100円で学ぶ香港の歴史・香港歴史博物館

どの国にもそれぞれ辿ってきた歴史があり、その国が辿ってきた道を知ればこそ、その国の今が分かる。

世界には日本の天皇家のように万世一系と存続してきた歴史もあれば、中国のように数千年に渡って易姓革命で王朝交代を繰り返してきたた有為転変の歴史もある。こと香港はというと、19世紀初頭まで人口が万にも満たない中国辺境の一漁村程度の存在であったが、アヘン戦争後に英国の植民地となったことを契機に地の利を生かした中継貿易都市として大きく発展。その後は旧日本軍による支配、イギリスによる再支配を経て、今は中国共産党の一国二制度の管理下で経済成長を続けるという、非常に複雑な歴史を歩んできています。

詳しくは香港歴史博物館で学ぼう!ということで、香港の歴史文化への造詣を深めるべく、今日は香港歴史博物館に行ってきました。

場所は九龍半島・尖東のビジネス街の一角。隣には香港科学博物館もあります。

中々に立派な建物。展示物の開設は中国語と英語のみなので、言語的にちょっと…という方の為にカウンターで日本語の音声解説ヘッドフォンがHK$ 10で貸し出されています。

この博物館の常設展示館では有史以前、何と4億年前のデボン紀から1997年の香港返還に至るまでの歴史が年代別に1~8のテーマに別れており、それぞれ写真、立体模型や映像、音や光の特殊効果などのマルチメディアをフル活用し、香港の自然生態や民間風俗、各時代の暮らしぶりを如実に再現されています。


4億年前の地質時代が香港故事の旅への出発点。この『自然生態環境』コーナーを皮切りに、『有史前の香港』⇒『王朝の発展:漢代から清代まで』⇒『香港の民族』⇒『アヘン戦争と香港の割譲』⇒『香港開港と初期の発展』⇒『日本占領期』⇒『現代都市と香港返還』と続きます。規模・内容共に、さしずめ江戸東京博物館の香港版といったところで非常に充実しているが、入館料はなんとHK$10ポッキリ!さらに何度も足を運びたいという香港マニアの方々には更に耳寄りな情報として、毎週水曜日は無料で解放されています!

4億年間の香港の地質年代と各時期の地形に関しての映像や展示物を過ぎると、18メートル超の巨大樹木が生い茂り、動物たちが躍動するジャングルへ。
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動物の吠える音や小鳥の鳴き声までが再現されていて、6千年前の香港の自然環境を知ることはおろか、まるで当時の樹林地帯に迷い込んだ気にすらなってしまう。

続いては新石器時代。考古資料によると、香港には6千年前には海岸沿いの砂丘で人々が暮らし始めていたとされています。
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当時の人々が浜辺で煮炊きをしたり、石器や装飾品、家や筏を作る様子が再現されています。


出土された馬湾人の頭蓋骨からの復元図。左が男性で右が女性のようだが、顔立ちからは違いが判別できないし、寧ろ女性の方が逞しくすら見る。当時の男性諸君は尻に敷かれていたのだろうか。

さて、有史以前は越族の生活基盤であった香港一帯を含む嶺南地区ですが、中国の奏~漢時代以降は中原の漢民族の南下が進んだことで高度な文明が到来します。

続いては香港の主要4民族『水上人』『福老人』『本地人』『客家人』の生活風習の紹介。

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こちらは水上人の生活の様子。彼らは8世紀ごろに内陸部から勢力を拡大した漢族に追われて南下してきて、海上生活を営むようになりました。漁業や海上輸送業、水産品の加工などで生計を立て、船の修理期間や日用品の買い出し、水産品の売り込み活動以外の時間を除き、なんと一生の殆どを船上で過ごしたそうです。その苦労心労たるや、車上生活の比ではないだろう。

続いて福老人の生活。
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彼らは元来から広東省に住み着いていた土着民族で、漁業の他、蒸発池を用いた伝統的製塩技術をもっていました。

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彼らもかつては水上で暮らしていました。一時期は香港の全人口の約1割もが船上生活者だったそうですが、近年の香港では沿岸の埋め立て工事が進んでいる為、水上生活者の数は激減しています。福老人が結婚する際、新郎はドラゴンボートに乗って花嫁を迎えに行くという風習が、陸上生活に変わった後にドラゴンボート踊りに変わったそうです。この踊りの様子はビデオで見ることができます。

お次は『本地人』。北宋王朝時代に北方民族の侵入による際に混乱を逃れて南下してきた漢民族で、平地の肥沃な土地で農業に従事していました。
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彼らは匪賊や猛獣に対する防御策として、家長を軸に同族で集まって囲村と呼ばれる城壁に囲まれた村の中で閉鎖的に暮らしていました。広州の陳家書院やマカオの鄭家大屋などが著名だが、今でも香港各地、特に新界地区では囲村の城壁が見られるそうだ。

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漢民族社会ではお見合い結婚が一般的だった。花嫁は輿に乗せられて新郎の家まで向かう風習があったそうです。

最後は教育熱心で商才に富むことから『中国のユダヤ人』の異名を取る客家人。太平天国の指導者である洪秀全や、孫文、鄧小平、李光耀など、政治経済方面で数多くの偉人を輩出している。
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客家は漢民族の一支流、春秋戦国時代の王家や名門貴族の末裔が多いそうだが、戦乱を避けて避難・移住を繰り返し、移住先では『よそ者』としてされてきたそうで、客家とは招かざる客、招かざる異邦人との誹謗的意味合いが含まれているそうだ。香港にも比較的遅くに移住してきたため、すでに住みやすい平地は漢民族に独占されており、客家の人々は、新界地区の丘陵地を開墾し、苦難に耐えながら細々と農耕生活を営まざるを得なかったそうです。

続いて目に入るのは民俗展覧エリアに展示されている3つの巨大な塔。

長州島で旧暦4月8日に行われる太平清醮祭り(通称、饅頭祭り)に飾られる高さ10メートル超のタワーで、何と、竹の骨組みと6000個の蒸し饅頭で作られているという、饅頭製造業者ウハウハな設計となっています。この塔によじ登り、どれだけ高得点の饅頭を取り集められるかを競うというワイルド且つシンプルな競技が祭りのフォナーレを飾ります。

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実際のお祭りの様子。『タワーに登って取れた饅頭の数と点数を競い合う』という小学校の運動会競技バリのシンプルなアイディアですが、意外にスリリングで盛り上がります。


こちらはお祭りの出店。縁起物がズラリ。

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龍鳳粤劇劇団という広東オペラも紹介されています。単純ながらも過酷な生活を営む農耕労働者にとっての唯一ともいえる娯楽だったそうです。

ここからは3階へ。香港はアヘン戦争以降、激動の時代を迎えることになります。
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時は18世紀、世界の先進諸国に先駆けて一早く産業革命を成し遂げた大英帝国は、世界に跨る植民地政策の一環で、中国では広州にイギリス商館を創立せしめ、広州・香港を中心に貿易を行っていました。当時、イギリスでは上流階級を中心に茶文化が大流行し、その茶葉を中国から大量に輸入していましたが、逆にイギリスから中国へ輸出できるものは少なく、輸入超過によって大量の銀がイギリスから流出してしまいました。この貿易赤字の是正の切り札となったのが、アヘンでした。 大英帝国ははインドで生産したアヘンを中国へ輸出し、瞬く間に貿易収支は逆転。大量の銀が中国から流出しただけでなく、中国国内では麻薬中毒者が急増し、社会問題に発展。こんな国難を打破すべく奮闘したのがこの男。


その名も林則除。強硬な大英帝国に屈することなく、アヘンの取り締まりを敢行した男。このアヘンの輸入規制策により大英帝国との関係が決定的に悪化し、アヘン戦争へと突入。清国が敗れ、1842年に締結された南京条約によって香港島は英国に永久割譲されることとなり、大英帝国植民地『香港』が誕生。19世紀末になると、欧米列強国はもはや死に体とも言える程に弱体しきった清国への進出をさらに強め、 1898年にはアロー戦争の結果、九龍半島以北・深セン河以南の新界地区が99年間という期間付きで英国に租借され、こうして今日にも続く香港の領域が確定しました。

英国統治下の香港は、中国華南貿易の基地として19世紀末から20世紀初にかけて高度成長期を迎えます。 アヘン貿易で有名なジャーディン・マセソンやデント商会などの英国系貿易企業が香港に拠点を構えたこともあり、大陸中国人やインド人が多く香港に移り住み、植民地化前は閑散とした小漁村に過ぎなかった香港の人口は爆発的に増加しました。
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古色豊かな茶葉問屋、米店、住居ビル、裁縫店、雑貨店、郵便局、銀行、貿易商店などの建築物群や、当時の最先端であったヨーロッパ式蒸気船、売り子の声やトラムの行き交う音、小通りに仄かに黄色く灯る街灯など、19世紀末から20世紀初頭の古き良き時代の香港の街の様子がよく分かるよう再現されています。個人的に香港歴史博物館内で一番好きなエリア。特に香港に深い思い入れがあるわけではないが、何故かノスタルジックな思いにさせてくれます。

しかし、香港の繁栄も長くは続きません。1941年に太平洋戦争が勃発。同年12月25日には旧日本軍が大英帝国領土である香港を攻略し、香港は以後3年8ヶ月の日本統治時代を迎えることとなります。

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軍刀、鉄帽、九四式自動拳銃などの展示物。旧日本軍の統治下では香港ドルに代わる貨幣として軍票が大量且つ無計画に乱発された為に香港経済に深刻なインフレを引き起こしました。その上に旧日本軍の戦況が悪化、香港居住民に対しても極度の倹約生活が強かれた為、今でも香港では日本の統治時期は『暗黒時代』として国の歴史に刻まれています。その結果、僅か3年8月という短い統治期間であったにも関わらず、香港歴史博物館内でも一つのコーナーを設けて当時の香港人の窮境ぶりが伝えられています。

終戦後は蒋介石が率いる南京国民政府が英国に対して香港の返還を求めるも、イギリスは太平洋艦隊を香港に配備して国民党軍の要求を却下。その後、中国国内で国共内戦が激化したために、香港問題は棚上げとなり、 日本軍撤退後の香港は再びイギリスの支配下に戻りました。

日本の統治下では物資不足の為に、中国人住民が中国本土へ強制退去させられたこともあり占領前に160万人いた人口が一時的に60万人に減少しましたが、中国人民共和国成立後、中国大陸に於いて1950年代の大躍進政策の失敗や1960~1970年代の文化大革命という混乱が続いたことから、共産化を恐れた労働者や農民、資本家や知識人が中国大陸から香港に大量に流入し、以後の香港の経済発展の牽引車として貢献しました。

当時は中国本土で共産主義国が成立して赤いカーテンにより西側諸国との関係が閉ざされた為、従来の中国本土との貿易窓口としての経済発展モデルが立ちいかなくなり、その代わりに、1970年代に入って中国本土から流入する移民の安価な労働力を使って製造業が発展。1980年代に入ると中国が改革開放政策を開始したことを受けて香港を拠点とする主要メーカーが挙って安価な労働力を求めて中国本土へ移転、代わりにコンテナターミナルなど物流インフラやシステムを整備することでアジアに於ける物流のハブ地点へと成長し、1980年代からは世界一の貿易港として、再び中継貿易で発展していくこととなります。更に香港政庁は、政府規制を極力押さえて、低い税率を維持するなど過剰な経済への介入を避ける積極的不介入主義を取ることにより資本主義国の資金を呼び寄せ、貿易・金融・物流のセクターが大いに成長、韓国、台湾、シンガポールと共に『アジア四小龍と称されるまでの成長を遂げました。

香港租借期間の満期が近づくにつれ、1970年代後半からは英国政府は租借の延長を中国政府に求めましたが、 中国政府は応じない。1982年、時の最高実力者である中国の鄧小平、趙紫陽趣総とイギリスのサッチャー首相と香港返還の交渉の席に着くも、鄧小平は全面返還を求める強硬姿勢を貫き、結局、1984年9月26日、『中英共同声明『』により、香港が1997年7月1日に中国に返還されることが決まりました。
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そして返還前日の6月30日、イギリス・中国合同で返還式典が行われます。 厳かなイギリス国歌『女王陛下万歳』の演奏と共にイギリス国旗『ユニオンジャック』が降ろされ、続いて、イギリス国歌とは正反対の勇ましい中国国歌『義勇軍行進曲』が流れる中で、中国国旗『五星紅旗』が香港に初めて掲げられる。そして1997年7月1日午前0時、香港・中国国境の落馬洲から陸海空の中国人民解放軍が続々と香港入りをし、名実ともに香港の中国返還が完了。中華人民共和国香港特別行政区が成立し、一国両制度の下、2047年までの50年間は資本主義と英国法を下にする法体制を維持するとの約束の上で中国共産党による香港統治が始まりました。果たして2047年にどのような決定がされるのか…

この香港返還を以って、香港歴史博物館の香港の歴史めぐりは終了となります。

【香港歴史博物館】
●開館時間:10:00~18:00(月水木金)
10:00~19:00(土日祝)
●休館日:祝日以外の毎週火曜日及び旧暦新年元旦とその翌日
●入館料:HK$10(毎週水曜日は無料開放!)

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