東洋の魔窟(?)九龍城砦

かつて、と言ってもそうは遠くない昔、どの国の法も及ばず、警察官すら干渉できない『あらゆる悪の巣窟』なる巨大スラム建築群が香港に存在しました。そのおどろおどろしい悪評は海を越え、遠く日本でも伝説的評判が広まった九龍城砦です。俗に無法地帯と形容される程の危険地帯は他にもありますが、九龍城は現実にどこの国の法律も適用されなかった為、文字通りの無法地帯として売春や麻薬、博打などあらゆる裏産業が蔓延りました。


まるでホーンテッドマンションを彷彿とさせる外観のこの九龍城砦、元は中国・宋の時代に対賊団の防衛目的で建造されました。近代に入り、アヘン戦争によって1841年に香港島が、1860年にはアロー戦争によって対岸の九龍半島が清朝から英国に割譲されることになった勢いで、1898年には九龍半島の新界地区及び香港周辺の島嶼部も99年間の期限付きで英国に租借され、九龍城砦の一帯を含む現在の香港の領域が英国領となりました。しかし、自らの住民や官吏を九龍城に留めて99年後の返還交渉を有利にしたいとの清朝側の思惑が働き、九龍城砦だけが租借地から除外され、英国領土内の清国の飛び地となります。『英国は清国領土の九龍城の主権を侵犯しない』『清朝は英国軍事活動の邪魔をしない』の2点の約束を基にした条約が締結され、ますが、条約締結の翌年、城砦の清朝役人が鳴らした爆竹が付近の英国軍人を驚かせる軍事妨害にあたるとのイチャモンをつけて九龍城から清朝の官吏を一斉排除。結果、九龍城砦はイギリス領ではないので英国の法律は適用されず、清朝の役人も不在なので中国の法律も施行されなくなり、文字通りの無法地帯が完成。清朝、イギリス、香港政庁の拮抗が生んだアナーキな空間は中国大陸からの密航者や香港の犯罪者の格好の逃げ込み先となり、売春や麻薬、賭博など違法行為の巣窟へと化したそうです。

戦後、中国に共産党政権が誕生すると、ただでさえ深刻な居住地不足に悩む香港には戦時混乱を避けて大陸から大量の難民が押し寄せ、過度の居住人口を収容する為に九龍城砦には建築法を無視した無計画な増築が重ねられ、最盛期では僅か2.7ヘクタールの敷地内に建てられた500もの雑居ビルに合計5万人以上もの住民が暮らすという、世界一の人口密度を誇る高層スラムへと成長を遂げました。どの国の主権も及ばずに放置されていることを良いことに、違法建築物が複雑に入り組む迷路のように膨れ上がったコンクリートジャングルの中では、食品衛生法を無視した食品やコピー品の生産、違法手術、麻薬や売春、賭博などありとあらゆる悪事が栄えたそうです。


非合法に建てられた建築物集合の為、建物によって階ごとの高さはバラバラ、建物が寄り合う事でバランスを保っているような、まるでジンガのような不安定な状況。

ひだり みぎ
ひだり みぎ

昼でも太陽の光が届かないジメジメとした薄暗い通路の頭上では電線や水道管の束がワイルドに交錯し、ゴミクズが散乱したままに放置されている通路には腐臭を漂わしながらちょろちょろと汚水が流れている。ゴミは階下に掃き落とすのが習わしだったようで、下の人はまたその下へと掃き落とす為に、下層階ほどヘドロの腐臭ベースに、ゴミクズや飲食物、薬品などの臭いが入り混じった悪臭が強かったそうだ。ヘドロの悪臭も気にしない、後述の通りジェット旅客機の爆音も気にしない、火事のリスクも気にしない、日当たりも気にしない…よっぽど大らかな方々が住まわれていたのか、賃貸価格面でのメリットが大きかったのだろう。

ひだり みぎ
また、直ぐお隣に位置していた啓徳空港(旧香港空港)からの排気ガスの匂いと爆音も九龍城を襲う。空港周辺の一定の空域は建築物設置不可と法で定められているかとは思うが、航空法なぞ糞喰らえ。僅か南方約八百メートルにニョキニョキと違法建築が重ねられていて、旅客機は九龍城スレスレでの離発着を余儀なくされる。ただでさえ獅子山が構えるために北西からの進入ができず、東に向かってぎりぎりまで飛び、空港直前で右へ45度機首を向けて滑走路に合わせるというウルトラC級着陸を余儀なくされるのに、更に着陸前の航路すれすれにそび建つ廃墟が如きコンクリートブロック。パイロット泣かせの九龍城だが、離発着の難易度が高いだけに運転する方もも気合が入ったからか、目立った事故は無かったようだ。

そんなアジアンカオスの象徴ともなっていた九龍城砦ですが、香港の中国返還を前に93年に取り壊され、跡地には長閑な嶺南スタイルの九龍寨城公園が造成されています。

ひだり みぎ
かつてのカオスっぷりが全く嘘のような静けさの中で、小鳥が鳴いている。


公園内に展示される在りし日の九龍城の全景模型。


こちらは当時の画像。法律を無視した違法建築が年々、癌の様に広がって肥大化し、迷宮めいた化け物スラム街に変わり果ててしまった。


九龍城の歴史や居住民の当時の暮らしぶりに関しての資料も公園内に展示されています。

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1920年代にはまだ小さな城砦であったが、中国大陸からの移民急増に伴い、九龍城の巨大化が始まる。1950年代からは城内でヘロインなどのドラッグ生産が進み、50年~60年代にかけてストリップ場や売春宿、違法カジノや阿片商や犬肉加工業を営むブラックな商人が挙って無法地帯である九龍城に雪崩れ込みいよいよ城砦は悪人の魔窟と化します。


続いて、歯科医を中心とした無免許医師が流入。登記する必要が無いので、免許不要な他、納税義務もない上に賃料は格安と、悪人を引き寄せる魅力には事欠かない九龍城。その後も魔窟としての成長を続ける。

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住居だけでなく工場や商店、食堂、学校、医院など、合計870もの店舗や工場があり、住居民は一歩も城外に出なくとも生活ができるほどの機能を持ったコミュニティーとなり、悪人だけでなく、貧困層の香港人も住み着きます。さしずめ『九龍城自治区』といった風に、人々は建物の中で生活を完結することができるようになりました。

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食品衛生法を全く無視した食品加工業者。香港外への輸出も盛んだったそうです。

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青空の見える唯一の場所である屋上にはアンテナが無造作に乱立され、数十メートル上を旅客機が飛び往くアンテナ林の中で子供たちが無邪気に遊んでいます。他を寄せ付けない排他的なイメージのある九龍城ですが、中には住まいあり、職場あり、商店ありで、人々が普通に生活している。アングラ文化の蔓延る魔窟としての印象が強かったが、貧困層の生活基盤としての一面もあったようだ。

城塞落城に際しては城砦の入り口にバラックを建てて篭城抗議をする住民も多くいたそうです。魔窟魔窟と言われても彼らにとっては立派な我がホームですからね。九龍寨城公園の展示スペースでは魔の一面だけでなく、当時の住民の生活の様子なども紹介されていて、大変貴重な情報を得ることができます。黄大仙MTR駅からタクシーでワンメーター(HK$20)なので、黄大仙での開運祈願ついでに寄られるのも良いかもしれません。

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コメント

  1. 匿名

    ……どの国の主権も及ばずに放置されていることを良いことに、違法建築物が複雑に入り組む迷路のように膨れ上がったコンクリートジャングルの中では、食品衛生法を無視した食品やコピー品の生産、違法手術、麻薬や売春、賭博などありとあらゆる悪事が栄えたそうです。

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