋。今でも現役の橋として利用されている。管笠をかぶり天秤棒を担いだ女性物売りや、学校へ行く子供達も橋を利用していて、観光名所であると同時に、今でも地域住民の日常生活に欠かせない土木遺産であることが分かる。多くの地元民や観光客が橋を往来する様子を眺めていると、海上貿易に湧くホイアンで各国の商人が引っ切り無しに行き交う当時の栄華の影を見ているよう。


コケが生えた薄手の瓦が敷き詰められた瓦葺の屋根。色使いが福建会館と似てるんだよなぁ。


夜になるとケバケバシくライトアップされる。ちょっとライトが強すぎて過剰演出気味。いや、ちょっとじゃなく大分だな。

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ここは観光庁指定スポットということで、総合チケットを切られることになる。但し、公共の橋という役割を兼ねていることから、地元民たちは何も知らぬ素振りでチケットを提示しないまま平然と橋を渡っていく。どうやらカメラで写真撮影をしたり撮影する素振りが確認されると、観光目的と判断されてチケットを切られるようだ。そういうことか、昨晩は思いっきり写真撮りながら橋を渡ろうとしたらチケットの提示を求められたのか。係員は常駐しているわけではないようなので運が良ければチケット無しでも入れるそうだが…


幅5m、長さ20m足らずの橋の内部はお寺を彷彿させる作りになっている。太鼓橋のようにアーチ形状になっていて、中央部北側に迫り出した空間に小さな祠があるのが特徴的。

ひだり みぎ
橋の西側に2対の猿の像、東側には2対の犬の像がそれぞれ鎮座している。どうやら、申の年に建設し始めて戌の年に造り終えたからだそうだ。たまたま居合わせた日本人の団体ツアーガイド(ベトナム人♂)の説明に拠ると、川を隔てた橋の両側に日本人と中国人の居住地区があったので、「犬猿の仲」でした、と。ここに来るガイドの鉄板ネタなんだろう、「上手いこと言ってやったぜー」みたいなドヤ顔を見せ、おばちゃん軍団からは「あらやだぁー上手ねー」の声が上がる。ホイアン市内の他所では余り日本人の姿を見ることがなかったが、日本橋は日本人大集結状態になっている。


橋の内部を観察すると、橋の一角に片仮名で「ホイアン」「ファイフォ」と書かれた提灯を発見。ファイフォとはホイアンの旧名だそうだ。


こちらは北側に迫り出した祠で、お祈り用の御座と小さな祭壇、それに賽銭箱がポツンと置かれている。チケットの捥ぎりスタッフの目を盗んで橋の中まで侵入できても、この祠まで入っちゃうと確実にアウト。You!と言われたら大人しく総合チケットを渡しましょうw
祀られているのは…なんだろう。やっぱり海洋貿易で栄えた土地柄、水がらみの神様なんだろうが、媽祖でもなさそうだし…、無名の守護神かな。せっかくチケット回収の為に係員が配備されてるなら、簡単なガイドもしてくれりゃあいいのに。


そうそう、日本橋というのはあくまで通称で、正式名称は来遠橋と言うそうだ。遠く異国の小さな橋の中に詰まった日本の香り。祠にいると、遥か昔に遠路遥々インドシナまで夢や希望を抱いてやってきた先人の想いが伝わってくるようだ。どんな人だったんだろう。ガチ貿易をする為の豪商もいただろうし、やっぱり無鉄砲な人や、日本社会での不適合者やアウトローな浪人があぶれて一攫千金を目指すといったパターンもあっただろう。あるいは、日本での迫害を逃れるために断腸の思いで祖国を離れたキリシタンもいたかもしれない。妄想癖のある自分にはこういった想像に思いを巡らせるだけで楽しめてしまう。


祠を出て反対の南側を眺めると、街灯を反射して幻想的な雰囲気のトゥボン川とアンホイ島が目に入る。これはため息が出るほどの絶景。ただただ美しい。

当時、何の後ろ盾も持たずに自分の運と才能を試そうと海を渡った日本人達も多くいたのだろう。鎖国開始後も異国の地に留まり続けて客死された無名商人たちも多かったようだ。だが、残念なことに、ホイアンに在住していた日本人商人達の詳細な情報はあまり伝えられていないようだ。博物館には僅かながらの日本の焼き物が展示されているだけで、確定的な情報などは一切説明されていなかった。そんな中、彼らが成功の印として残した橋が数百年経った今も日中友好の懸け橋として大切に保存されている日本橋。たかが橋、されぞ橋。普通に渡れば数秒で対岸に渡りきっちゃう程の小さな橋ではあるが、歴史的・文化的遺物としての価値は高く、暫し橋の上で立ち止まり、17世紀のホイアンに生きた日本人に思いを馳せるのも良いものだ。

【来遠橋(日本橋)】
住所:Tran Phu Street



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【2014年ホイアン・ダナン旅行記】




















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