地獄の火峠 死の鉄道のヘルファイア・パス

カンチャナブリーの観光の目玉といえば旧泰緬鉄道や映画「戦場にかける橋」で有名になったクウェー川鉄橋で、これらはどんなガイドブックにも大きく取り上げられている。第二次世界大戦中、過酷なジャングルの中の工事で多くの犠牲者を出してしまったことも、日本人ならたいていの人が知っているだろう。しかし泰緬鉄道に関してどこまで知っているだろう。タイのバンポンからビルマのタンビュザ間を結ぶ415Kmを、熱帯の密林を伐採し原生林を切り開き、岩を開削して山を切り崩し建設された“死の鉄道”こと泰麺鉄道。大量の死者を出した過酷な建設労働と過酷極まりない敷設工事の中でも最も困難を極めたコンユウの切り通しの現場の実情を余すことなく伝える博物館が、カンチャナブリーの町から北西約80Kmの地点にある。「ヘルファイヤパス・メモリアル」だ。工事が行われた実際の現場でもあるヘルファイヤパス・メモリアルには、旧日本軍の元で働かされた連合国軍捕虜やアジア人労務者の凄惨を極めた労働・生活の様子に関する展示物が並べられている。もちろん、線路の幅だけ切り開かれた岩肌や、地面に打ち付けられた枕木なども当時のままに残されている。

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ヘルファイヤパスへはカンチャナブリーのバスターミナルから1時間おきに出ている8203番のバスで所要時間約90分。サイヨーク国立公園とエラワン国立公園に挟まれていて、地図を眺めているだけでもいかにもジャングルを切り開いて建てられた感が伝わってくる。

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こんなバス。運賃は45Bでした。

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途中、陸軍のゲートで迷彩服を着た軍人による検問が入る。地元民たちは身分証明書をじっくり見られていたのでドキドキしたが、私は外国人と分かったからか、笑顔でスルーされた。

ドア半開きのままで国道323号線を西北へ向かって爆走。だが、このバスはヘルファイヤ―パスの近くを通過するだけで、最寄りの場所が分からない。きっと観光客が一斉に降りるので彼らについて下車すりゃいいやと他人任せの考えであったが、どうもこのバスに観光客の姿は無いようだ。ピンチである。このピンチに手をさしのべてくれたのは、隣に座っていた買い物帰りのオバサンであった。彼女はソンテウが、最寄りの場所に差し掛かった時、運転手になにやらシャウとしてバスを停車させると私に微笑んだ。そして、私一人が降りると、ソンテウは忙しそうにどこかへ走り去った。

この青いゲートが目印。周りには何もなく、初めてでははっきりいってどこで降りていいか皆目見当もつかないだろう。事前に何とか運転手なり近くに座っている人なりにヘルファイヤパスで降りたい旨を伝えておかなければスルーしてしまう可能性大だ。

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周りも見渡すと確かに山々が聳え立っている。泰麺鉄道はタイの猛暑の中、この山々を切り開いて敷設された。

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写真左のような小路を10分くらい歩くとヘルファイヤパス・メモリアルの建物が見えてくる。元戦争捕虜であるオーストラリア人のモリス氏が泰緬鉄道建設時の捕虜の苦しみを風化させないようにと保存を呼びかけ、タイの商工会議所と共同で建てた博物館だ。入場料は無く、訪問者からの任意の寄付のみで運営されている。

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メモリアルにて登記をし、泰麺鉄道の建設に関するドキュメンタリーを見る。当然ながら、映画「戦場にかける橋」よりよりリアル。

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犠牲者の遺品に、労務者と捕虜となった方々に与えられていた食事。予想を遥かに上回る質素な内容に絶句する。泥やゾウムシが入った米に、乾燥野菜や死魚、蛆の湧いた一欠の肉、水っぽいシチューに老いた牛でつくったスープなどがローテーションで配された。肉の量より蛆の方が多く、大恐慌育ちで飢えには慣れていたはずのPOWも次第に弱り、
別ルートで入手した鴨の卵やカボチャなどの野菜、日干しにした鳥の舌を米にのせて食べていたそうだが、劣悪な食糧事情と綺麗な水の欠如から下痢、ビタミン欠乏症、皮膚病、赤痢などの病理が蔓延した。

泰麺鉄道の建設は1890年代から英国により検討されていたが、建設ルートの厳しい気候条件やジャングルが広がる複雑な地理条件などの為に建設は断念された。
日本は1920年代から検討をはじめ、戦前の1939-1940年にフィジビリティスタディを実施、建設には最低5年から8年かかると見積もられた。1942年にはいよいよビルマでインドの防衛を最終目標とする英国との交戦状態に入り、速攻で首都ラングーン(現ヤンゴン)を陥落させる。しかし、分厚いジャングルと高い山々に囲われたヤンゴンへの物資供給ラインは連合国軍の攻撃にさらされる危険性が高いシンガポール―ラングーン間の船便輸送しかない。ビルマ戦線への物資輸送ルート確保の必要に迫られた日本は1942年6月20日、軍部トップが泰麺鉄道プロジェクトの実施を決断。鉄道はタイ側とビルマ側の両方から敷設が開始され、完成予定は人海戦術と突貫工事により大幅に前倒しするよう求められ1943年12月(僅か1年半!)と定められた。

ビルマとタイの端は平坦な道が続くために計画通りに敷設が進んでいくように見えたが、幾本の川や山、深い森林を超えていく度に計画に遅れが生じるようになる。英国からの反撃を恐れ、完成予定を1943年12月から同年8月に計画を早め、過酷な労務環境で作業者に無理な重労働を強いたことから犠牲者の数を増幅させた。水・食糧や医療品が致命的に不足している状態で長時間の重労働を強いられ、厳しい体罰も受ける中、劣悪な生活状態からコレラ・マラリア等の大発生まで重なり、膨大な数の命が失われた。甚大なる犠牲を払った結果、1943年10月16日、タイ側のコンコイタで両側から造られた鉄道が結ばれ、遂に死の鉄道と揶揄された泰麺鉄道が完成した。ツルハシで岩盤を切り開き、シャベルやクワで土や石を掘り起こし、それをバスケットやサックに積めて運び、きりとのみで火薬用の穴をうがつという作業を全て人力で進め、川にはジャングルで伐採した木材などを使って合計688基の橋を架ける。こんな無謀なまでの壮大な計画であったが、415Kmを15ヶ月で結んでしまったのだ。甚大なる犠牲を払って。

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博物館の脇からはヘルファイア・パスやクウェー・ノイバレー展望台を通る全長4Kmのウォーキングトレイルになっていて、想像を絶する悲劇の歴史の現場を見ることができる。

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整備されたデッキを下りたら、もうそこは死の鉄道の跡地である。


地面に喰い込んだチーク木の枕木の姿を確認することができる。


ヘルファイア・パス。ちょうど線路が通れる幅に岩石が開削され、線路の両側には高さ10メートル程の岩壁が垂直にそそり立っている。

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道ばたの小さな小さな十字架に秘められた歴史。みなが気づかず通り過ぎてしまう本当に小さな十字架だが、ナショナリズムが愚かな争いしか引き起こさないことを知る者の、大きな思いが詰められています。
「IN MEMORY OF ALL AUSTRALIANS
WHO SERVED LEST WE FORGET
SHRINE OF REMEMBRANCE. MELBOURNE」
ヘルファイヤパスは、昼夜問わず強制労働の激務をこなしたPOWにより1943年、12週間に渡って拓かれた。それも、ほぼ手作業で。

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密林に覆われた土地にルートに沿って竹が切り倒され、一つ一つ地道にハンマー岩を削り取っていき、穴を掘ってダイナマイトで発破、そして岩石のかけら除去…
痩せ衰え骨と皮だけになった労働者を照らしだしてゆらめく、地獄への送り火にも似た薄気味悪い焚き火の明かりの中で永遠と響くハンマーの音…いつしかコンユウの現場は地獄の火峠、ヘルファイヤーパスと呼ばれていた。


やせ衰えた捕虜達はみなフンドシ一枚で、異様に浮き出した肋骨にかろうじて手足が繋がっているといった様相だ。彼らは満足な衣服や履物も支給されず、不衛生な椰子の草葺屋根の小屋と竹の小屋に大勢で押しくるめられ、原始的な衛生環境で更に発病リスクが高まってしまった。


鉄道の建設にあたっては、約270,000人のアジア人労働者と、合計60,000人を超える連合国側の捕虜、そして旧日本軍役12,000人が動員され、その内12,399人の捕虜と70,000-90,000人の労務者が飢えや病気、事故、虐待などにより15ヶ月に渡る鉄道建設中に犠牲となった。辺り一面は静寂さが保たれており、土や石をシャベルやクワで掘り起こす「ザクッザクッ」という音、岩壁を切り開き、杭を打ちつけるハンマーの音、そして労働者の息使いまでもが聞こえるような気がした。


砂利道の歩きにくさ、モンスーンの季節の土砂降りの雨の中、上ったり下りたり、行ったり来たり…
うだるような暑さ、土砂降りの雨の中、日夜問わず…化膿して塹壕足のようにただれ、腫れあがった足、飢えた体で重い木々や岩石を担いで素足で永遠と…
建設の最終段階では労働力不足から病人も死ぬまで労働に従事したという。作業ができる出来ないの尺度・判断基準は赤便の割合で、検便の結果、赤便が50%以下ならまだいける、80%以上なら当日は免除とされた。けが人はキズに蛆虫が湧いていても熱湯で煮沸消毒して毛布やシーツを包帯にして現場に投入させられた。この処遇は国際法に違反し、戦後処理に際して大量虐殺に等しいと戦勝国側から厳しく糾弾され、この工事関係の戦犯として79名の旧日本軍関係者が有罪判決を受け、そのうち32名が絞首刑になったとされている。


暗鬱とした気持ちを抱えて展望台に出ると、豊かなジャングルが強い日差しを浴びて広がっている長閑な風景が目に入る。ここから47km先はビルマ。この今は穏やかに見える地に壮絶な歴史があるなんて、とても信じられなくなる景色だ。手付かずの自然、ジャングルに咲く鮮やかな花に飛び回る蝶…敵軍の利益に直結する鉄道の建設の為に強制労働させられた労働者も同じ風景を見て小さな美しさに希望を見出していたのだろう。


20分-30分ぼーっと前方のビルマの地を眺めていたら、真っ赤なハムシのような虫に囲まれた。こんな綺麗な色したハムシ見たことない。でも、美しい色だけど、こういうのって色が美しいほど毒持ってたりするので、怖くなって退散する。

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現地を歩いていると、暑さと眩暈、飢えと病 雨と風 殴打と痛み 当時の地獄の火の通り道のイメージが色々と頭に思い浮かんできて怖い。

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にょきにょきと高く伸びる竹は軟らかくしなやかで加工は楽な為、飲み水の容器や担架、点滴スタンド、ベッド、箸、尿瓶などなど様々な物に使われた。それほど、様々な物が不足していたのだ。

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最後は博物館の「瞑想の為のデッキ」で考え事。我々の習わない歴史の一部(連合国側視点の歴史)を目の当たりにした後で色々な考えが頭を巡り、とてもじゃないけど瞑想はできませんでした。白人イデオロギー丸出しの為に全部を鵜呑みにする必要は無いとのドライな姿勢で臨んだつもりだが、それでもショッキングな展示物を見るとやはりショックも大きい…でも、不謹慎かもしれないが、こんな奥地まで進軍してきた旧日本軍どんだけ!!とも思ってしまいました。

【へルファイヤパス・メモリアル】
・開園時間:09:00-16:00
・入園料:無料だが、他所の寄付が望ましい
・住所:Tha Sao Sai Yok, Kanchanaburi 71150 (カンチャナブリーから8203番のバスで約90分)
*因みに、カンチャナブリーへと戻る最終バスは17:00頃。

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