アユタヤに残る日本人町跡

チャオプラヤー川によって海洋と結ばれたアユタヤは、16~17世紀、中国や近隣アジア諸国の他、東インド会社を展開したオランダやイギリス、フランス、ポルトガルなど世界中の40もの国々の商人が集まる国際都市として栄華を極めていた。アユタヤ王は外国人に住居を与え、自治権を認められた独自の街を造成することを許可。言ってみりゃ租界地だ。こうしてできた外国人町の一つが日本人町。1610~30年の最盛期には、御朱印船貿易に携わっていた貿易商や傭兵、牢人、キリシタンなど3,000人もの日本人が暮らす町へと発展。既に町自体は消滅してしまっているが、何と今日でも彼らが築いた『日本人町』の跡を見ることができるそうだ。

場所はワット・パナン・チューンから更に南。アユタヤ中心地をチャオプラヤー川沿いに南に4kmほど下った西岸にある。反対岸にはポルトガル村跡なるものもあるようだ。
WP_20131218_131
こんな長閑な道を進み…

WP_20131218_133
進み…

WP_20131218_132
進んで…

WP_20131218_087
漸く見えた『日本人村』の看板。

門の横にある受付で入場料50Bを払い中へと入る。
WP_20131218_129

WP_20131218_130

WP_20131218_119
こちらがメインの建物で、中は博物館になっている。

WP_20131218_090
アユタヤ最盛時の地図。ナーラーイ王の時代の1663年、オランダ人のダーフィット・フィンボーンスとヨハネス・フィンボースによって油絵で書かれた物の複製のようだ。煉瓦の城壁で囲まれた島、遠くの山脈、王城を流れる河川に網の目のように張り巡らされた運河、家屋の形状、寺院仏閣、壮麗な王宮、レンガを敷き詰めた歩道あmで細かく描きこんであり、さながら『東洋のベニス』と称された所以が示されている。

WP_20131218_091
外国人居住区の区割り。運河で囲った王城の外に各国の居住区が割り当てられていて、日本の名前も確認することができる。当時の江戸幕府は朱印状を発行して貿易振興に努めたが、実際には朱印状を所有しない交易船も東南アジア方面各地に出奔して貿易業に従事していたそうだ。フィリピンのルソン、ベトナム中部のダナンにホイアン、カンボジアのプノンペンなどに日本人跡が見られるが、中でも当時世界有数の年とも言われていたアユタヤには最も多くの日本人商人や傭兵が富を求めて来航し、彼らは諸外国人と同様にアユタヤ国王から居留地を与えられて日本人街を築いたのだ。最盛期には3,000人の日本人が居住していたことは先述の通りだが、他国の召使いや従業員を加えるとこの日本人町に8,000人もの人が住まわっていたと伝えられている。それにしても、今日の文明の利器・飛行機でも7時間かかるこの距離を当時、船で何ヶ月もかけてアユタヤまで来た勇気と行動力には感服する。当時のシャムに骨をうずめる覚悟で海を渡ったのであろう。1547年にはマラッカでヤジロウがザビエルに教えを受けているし、1632年には森本右近太夫がアンコール・ワットを訪問している。いつの時代にも開拓精神に溢れた日本人がいたものだ。

WP_20131218_092
朱印船貿易の最大の交易品は中国のシルクと日本の銀。明朝が対日交易を禁止していた関係で東南アジア経由の中継貿易が発達したのである。

ひだり みぎ
マンゴスチンの形をした茶器に扇子。

ひだり みぎ

ひだり みぎ
WP_20131218_124
始めは日本の船でやってきた小さな商人の集団だったそうだ。彼らは倉庫を建て、商品を買い集めておいて、翌年に日本から来る船を待っていたそうだ。初めは商人が流れ着いてできた日本人町だったが、日本の戦国時代には主君を失った浪人が流れてくるようになり、特に関ヶ原の戦い、大阪の役の後には急激な人口膨張がみられるようになった。関が原の内戦が終わりもはや下剋上が閉ざされ、且つ、キリスト教が禁止され活路を海外に求めた優秀な人材がアユタヤに集まったのかもしれない。日本の過酷な戦国時代を生き抜いた武士浪人たちの武器・戦術・兵士教育、等々の実力は世界でも群を抜いたレベルにあったに違いない。隣国ビルマからの軍事的圧力に悩まされ続けていたアユタヤとしては、実戦経験豊富な日本人兵を傭兵への需要も高く、これが浪人のアユタヤ流入を加速させた。この日本人傭兵隊の勢力は200あるいは800人とも言われる勢力に膨張し、やがて政治的にも大きな力を持つようになった。その中にあって頭角を現したのが、山田長政である。

もう一つの小規模な博物館にある山田長政像。アユタヤを歩いていると『Yamada!!』と声をかけられるのは彼の為であろう。タイでYamadaといえばヤマダ電機でもなくドカベン山田でもなく山田長政なのだ。
WP_20131218_127
駿河国沼津で領主の駕籠かきをしていたとされるが、1611年ごろ一旗をあげようと密航同然の飛び乗りで朱印船にのってシャムに渡った山田長政は貿易活動を通じて影響力のある一大商人に成り上がり、日本人町の頭領となった他、浪人たちを束ねる日本人義勇隊隊長も勤めるまでになった。その後、日本人村だけでなく、インドシナ半島を制覇した大国シャム王国で傭兵としては最高の地位に登り、やがては海運税の徴収権まで与えらるなど22代アユタヤ国王・ソムタムの寵愛を受けて官僚ナンバー3まで上り詰めるという大出世を異国の地で果たす。彼の活躍は徳川幕府にも報告されるが、海外に瀑布以外の日本人の権力が誕生する事を嫌ったのか、あるいはアユタヤ宮廷内の内政に干渉する事で莫大な利益を生んでいた日タイ間の御朱印船貿易の利益を失うことを恐れたのか、江戸幕府としては山田の地位を認めなかったという。ソムタム王の死後は山田長政を妬み日本人の影響力を排除しようとした新王派グループとの後継者争いに巻き込まれて南部のイスラム教徒パタニ国と接するナコンシータマラート太守に左遷された後、傷口に毒薬を塗られて毒殺されてしまうという悲劇の主人公がこのYamadaである。

その後は反日本人の新王派・日本人の商業的成功を妬んだアラブ人や華僑などのグループによって日本人町も焼き討ちに遭い、江戸幕府による鎖国令による貿易衰退も手伝って日本人勢力の軍事的・政治的な影響力は完全に無くなり、徐々に現地人と同化する形で日本人や町は消滅していったそうだ。

yamada
さぞかし豪傑な男であったのであろうと思ったが、検索で引っ掛かったのはこの画像。嘘だろう?何だか気が弱く人の良さそうな普通のおじさんルックだったのか。

WP_20131218_125
何事も無かったかのように今もゆったりと流れるチャオプラヤー川。不思議なことにこの地方では日本人の墓が現在でも発見されていないし、山田長政という人物に関してははタイにも日本にも彼の実在を証明する確かな文献は無く、架空の人物という説すらあるようだ。四百年後の現在では日本人町の痕跡や子孫も全く残っておらず、時の流れの中で跡形もなく消え去ってしまったようである。しかし、山田長政が架空の人物としても当時のアユタヤ朝で日本人町が形成され、その頭領である日本人が大活躍したのは事実であるようだ。様々な理由から遠くアユタヤに希望の地を見出した日本人は、異国の地に立派に租界を造りだした。今は町の面影は残っていないが先人の希望と苦労に触れる場所である。

【拝観時間】08:00-17:00
【拝観料金】50B


報告する

関連記事一覧

コメント

  1. ポンズ ポンズ

    じゃがりこ様
    はじめまして、コメント頂きありがとうございます。
    1週間でタイ全土を…となると時間的に厳しいので、アユタヤは否が応でも1日で詰め詰め日程で回られた方が良いかもしれません。
    もし南部特化でバンコク中心に回られるのであればアユタヤに一泊しても良いかもしれませんし、旅程によるかと思われます。個人的にはレンタサイクルで1日あれば十分にアユタヤの見どころを網羅できると思いますが…いずれにせよ良いご旅行になるといいですね。他に気になる点などありましたらお気軽にご連絡下さい。

コメントするためには、 ログイン してください。