オピウム博物館で学ぶゴールデントライアングルと麻薬王の歴史

中国成金による趣味の悪いカジノで儲けた20000バーツを握りしめ、ラオスの金三角経済特区からゴールデントライアングルのタイ側へと生還した。黄金の三角地帯ことゴールデントライアングルはインドシナ半島の密林奥深くのタイ・ミャンマー・ラオスの3国がメコン川を挟んで隣接する山岳地帯にあり、アフガニスタン・パキスタン・イラン国境付近の黄金の三日月地帯と並ぶ世界最大の麻薬・覚醒剤密造地帯として悪名を轟かせていた曰くつきの場所だ。後述の通り、1990年代半ばまでは麻薬王・クンサーにより支配された密林地帯に麻薬密造用芥子畑が広がる禁断の無法地帯だったのだ。それが今では国際機関・関係各国の努力により芥子畑から茶やコーヒー、サトウキビなどの作物畑への転換が進み、麻薬王により築かれた魔境は暗い過去があったとはとても思えない長閑な観光地へと変化した。なんとまぁ川沿いを中心に隠れ家的な高級リゾートまで建っているし、古都チェンセーンやラオスのドーンサオ島などへ遊覧するボートが出航するなど観光インフラも整っているんだからアジアの変化の速さに驚かされる。アヘン密造地としての歴史を知ってか知らずか中国人と白人観光客が大挙して押し寄せていて本当に観光地観光地してて魔境の面影は一切無し。


さて、ものの数分で今回かかるであろう旅費の総額に匹敵するおこずかいを献上してくれた白亜の成金宮殿を後にする。プレー時間は本当にものの数分、もう二度と来ることは無いだろう。カジノの元締め企業・金木綿集団により運行されている無料シャトル船に乗ってタイ側の対岸まで5分弱。露骨なまでの勝ち逃げだったので川に沈められないかとの不安もあったが、金木綿集団が牛耳るラオスの出国管理局も普通にパスできたし、なんてことなくタイに生還を果たす。ラオス側の埠頭にいた雲南省からの出稼ぎ兄ちゃんやオッチャン総勢4名も皆垢抜けてなくて素朴な田舎人で、当初の不安を吹き飛ばしてくれた。カジノホテルに一泊して彼らと夕食でもとも考えたが、既にチェンセーンに投宿してしまっていたので、やっぱり戻ることに。


タイ側のチェンセーン・イミグレーションに戻ると、デカデカと掲げられたタイ語・英語・中国語の警告書が目に入る。お薬の密輸は死刑よ、と。異論はありません。極刑に処してあげて下さい。数年前には中国人乗組員を乗せた商船2隻が麻薬絡みの武装勢力の襲撃を受け13人が亡くなる事件が起こるなど、観光地化されたとはいえ、旅行者の目の及ばない裏社会はまだまだ真っ黒なのかもしれない。


埠頭の傍にはGolden Triangleとの文字が打たれたモニュメントがひっそりと寂しげに建っている。ガイドブックにも載っていないので余り認知されていないのだろう。どことなくクメール的要素を含んだモニュメントでそれなりに精緻な造りとなっているが、川沿いにポツンとあるので余り周囲の雰囲気に馴染んでいないし、誰からも注目されずに放置されている。下手したら子供の立ち小便の的にされるのではというくらいの残念な扱いを受けている。

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川岸から数メートル離れた通りに出ると両手に個人経営の土産物屋がびっしりと軒を並べていて、一大観光地の様相を呈している。どこぞやの国と違って土産物の押し売りなどは余りなく、好きなものを好きなだけゆっくりと品定めすることができてのんびりしているし、僅か数十年前には麻薬を巡って血で血を争う暗黒の歴史が繰り広げられていたとは想像できない長閑な雰囲気だ。適当に山岳民族のブレスレットなどを買ったりして土産物屋が立ち並ぶ通りを北に向かって歩いていると、左手に土産屋に埋もれたオピウム博物館を発見。2001年に設立された博物館で、アヘンの栽培過程に関する図解や阿片を取引する際に使用したチーク材の秤や趣向を凝らした芸術的な吸引道具など、中々レアなアヘングッズなどが細々と展示されている。時間もあるし、せっかくなのでいざ入館。

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博物館は二階建て。面積は広くはないが、ちょこちょことした展示物が多く集められていて面白い。

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こちらがアヘン栽培の巣窟となったメコン川の畔のジャングル地帯で、近くの長閑な山岳民族村にてアヘンが密造されていた。主だった収入源が無い少数民族にとっては痩せた土地で芥子を栽培して生産するアヘンは貴重な現金収入の手段であり、生きていくために必要な作物だったのだろう。今も状況は改善されたとはいえ、最貧国ミャンマーではまだまだアヘンビジネスに従事している者も大分いるんじゃなかろうか。

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取引に使われた天秤や錘の数々。

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こちらがアヘンの原料となるケシの花。葉は大きな長楕円形、縁はギザギザになっていて、葉の付け根は茎を抱いている。未熟の果実の乳液から阿片・モルヒネが精製されるので、日本に於いてはあへん法により一般の栽培は禁止されている。ただ、ケシと言っても食用や薬用になる品種もあり、一概にケシ=麻薬ということにはならないようだ。

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可愛らしい少数民族のパネル画像も並ぶ。タイの北部地方には21部族約50万人の山岳民族が住んでいるといわれ、それぞれが独自の文化や言語、宗教、民族衣装を持っている。彼らは身を隠すように深山の谷間や山の頂き周辺に集落を築き、豚や鶏や水牛を養い、斜面を耕作して焼畑農業を行い生計を立てていた。やがて、世界のアヘン需要が急増する。ブームの火付け役は英国で、20世紀初頭に中国で大規模なあへん禍が広まった。中国の四川省・雲南省でアヘンが生産されていたが、需要の高まりを受けて生産地は次第に南方に拡大し、当時の英領ビルマ(現ミャンマー)、仏領インドシナ、タイをまたぐ広大な地域の山岳地帯で大量の芥子が栽培されるようになった。これが魔の三角地帯・ゴールデン・トライアングルの始まりだ。

1950年代には東南アジア全域で反芥子栽培運動が広まったことから不正アヘン取引に大きな利潤が伴うようになり、アンダーグラウンドで暗躍する薬物取引集団の活動が活発化。ビルマのシャン州では、この地域に流入して土着化した中国国民党の残党や、麻薬王の私軍、ビルマ共産党などの軍事集団などが組織的にアヘンの輸送や取引に関与したことで、やがてビルマを中心とするゴールデントライアングルは堅気の人間を寄せ付けぬ魔の巣窟へと化していく。

1960~70年代にはインドシナ半島を舞台に各民族の衝突と独立、政治的な混乱が続く。1960年代初頭から始まったベトナム戦争、ビルマのクーデター、1970年代に入るとカンボジアでクーデター、米国のラオス侵攻、1975年のサイゴン陥落、同年ラオス共和国の誕生、そして1976年にポルポト政権発足などなど東南アジアは激動の時を迎える。この政局混乱の陰でゴールデントライアングル産アヘンは、反政府武装集団の軍資金として、あるいは大国が展開する諜報活動の秘密資金として使われて取引量が増加。

1980年代に入ってもゴールデントライアングルの芥子耕作は大人気で生産を急拡大。ゴールデントライアングルで生産されたアヘンはヘロインに加工され、米国やヨーロッパまで密輸されて世界を席巻する。東南アジア諸国は国内のヘロイン禍と戦うと同時に中継密輸基地として薬物犯罪組織の活動に巻き込まれ始め、薬物密輸への取締りを更に強化。1995年に麻薬王がミャンマーに投降したことで代替作物への転換政策などが進み、今ではあのゴールデントライアングルも見事に観光地化されましたよ、と。日本からもそれほど遠くない場所で起きた遠くない昔にあったことのような話である。

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アヘン漬けになり破滅の快楽に耽る中毒者の蝋人形で薬物の危険性を訴える。シャーロック・ホームズの冒険シリーズで読んだアヘン窟の描写の通り、膝が折れ曲がり、背骨は反り返っている。こいつの顔が頭に焼き付いて今も離れないので、下手な教科書を読まされるより抑止効果は抜群だ。
吸飲用のアヘンはある種の香を混ぜて調製され、一本のキセルで吸飲する量は、ほんの1、2服。初心者にはキセル1、2本分で十分に効果があらわれるが、年季の入った古株ともなると、何時間もぶっ通しで続けるそうである。これを数日間続けると表情に少しずつ変化があらわれはじめ、顔色が青白くなり目つきがトロンと怪しくなってくる。それが数ヶ月になる頃には強靭な健康体の人間でさえもすっかり蝕まれ、まるで「白痴の骸骨」同然になってしまうのだ。このようにして日々繰り返される悲劇の終幕、アヘン吸飲者が狂い求める至福の境地とは?永い眠りですよね。ここらへんは中国虎門のアヘン戦争博物館で事前学習済み。

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土産物屋も充実。マグネットやイヤリングはオリジナルデザインの種類が豊富なので、買い物していて楽しめる。

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山岳地帯の少数民族グッズも取り揃えられている。が、博物館の外の店の方が全体的にお安くなっている。多分、近所の店で仕入れた物を口銭乗っけて横流ししてるだけの楽な商売なんだろう。でも、そこらの売店スタッフより博物館員の方が英語が達者で売り物に着いて色々と質問できるので、こちらで買うのもまぁありかと。

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こちらは恐らくオピウム博物館限定のお品。面白いが、結構いいお値段。


ちょっとおしゃれなキセルは3300バーツ~。キセルの管は直径1インチくらいの葦(?)で作られていて、火皿の中のアヘンを詰める部分はピンの頭くらいの小さな穴でできている。

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さて最後、この一見穏やかそうに見えるこちらの男は世界的なアヘンの供給基地となったゴールデントライアングルの親玉として君臨し、麻薬王と呼ばれたクンサーだ。クンサーの生出たちや生立ちに関しての確定的な情報は公にされていないが、1933年にシャン族である母親と雲南系果敢族(コーカン族)の父との間にミャンマー東部のシャン州で生を受けたと考えられている。シャン族とはインドシナ半島を中心に分布するタイ族系の少数民族で、果敢族は17世紀半ばに中国で明朝が滅亡して満州族の清朝が誕生した際、異民族支配を嫌ってタイやビルマ(現ミャンマー)に逃れた漢人であり、クンサーはその7代目。張奇夫という麻薬王にしては何とも地味で物足りない中国名も持っている。

クンサーが少年時代を過ごした1949年、国共内戦で敗北を重ねた中国国民党軍の大部分が蒋介石総統と共に台湾に敗走する一方、一部の部隊はタイやビルマに散り散りになって雪崩込んだ。彼らは共産化してしまった母国奪還のための反撃拠点をインドシナに築こうと山間部に立て籠もり、アヘン栽培で資金調達をしながら少数民族解放運動を建前に武装を続け、虎視眈々と好機を待っていた。クンサー18歳の時、そんな国民党軍に入隊する。

1953年、クンサーの故郷であるシャン州一帯は国民党残軍の支配に堕ちるが、当時のビルマ政府はお涙頂戴戦略で「自国に他国の軍隊が居座っている!!異常事態だ!ヘルプミー!」と国連に訴えたこともあり、大部分の国民党残軍は世論に押された台湾政府はより受け入れられるも、粘り強い3000人ほどの兵士達は帰国を拒否し、ビルマからタイに移住。しかし、ビルマ政府は国民党軍から解放されたシャン州を直接統治することはできなかった為、現地の軍閥にビルマ政府公認の自治権を与えて間接統治に乗り出す作戦に打って出た。そこでクンサーも自らの私隊軍閥を結成し、資金源確保の為にシャン州の伝統産業であったアヘンの生産を活発化させる。こういう背景の中、麻薬の利権というドル箱を巡ってクンサーを始め様々な軍閥が跋扈、群雄割拠の状態が続いていく。

やがてシャン州では中国政府の支援を受けたビルマ共産党が勢力を伸ばし、各地の軍閥を次々に傘下に吸収していった。そこでクンサーは、ビルマ政府とタッグアップして国民党軍やビルマ共産党と戦ったが、クンサーの勢力が拡大してくるとビルマ政府の罠にかかって逮捕されてしまう。出る杭が打たれたのであろうが、ビルマ軍の凄まじい寝返り行為である。残されたクンサーの参謀長は、ソ連から援助に来ていた医師2人を人質に取ってクンサーの釈放を要求、73年にタイ政府の仲介でクンサーは釈放される。

釈放後のクンサーはタイ北部へと移住。国民党軍の拠点だったドイ・メサロン近くの村に拠点を築きあげ、少数民族にケシを栽培させながら、タイ政府の要請に応じて共産ゲリラの討伐活動に従事する。しかし80年代半ばにタイ共産党が壊滅すると、御用済みとなったクンサーは「狡兎死して走狗煮らる」ではないが、今度はタイ政府軍に裏切られてしまうので、85年に再びビルマにへと移動。タイ国境に近いホモンに新たな根拠地を建設し、少数民族シャン族モン族開放組織のモン・タイ軍を結成した。この期間に麻薬ビジネスを大々的に展開し、黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)と呼ばれる世界最大の麻薬密造地帯が形成された。

しかし、この男の波乱万丈人生はこれで終わらない。ビルマ政府は88年から89年にかけてシャン州の各少数民族の武装勢力と和平協定を結び、麻薬の取り締まりにも本腰を入れ始める。ビルマ政府軍がいよいよ攻勢に乗り出すとクンサーは国境未画定地帯のビルマ奥地に逃げ込み、93年末にシャン邦共和国の独立を宣言、自ら大統領に就任した。麻薬の密売で築いた金で遂にシャン族の独立国家「シャン邦共和国」を作り上げたのだ。何たる傑物。しかし、今度は同胞であるはずのシャン族が離反を起こし始め、95年にはついに軍内部で反乱が発生。大統領ピンチ!窮地に立たされたクンサーはサクッと96年1月にモン・タイ軍の解散を宣言、その足でリコプターでヤンゴンへひとっ飛びし、あっさりビルマ政府と停戦合意をして投降してしまった。ビジネス面での優遇案などでも合意がなされていたのであろうが、自ら命を懸けて築いた独立国を2年半で見きって敵の懐に入り込むとは…かなり政治的な人間だったようだ。

投降後はビルマ政府の庇護に置かれ、麻薬王として蓄えた資産を合法ビジネスに転用して実業家に転身、ミャンマーで不動産や貿易業でハバを利かせていたらしい。その後、麻薬犯罪人としてアメリカ政府からの再三の身柄引き渡し要求が入るも、ビルマ政府が鉄壁のガードで拒否し続け、2007年にヤンゴンで死去するまでVIP待遇でビルマ政府に保護されていたという。

いや、もう展開がアレ過ぎて、書いていて自分でも分からなくなってくる。ダイナミックな歴史展開を見せてきたインドネシア半島で激動の人生を生きた麻薬王。このゴールデントライアングルの歴史を知るにはこの博物館だけじゃ不十分。買っただけで読まずじまいになる可能性大だが、次回日本帰国時にゴールデントライアングル関連の書籍を漁ってみたいと思う。まぁ色々と考えさせられますは、このオピウム博物館。興味がある方は是非。

【オピウム博物館】
開館時間:07:00-19:00
電話:0-5378-4060
入園料:50B

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