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日露戦争の最激戦区となった二〇三高地


永遠と待っても路線バスが来なかったので、痺れを切らしてタクシーにて203高地の麓までやってきた。

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一般車両で乗り入れできるのはどうやらここまでのようで、ここからは山の麓にある旅行会社の専用車、観光用の駕籠、もしくは徒歩で頂上を目指すことになる。籠屋に群がられるも、自らの足で自力で急坂を登って頂上を目指したかったので丁重にお断り。

映画『二百三高地』で見た通り当時は丸裸の山だったそうだが、今では植樹が進んで緑の山となっている。道も舗装されすっかり遊歩道として整備されている が、今から109年前、この山の頂上を占領するために実に多くの同胞の血が流されたというのは紛れもない歴史的事実である。1904年の11月26日から 12月6日まで続けられた203高地攻略戦で日本軍は約64,000の兵士を投入し、戦死者5,052名、負傷者11884名という信じがたい数の犠牲者を出した。
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映画などで描かれる203高地攻防戦では日本兵がなだらかな斜面を走ってきて、ロシア側の機関銃に掃射されるというようなシーンがあったが、実際の203高地は思ったよりも急な坂だ。この急斜面を完全武装の露軍の要塞に向かって三〇式歩兵銃を抱えて突撃していった明治の日本人。幾度となく跳ね返されながらも最終的に肉弾をもってこの要塞を陥落させたその姿を考えると鳥肌が立つ。

それでは、何故このような無謀な強硬策に出たのだろうか。実は、203高地攻略は開戦時には陸軍の作戦にはなかった。ロシア艦隊の排除による制海権の維持を至上課題としていた海軍の要請により、副次的任務として組み入れられたのである。

1904年2月6日、ロシア政府に国交断絶を通告したその日、日本政府は連合艦隊を進発させ、全面戦争への火ぶたが切って落とされた。当時、ロシアの太平洋艦隊は旅順港を拠点としており、この艦隊を壊滅させなければ、日本海や黄海での制海権は保証されない。しかし、老虎尾半島の突端と対岸の黄金山山麓に挟まれた旅順口は幅が270m程しかなく、しかも、水深が浅い為に大型戦艦が航行できるのはそのうちの3分の1程度にすぎない。最高の軍港と称され今でも人民解放軍の軍港として使われているこの旅順港、攻めたくても入り込めないのだ。そこで、連合艦隊は旅順口に貨物船などの廃船を爆破して沈め、ロシアの太平洋艦隊が外洋に出られなくするという無謀とも見える奇策をとった。しかし、天候に恵まれなかったり、廃船を目的地点に運ぶ前に発見されて集中砲火を浴びたりと、旅順口閉塞作戦を3度決行したがいずれも失敗に終わる。一方、ロシアのバルチック艦隊が遠く本国から巡航してくる動きをみせていた。バルチック艦隊に加勢されれば日本の連合艦隊の勝ち目は無い…日本海軍に時間の猶予がなくなった。

そこで、陸軍に旅順の高地を奪取させて背後から旅順を攻める計画が立てられた。
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こんな感じのイメージだ。大本営は急いで第三軍を編成、その司令長官には乃木希典を任命された。乃木将軍の率いる第三軍は6月6日、遼東半島の塩大澳に上陸すると旅順要塞への攻撃を開始し、三回に渡る総攻撃を行う。しかし、強固に築かれたロシアの防壁を突破する事はできず、第三軍は大敗北を重ねる。ロシア軍は巨費を投じ、6年もの年月をかけて鉄骨とベトンで固めた砲台と銃座を無数に構築、この難攻不落の永久要塞を取り囲む防御陣地は25キロにも及んでいた。堡塁は厚さ1~2mのコンクリートで固められ、その前には幅6~12m、深さ7~9mの壕が掘られている。さらにその外側には電流を通じた鉄条網が張り巡らされ、地雷まで埋められていた。そして連ねられた700門の砲台と三十二個大隊、約4万2千人の守備隊が日本軍を待ちかまえており、鉄壁強靭な敵軍要塞に真正面から果敢に攻撃する日本軍が屍の山を築くだけだったのは当然のようである。旅順要塞の正面攻撃に固執する第三軍司令官の乃木将軍がようやく乃木将軍が二〇三高地攻略に作戦を切り替えたのは、第三回総攻撃で甚大な被害を受けた後のこと。11月28日の朝から二〇三高地への砲撃が開始され、夜半までに二〇三高地の西南山頂を占領した。日本軍の攻撃目標が二〇三高地に変わったことを察知したロシア軍は、要塞から増援部隊を出して逆襲にでてきた。突撃と退却が繰り返される戦場では、敵味方の死体が四重にも五重にも重なっていて、占領した地点に陣地を構えるのに、日本軍は土壌が不足したため死体を積み上げて戦ったともいわれる。それでも占領地を支えきれず、29日の夜に再奪還され、その後は一進一退の戦況が続く。弾丸が欠乏し致命的な状況に追い込まれた日本軍は、石塊や砂礫・木片まで武器に変えて応戦し、必至でロシア軍を撃退、そして12月5日には二〇三高地西南部を再び占領することに成功。劣勢が必至となったロシア軍は12月6日には雪崩を打って敗走し、二〇三高地はようやく日本軍の手に落ちた。

二〇三高地を確保した日本軍は、ただちに砲撃の観測所を設け、その観測指揮にしたがって港内のロシア戦艦に対して28センチ砲の砲撃を開始した。午後2時、四方を圧する砲声を轟かせ、最初の28センチ砲弾が山稜を越えて湾内のロシア艦隊に襲いかかった。砲撃は以後も続けられ12月8日までにロシアの太平洋艦隊をことごとく撃沈していった。こうしてロシア太平洋艦隊は一度も日本の艦隊と砲火を交えることなく消え去った。

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今歩いている山頂への道付近も、敵味方の砲弾が炸裂して山の斜面は月面のような無惨な姿に変わり果てていたはずである。せっかく占領した陣地を守ろうとしても、日本兵はすでに弾丸を撃ちつくしていたので、迫り来る恐ロシアの武装敵兵に対して、石塊や砂礫、木片まで武器に変えて応戦して撃退したという。そうした光景が頭の隅を過ぎると周囲の景観が酸鼻を極めた戦場に変わり、背筋に悪寒が走る。

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重砲観測所。実際の大砲からの攻撃は頂上からではなく山の後方からだったので頂上に観測者がいないと打ち込む方向を定められなかったようだ。

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大汗をかきながらようやく山頂にたどりついた。広場の中央には爾霊山と書かれた銃弾の形をした奇妙な忠魂碑が立っている。戦場に散らばった弾丸と薬莢を集めて日本で鋳造し直して造られた忠魂碑だ。記念碑の「爾霊山」の文字は乃木大将の揮毫によるもの。「爾」は「なんじ」という意味なので「爾霊山」は「なんじのたましいのやま」、即ち203高地攻略戦で犠牲となった膨大な命を慰めるために建立された慰霊碑である。日露監獄跡で爾霊山に残った白襷隊と思われる屍の山の写真を見ていることもあり、何だか涙が出てくる。「今はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった」とか「日本の国民を騙してる」とかいう文章を日・中・英の3ヵ国語で書きやがってる。

高射砲横には記念撮影商売用の軍服や軍帽があったり、土産屋『坡上雲』の売り子にしつこく商品の購入を迫られるなど、がっかりした。別にプリントTシャツやお守りなどの記念品を買いに来てるわけじゃないし軍装して記念写真を撮りに来た訳でもない。このような場所での押し付け商売は止めて頂けないものなのだろうか。

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こちらは旅順港口に照準を定められた280mm榴弾砲。重さ10,753kg、砲弾の重さ217kgで射程は7,8km。二〇三高地争奪戦では大砲60余台を使用、11,000発以上の砲弾が日本軍により放たれた。日露戦争は近代世界戦史の中でも悲哀をもって語られることが多いが、旅順攻囲戦はその悲哀を象徴する戦いであり、二〇三高地はその最激戦区であった。歴史好きや坂の上の雲を読まれた人は一度足を運んでみるのも良いだろう。

203高地
住所: 旅順口区203高地
電話: 86398277
時間: 5月~10月上旬=7:30-17:30/ 10月中旬~4月=08:00-16:00
定休日: 無し
料金: 30元(約500円)

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