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水師営会見所に乃木将軍の武士道魂を見る


二〇三高地の麓まで戻ってきたが、ここからは路線バスも無く次の目的地である水師営会見所までの足が無いので、麓にある旅行会社で白タクを手配してもらうことに。最初の言い値は100元だったが、長い中国生活の癖が出て値切ると、結局50元で行ってくれることになった。

二〇三高地を下って車で20分ほど走ると埃っぽい町中に入る。
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ひだり みぎ

ひだり みぎ
煉瓦造りの小さな商店や工房、集合住宅などが建ち並び、馬に轢かせた荷馬車や三輪トラックが道を走り街頭では生きた鶏が捌かれる。中国で見るごくありきたりな町並だ。

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その一角にあるほんの小さな敷地、前方に見えるのが水師営会見所だ。旅順陥落後の1905年1月5日、旅順市内からは北西に4キロばかりのこの水師営にある民家で乃木希典将軍が敵将アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセル将軍とが会見を行い、停戦条約を締結した。当時この付近は両軍の激しい砲弾を受けて家屋という家屋は影も形もなくなっており、会見所に当てられたこの民家だけが残っていたそうだ。ここを占領した日本軍が屋根に赤十字旗をたなびかせて野戦病院として使用していたからだろう。会見の前日、壁に残っている弾のあとをともかくも新聞紙で張り隠し、会見室に当てられた部屋には大きな机を用意し、上から真っ白な布が掛けられた。下見分をした乃木将軍は陣中にふさわしい会見所の情景に微笑んだが、壁に張ってある新聞紙に、ふと目を注いで、「あの新聞紙を、白くぬっておくように。」と告げた。紙面一杯に露軍敗北の記事が踊っていたからである。更に乃木大将は沿道に隊列をつくって迎えることを禁止し、敗軍の将を見せ物にすることを避けた他、ステッセルと副官には帯剣を許すなど敗軍の将にも敬意を払う事を忘れなかった。勝てば全ての世界で敗者だる敵将に対して仁愛と礼節にあふれた武士道精神を持って接せられる乃木希典は何たる人格者であろうか。

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入って右手にある低い石塀で囲われた平屋の農家、この藁葺き屋根の粗末な家が会見所だ。当時の会見所は名高き文化大革命により破壊された為、現存の物は1996年に復元されたものになる。水師営の会見は、旅順降伏文書の調印が行われた3日後の1月5日午前11時過ぎから行われた。10時30分、ステッセル将軍は参謀長のレイス大佐、マルチェンコ、レブレスコイ両少尉と6人のコサック騎兵を連れて水師営に到着。一方、乃木将軍ご一行はやや遅れて11時15分に会見場に入った。乃木将軍に同行したのは、伊地知参謀長、津野田、安原、松平の三参謀、それに川上書記官の計5名で、会見は両将軍が双方の軍隊の健闘を称え合い、先日までの激戦が嘘のような和やかな雰囲気の中で行われたという。まさに昨日の敵は今日の友なのである。水師営会見の様子は「水師営の会見」という文部省唱歌に描かれている。

[youtube]https://www.youtube.com/watch?v=9JtS5CnK3d0[/youtube]

旅順開城約成(やくな)りて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ 水師営

庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木
弾丸あとも いちじるく
くずれ残れる 民屋(みんおく)に
今ぞ相(あい)見る 二将軍

乃木大将は おごそかに、
御(み)めぐみ深き 大君(おおぎみ)の
大(おお)みことのり 伝(つと)うれば
彼(かれ)かしこみて 謝しまつる

昨日(きのう)の敵は 今日の友
語ることばも うちとけて
我はたたえつ かの防備
かれは称えつ わが武勇

かたち正して 言い出でぬ
『此の方面の戦闘に
二子(にし)を失い給(たま)いつる
閣下の心如何にぞ』と

『二人の我が子それぞれに
死所を得たるを喜べり
これぞ武門(ぶもん)の面目(めんぼく)』と
大将答(こたえ)力あり

両将昼食(ひるげ)共にして
なおもつきせぬ物語
『我に愛する良馬(りょうば)あり
今日の記念に献ずべし』

『厚意謝するに余りあり
軍のおきてに従いて
他日我が手に受領せば
ながくいたわり養わん』

『さらば』と握手ねんごろに
別れて行(ゆ)くや右左(みぎひだり)
砲音(つつおと)絶えし砲台(ほうだい)に
ひらめき立てり 日の御旗(みはた)

会見では乃木とステッセル両司令官がお互いの検討を讃えあった。

「私のいちばん感じたことは、日本の軍人が実に勇ましいことである。殊に工兵隊が自らの任務を果たすまでは、決して持ち場を離れない忠実さに、すっかり感心致した。」

「いや、ねばり強いのは、ロシヤ兵です。あれほど守り続けた辛抱強さには、敬服のほかありません。」

「しかし、日本軍の二十八サンチの砲弾の威力には、弱りました。」

「あまり旅順の守りが堅いので、あんなものを引っぱり出したのです。」

「さすがの要塞も、あの砲弾にはかないませんでした。コンドラテンコ少将も、あれで戦死したのです。それに、日本軍の砲撃の仕方が、初めと終わりとでは、ずいぶん変わって来ましたね。変わったというよりは、すばらしい進歩を示しました。たぶん、攻城砲兵司令官が代わったのでしょう。」

「いいえ、代わってはいません。初めから終わりまで、同じ司令官でした。」
「同じ人ですか。短期間にあれほど進むとは、実にえらい。さすが日本人です。」

「承りますと、閣下のお子様が、二人とも戦死なさったそうですが、おきのどくでなりません。深くお察しいたします。」
「ありがとうございます。長男は南山で、次男は二百三高地で、それぞれ戦死をしました。祖国のために働くことができて、私も満足ですが、あの子供たちも、さぞ喜んで地下に眠っていることでしょう。」

「閣下は、最愛のお子さまを二人とも失われて、平気でいらっしゃる。それどころか、かえって満足していられる。閣下は実に立派な方です。私などの遠く及ぶところではありません。」

・・・打ち解けた両将軍の話が次から次へと続いたという。

会見後、乃木・ステッセル両司令官を中心に日露双方の参加者が記念撮影を行っていて、その時の写真が会見所の壁に貼られていた。
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日本軍とロシア軍の幹部が仲良く肩寄せ合って並んでの記念撮影で、あまりにも自然に親しげにしているのであたかも同盟国同士の軍事演習での記念写真かのようにすら見えるが、これは確かに両軍合わせて約8万7千人もの死傷者を出した旅順攻囲戦の停戦条約が結ばれた際に撮られたものだ。

別れの挨拶のとき、乃木将軍はこれからのステッセル将軍の身の振り方について、次のような提案をしたと伝えられている。
「あなたが帰国を望まれるなら、そのように取りはからいましょう。日本に滞在なさりたいなら、京都に知恩院という寺があります。そこを宿舎になさってはいかが?」
ステッセル将軍は乃木将軍の親切に感謝したが、我が身の上については皇帝の意向を伺わなければと、答えた。後に将軍は皇帝に電話したところ、皇帝の返事は勝手にせよと冷たかったが、皇后は帰国を勧めたという。水師営の会見から1週間後、ステッセル将軍は夫人と4人の養女を伴って汽車で大連を発った。見送る部下将校の姿は少なく淋しいものだったという。彼は帰国したら皇帝に謁見でき、ねぎらいの言葉をかけられるものと期待していたが、予想に反して逮捕され、最高軍法会議であらゆる抵抗手段を尽くすことなく投降した責任として死刑の宣告をうけ、後に減責となり10年の懲役刑に処せられたそうだ。ステッセル将軍が投獄されたと聞いて愕然としたのは乃木将軍だ。彼は皇帝に「将軍は万策尽きて開城したのであったわけで、罪を許されよ」との旨を記した嘆願書を送ったという。その甲斐もあってか恩赦を受け出獄することができたステッセルだが、生活には困窮したそうだ。それを知った乃木は名前を伏せてしばしば金銭的援助をした。そして、1912年の明治天皇崩御の後に乃木大将が殉死した際、ステッセルは皇室の御下賜金に次ぐ多額の弔慰金を「モスクワの一僧侶」とだけ記して送ったとされている。

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会見場は入って左側のがらんとした土間の部屋に野戦病院の手術台だったという長机が1つと長椅子が2つ置いてあり、壁には会見当日の写真が1枚飾ってある。それだけ。史跡としても観光地としても、扱いが今ひとつ半端である。写真撮影も不可。入って右側の部屋には数枚のパネル写真が掲げられていて、これらは写真撮影可能。ゆっくり見たかったのだが、日本語ができる自称「無償ガイド」がついてきて、ドネーションを迫ってきたので、落ち着いて見学をすることもできなかった。

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敷地内の土産屋ではこの旅順工芸品を150元で購入。ガイドはありがたいが、もっとゆっくり静かに見学したかったんだがなぁ…二〇三高地でもそうだったが、旅順の観光地で働かれる人たちは商魂逞しすぎて、感傷に浸りたい気分を見事に台無しにしてくれる。

水師営会見所
住所: 旅順口区水師営会見所
電話: 86233509
時間: 8:30-17:00
定休日: 無し
料金: 40元(約650円)

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