ロマンの塊・タンロン遺跡

ベトナム北部に位置する同国の首都・ハノイ。その歴史は古く、7世紀には唐(中国)によるベトナム支配の為の機関・安南都護府が置かれた街・羅城として栄え始めます。唐は新たに都城を整備し、高さ6mの城壁に囲われた堅牢な都城を今のハノイに築いたとのことだ。その後、ベトナムは中国の支配から独立を果たす。1010年には李朝の李太祖が昇り竜を意味するタンロンという王城を築き、それ以来ハノイは歴代の王城の地、行政中心区として繁栄してきました。

そんな歴史ある行政都市ハノイに2002年夏、吉村作治さんもビックリの世紀の大発見のニュースが齎されます。何と、国会議事堂移転計画にあたり土地の調査を行っていた建設作業員が多数の建築機構が折り重なった巨大な遺跡を掘り当てたのだ!!フランス統治時代に破壊されたと考えられていた、1010~1810年までの複数の時代の皇城跡を重層的に残す壮大な遺構に加え、一部は1300年前に築かれた安南都護府の遺構まで出土されたのです!現在、遺跡は世界遺産として一般開放されながらも鋭意発掘・研究が進められているそうです。

こんな凄そうな遺跡、考古学者でなくとも興奮するし、ハノイに来たからには見ないで帰る訳にはいきません。ホーチミン廟から歩いてタンロン遺跡へ行ってきました。
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え?これが世界遺産?と思ってしまうほどに閑散としているではないか。殆どと言っていいほど観光客がいないのだ。

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城は三重の構造になっていて、一番内側が皇帝が住む宮城、二層目は政治を司る皇城、一番外側は商区や庶民の生活圏で京城と呼ばれていたそうです。遺跡の入り口はタンロン遺跡南に位置する端門。15世紀黎王朝時代に築かれ、皇帝一族の住居があった宮城の南側にただ一つ開かれた門だったとのこと。

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端門には五つの出入り口があり、中央の一番大きな入り口が皇帝用だそうだ。皇帝のいる敬天殿へと通じるため、ここを通過する人は厳しい検査を受けたそうで、後黎朝の法典『黎朝刑律』には『針1本でも持ち出した者は、斬首に処す』と過激な記載がある。

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入り口の両脇には楼閣へ上る為の階段もあり、実際に上の楼閣に登る事が出来る。目の前で見る楼閣も威風堂々としていて中々宜しい。

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端門から場内に入ると、後黎朝時でも最も栄えたとされるレー・タイントン皇帝の統治時代に造られたとされる龍の階段の姿が目に入る。

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かつては龍の階段を上った先に敬天殿と呼ばれた皇帝の宮殿があったそうだ。皇帝とその家族の生活の場所で、謁見や儀式なども執り行われた重要な場所だったが、今ではその姿を見ることができず、代わりに龍の家と呼ばれるフランス植民地時代に造られフランス軍司令部として使われた建物が建っていて、内部では土器・かわら・水路・井戸・建物などの収蔵品が展示されています。

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出土品。

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龍の階段のある龍の広場には皮に太極図を模した大太鼓やはハノイの建都1000周年記念に贈られた亀の像が置かれている。ホアンキエム湖の伝説にも登場するが、永久性、強さ、平和、繁栄などの象徴とされる亀はベトナム人にとっても愛されているみたいである。

龍の階段の手前にはD67と呼ばれる建物が建っている。1954年にフランス軍が撤退した後、ベトナム戦争の時にはベトナム人民軍の大本営がタンロン城に置かれ、抗米戦争の戦略に関する決定を含む重要な会議をこの建物で開催したらしい。軍事施設だけあって、D67には地上会議室だけでなく、地下に通ずる階段まであるではないか。
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ひだり みぎ
地下には会議室と機材室の二部屋がある。重厚な鉄製の二重扉を配して原爆にも耐え得る造りになっているほか、緊急時の脱出経路として15km程先まで地下道が伸びているらしい。ホーチミン市にある旧大統領官邸にも地下道・地下シェルターがあったし、クチでも地下トンネルを掘って抗戦していたし、穴掘りはベトナム人のお家芸であるようだ。

龍の家の後ろには後楼が建つ。敬天殿の後ろ(北側)に位置している為に後楼と呼ばれるのだろう。英語ではPrincess Pagodaとなっている。
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19世紀阮朝時代、皇帝が都のフエからハノイを訪れ敬天殿に宿泊した際に、随行してきた側室や女官達が皇帝のお世話をするために控える場所とされていたらしい。なるほどだからPrincess Pagodaなのかと納得する。李朝、陳朝、後黎朝の時代の建築資材や食器など多くの遺物が出土するそうなので、黎朝時代に後楼が建てられる前から城の中心地であったと推測されている。

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南門である端門から入って北上を続け、最後に現れるのがこの幅20.48m、高さ17mの北門だ。1805年、阮朝初代ザーロン帝によって造られた北門は、タンロン城の皇城を囲む城壁に造られた五つの門のうちの一つ。幅15~16m、深さ5mの御堀も彫られていたそうで、人々は御堀を渡り、正北門と書かれたこの門をくぐって京城へと入ったそうだ。この門を眺めていると何となく当時の人々が門をくづって入城していく姿が目に浮かんでくるから不思議だ。

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世界遺産のわりには知名度が低いからだろうか観光客は殆どおらず、このロマンの塊を静かに見て回ることができる。まだまだ発掘が進められているとのことで、どういった物が出土するのか、今後の発見にも期待である。

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