クメール最強王ジャヤバルマン7世の栄光の跡 サ・カンペーン・ノーイ遺跡

仏頂面のホテル受付係とのすったもんだの末にアーリーチェックインを済ませ、ローカルバスに乗ってサ・カンペーン・ノーイ遺跡へと向かう。こちらの遺跡は12世紀にアンコール朝の全盛期を築いたジャヤバルマン7世により建造されたクメール様式の神殿跡で、シーサーケートからウトゥムポンピサイに向かう幹線道路脇に今にも朽ち果てそうな危うい状態で保存されているそうだ。手入れ・整備された遺跡も良いが、当時の原形のまま残された方が“ザ・遺跡”感が漂うし、イサーンの遺跡巡りのスタートとしてはもってこいなのではないか。

クメール遺跡と言えばガンボジアのアンコールワットが有名だが、現在アンコールワットが佇むシェムリアップを中心にインドシナ半島を手中に治めたクメール大帝国の繁栄跡として、タイ、特にイサーンの大地にはサ・カンペーン・ノーイ以外にも多くのクメール遺跡が存在する。


こちらはジャヤバルマン7世の御尊顔。顔貌の表情から深い精神性を感じさせつつも、稲中卓球部の田原年彦を彷彿とさせるいかにも頼りなさそうな雰囲気でもある。しかしそんな彼、外見とは裏腹に見事なまでの好戦的な性格でアンコール朝の版図をほぼインドシナ半島全域に広げるなど、クメール王朝に空前の繁栄をもたらしたとされる敏腕王だ。シェムリアップの巨大仏教都市跡アンコール・トムだけでなく、タイのピマーイ遺跡やスコータイ遺跡など、彼の功績は現代の世でもはっきりと確認することができる。


シーサーケートからサ・カンペーン・ノーイ遺跡への足はローカルバス。サ・カンペーン・ノーイ遺跡⇒ウトゥムポンピサイ⇒サ・カンペーン・ヤイ遺跡⇒プラタート・ルン・ルアンといった順序で回るのが本日の計画だ。

ひだり みぎ
派手めな20年落ちの韓国製中古バスから新し目のトヨタのミニバンを使った乗り合いバスまで、一口にバスと言っても多種多様。タイ語は分からないが固有名詞なら何とかなるだろうと、「ウトゥムポンピサイ」を連呼するも、舌を噛んでしまうような変な名前のせいで、誰にも理解してもらえない(涙)。ボディーランゲージも通用せず困っていたが、ウトゥムポンピサイ サ・カンペーン・ノーイと繋げて言ってみたら、ようやくサイババのような大柄なパンチパーマのおばさんに理解してもらうことができた。


ウトゥムポンピサイ行きのバスは出たばかりなので、スリン行きのロットゥーに乗れば目的地で降ろしてあげるよみたいなことをサイババにタイ語で言われ、案内されるままに乗車定員及び最大積載量を遥かにオーバーしたミニバンに乗車。サイババは運転手に私をサ・カンペーン・ノーイで降ろすよう伝え、まるで妊娠しているかのような大きなお腹を揺らしながら歩き去って行った。ありがとうサイババ。


人と物資を載せられるだけ載せたミニバンは猛スピードで走り出し、シーサケートの町から226号線を10分程走った地点で降ろされる。周りに何もない公道の脇に立つこちらのゲートが12世紀のアンコール朝の繁栄跡 サ・カンペーン・ノーイ遺跡への入り口らしい。遺跡への入り口としてはチョイ派手すぎる。


ゲート脇にはねじり鉢巻を巻き、真っ赤な口紅を引いたスカート姿のおっさんの像が仁王立ち。眼は焦点が定まっておらず、眉毛は海苔のように濃く太い。どことなく片山祐輔に通ずる雰囲気だ。両腕にはサッカーのキャプテンマークのような腕章を巻き、下は真っ赤なスカート一丁、そして胸にはコーヒー豆のような真っ黒い乳首がポツリ。その異様な御姿はかなりの存在感だが、一体何の像なのか。ヒンドゥー教のハヌマーン神に似てなくもないが、ジャヤヴァルマン7世は強烈な仏教マニアとして知られる一方でヒンドゥー教に対しては冷淡と言われているしなぁ。残念ながらこの像の謂れに関する説明は一切なく、今もこの像の意味は不明のまま。

ひだり みぎ
敷地内に入ると、イアンソープばりの見事な逆三角形の上半身をした黄金の像と、一点の曇りもない穏やかな表情で蓮の花の上に鎮座する真白い仏像が待ち構えている。いずれも遺跡のものとは思えない真新しい像で、12世紀の神殿跡といった雰囲気は感じられない。

ひだり みぎ
像の奥には美しい彫り物が特徴的な寺院のような建物もあるが、内部にはゴザに蚊帳、無数の扇風機、そして、御座の上で豪快に昼寝をかますオッサンの姿が…オッサンは私の存在に気付くとスクっと立ち上がり、見られたら拙い姿を見られてしまったというとても恥ずかしそうな顔をして、慌てて掃除をし始めだした。どうやら掃除の爺の居眠りを邪魔してしまったようだ。


寺院の正面には、確かに申し訳程度のクメール様式の遺跡が目の前にぽつんと残されている。どうやらこちらがサ・カンペーン・ノーイ遺跡のようだ。こういう貴重な歴史的遺構と現役の寺院が同居しているのもイーサーンに散らばるクメール遺跡のおもしろいところである。

サ・カンペーン・ノーイは東側を向いていて、主軸上に塔門に主祠堂が、主祠堂と塔門の間には経蔵が配置され、塔門からは低めの周壁がぐるりと伽藍を一周する。北東側にはラテライトで護岸されたバライ(池)が設けられ、池の中ほどには新しい寺院が建造されている。


正面入り口前から見た絵。仏教に深く帰依したとされるクメール帝国最強の王ジャヤヴァルマン7世は在位中の40年間に渡り仏教の慈善事業の一つとして、合計102の施療院(現代で言うところの病院)を造営したとされ、こちらもその施療院跡と考えられている。え!!?これが病院!!?と思ってしまうが、何しろ今から900年も前の12世紀の時代のことですからね。


塔門にはまぐさ石に磨耗したレリーフが残っている。踊るシヴァ神であろうか、保存状態が悪く、何のレリーフだったかまでは見取れない。

ひだり みぎ
中の草は手入れされずに伸びていて、歩き廻っているとオナモミのようなトゲトゲしたひっつき虫がズボンに大量に付着してそりゃ大変。ガイドブックの扱いが小さいのも頷ける。

ひだり みぎ
主祠堂に安置された仏像は何故か洋風の顔立ちで寄り目というユニークなもの。


敷地内に残されたバライの真ん中に建てられた新しい寺院に架かる橋を建てている最中だった。


見学を終えた後は公道に戻り、ローカルバスにてサ・カンペーン・ヤイ遺跡のあるウトゥムポンピサイへと移動。

報告する

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。