江戸東京博物館

今年の国慶節は休暇直前に緊急案件が発生した為に残念ながら短期休暇とならざるを得なかったが、限られた時間の中で独身の機動力を活かして都内の観光地を見て回ってきました。その中の一つが両国にある江戸東京博物館。

江戸東京博物館では、1590年に徳川家康が江戸に入府して以来、経済・文化の中心として繁栄してきた江戸・東京が多面的なアプローチで紹介されています。江戸開府以来400年超の間、人々はどのような生活を営み、楽しみ、苦しみ、そして何を願ってきたのでしょうか?学術的なカタブツ展示品だけではなく、実物大の復元建造物や縮小模型、映像の他、屏風絵や浮世絵版画、錦画をはじめとした時代時代の生活用具や資料、そして体験型展示物を通じて江戸以来の日本人の軌跡を辿ることができる造りになっています。非常に濃い内容で、本当にタイムスリップした錯覚に陥ってしまいます。


JR両国駅から徒歩2分。もっと江戸を全面に押し出したレトロチックな外観かと思いきや、意外や意外、非常に近代的な建物でした。所謂バブル期の箱物行政の賜物なのでしょうか。

入場券を購入し(600円)6階の常設展示室入口へ。

入館して先ず日本橋の復元モデルに仰天させられます。『全ての道は日本橋に通ず。』江戸時代に整備された基幹街道である五街道の起点として定められた日本橋の北半分が原寸大で再現されています。現物に忠実に、橋杭や橋桁には欅材、床板には檜が使用されています。

橋を渡った向こう岸の左側が江戸ゾーン。家康が目指した城下町スタイルの都市が堪能できます。

江戸ゾーン

寛永の町人地をが細かい職人芸で完成された精密ジオラマで再現されています。

江戸の町は江戸城を中心に東側の山の手地域にに大名や旗本などの武家屋敷が立ち並び、西側には約120メートルを1区画の基準とした基盤の目状に町屋が軒を連ねる典型的な城下町スタイルとなっている。町割りとともに物資輸送のための船入掘や日本橋を起点とした五街道などの道路網の整備もされ、新しい中央集権都市が誕生したことが伺えます。ゲストが細かすぎるモデルを余すことなく満喫できるため、、双眼鏡が置いてありました。まさに痒い所まで手が届くサービス。他国の博物館ではこういった気遣いはありません。

太平の世となった江戸時代、サラリーマン武士が世に現れます。

参勤交代の為、毛槍持ちの従者とともに江戸・日本橋に到着した大名行列の錦画。参勤交代制度の為、単身赴任の身で江戸勤番を命ぜられた江戸詰めの武士たちは外出を制限されて金銭的な余裕もなく、悶々とした日々を過ごしていたそうです。争いも無く平和な世において、武士が単に将軍や大名に仕えて俸禄米をもらうだけのサラリーマンと化したのです。


1840年、江戸詰め勤務を命ぜられた久留米藩史の生活。真昼間から同役と酒を飲んだり庭を眺めたり午睡かましたり 、金はないとはいえのんびりとした自由な生活が伺える。

こちらでは 狭い路地裏に立ち並ぶ六畳一間の長屋で生活する庶民の姿を再現。

誕生したばかりの赤子に産湯をつかわしている風景。当時は自宅に産婆を読んでの座産が一般的な出産スタイルだったようです。庶民は九尺二間、約3坪の空間で暮らしていました。戸口を入ると土間があり、すぐに部屋になっている。土間は台所兼用で、床下に置き竈が設置されているのが一般的だったそうです。

江戸と東京の典型的な家族の年間収支比較図。

如何にして抽出されたデータかは分かりませんが、東京都内の平均的サラリーマンの支出の収入に占める割合は88%。それに対し江戸のとある大工は年間294日も働いても収支/収入が95%と非常にカッツカツのその日暮らし的な生活だったご様子。まぁ栄養価や医療水準的に寿命も短かったであろうし、現代の世のように老後の為の備蓄を心配する必要は無かったのかな。

下記は江戸の物価目安表。文政年間漫録に基づいています。
・串刺しおでん:4文
・握り寿司1ケ:8文
・上等の酒1合:40文
・鰻丼:100文
・歯磨き1か月分:6~8文
・わらじ:12~16文
・口紅:30文
・芭蕉句選:約450文
・風呂:大人10文、子供6文
・見世物:18~100文
・髪結い:男28文、女100~400文

続いて『絵馬 火消千組の図』で火消出動の様子を観察。

喧嘩と火事は江戸の華!鳶口や提灯、梯子を手にした多数の男どもが我先にと火元に急ぐ様子が物凄くリアルに描かれています。当時の火消は破壊消防であったそう。出火地点の風下側の家を人海戦術で迅速に撤去し延焼を防いでいた為、破壊作業に慣れた鳶が重用されたそうです。人海戦術で己の身を使って火を食い止めていた江戸火消。大量の野郎どもが火元に押し寄せている様は、圧巻であると同時に何だか滑稽でもある。


これは上の画の中央で掲げられている纏の再現。先ず、風向きなどを参考に予測をたて、延焼を止めるために破壊する家を決める。そして火元から見て破壊する一軒先の家に纏を立て、「この家を壊せ」という目印にしていたそうです。足場の不安定な屋根の上で軽々と纏を振っていた江戸っ子火消しですが、これ、何と15kgもあるんです!!


続いて当時1000人を超える従業員を擁していた三井越後屋江戸本店。普通の呉服屋さんでは代金を節句ごとに掛値付きで集金するツケ払い方式を採用していたところ、『現金掛け値無し』を看板に掲げて店頭での現金による定価販売を採用して大繁盛しました。また、火事が頻発した江戸にあり、火災時の焼失防止策として商品は店頭に並べずに土蔵にしまい、客の注文を聞いてから取り出すなどの対策を取りました。


千両箱。約14kgとクソ重い!時代劇で目にする江戸の盗人・鼠小僧次郎吉のようにコイツを小脇に抱えてさっそうと屋根を駆け抜けるのは腕力的にも足腰的にも僕には到底無理です。

両国橋西詰

軽業や歌舞伎芝居の見世物小屋が軒を連ね、寿司や天ぷらなどの屋台から果物売り、大道芸人が集まる盛り場を1/30の大きさで再現した模型。この賑わいを再現する1500体の人形は顔・所作・衣装など2つと同じものはない。まさに細部までこだわる職人芸。


中村座。江戸っ子で連日賑わっていた歌舞伎小屋が日本橋下に原寸大で再現されている。

東京ゾーン

日本橋を挟んだの反対側が東京ゾーンになっています。幕末後、西洋の制度や文化、新技術を推進した 明治新政府の意向によって鉄道が開通し、建物も煉瓦造りの家が立ち並ぶ近代的都市に変貌を遂げていきました。


銀座煉瓦街。近代国家にふさわしい街造りとして明治新政府によって計画・建設された。文明開化を象徴する銀座独特の雰囲気が約550体もの人形を用いて忠実に再現されている。


庶民の足となった人力車。1870念い営業が開始され、翌年には東京市内で1万台を超えるほどの人気となった。ここでは人力車に実際に乗ることができます。(走行は不可)

こちらは駕籠車。

駕籠にもいくつかのタイプがありますが、庶民が乗るのは主に竹の棒と編み竹で作られた簡素な『四つ手駕籠』でした。通常、一里(約3km)を1時間で走りきると言われる。『誠に宙を走るが如し』『肩には茶呑茶碗に水一杯入乗せ行とも、こぼるる事もあらじと思ふ計り』と表現される程、乗り心地は良いと評判だったそうだ。


『エホイエホイ』という掛け声に合わせて担がれます。駕籠屋の営業は幕府への登録制となっているし、競争原理が働いているのでぼったくりは余りなかったらしい。


浅草は江戸時代に両国と並ぶ盛り場として栄え、明治に入ってからも見世物小屋や大道芸で賑わいをみせた。


東京市内一円均一料金でお馴染みの通称『円タク』が大正末期に出現。フォードとシボレーが昭和初期から普及されました。

そして第二次世界大戦へ…
戦時中は国粋主義的な風潮が高まり、風紀上の問題として内務省主導で敵性語が徹底的に排除されました。

例えば、煙草の『チェリー』は『桜』に、『ゴールデンバット』は『金牌』に改められました。他にも野球の『ストライク』は『良し!』、『ボール』を『だめ』と呼ぶなど、徹底的に日本社会から外来語を抹消していきました。解説は苦労しただろうな~。

戦時下の住まい

東京下町地区の典型的木造建築の一室を再現。窓には空襲の爆風によるガラスの散乱防止の為に紙が貼られ、電燈には明かりが外に漏れぬようカバーがかけられています。防空頭巾や鉄兜からも当時の様子が窺い知れる。ラジオは空襲情報を得るための必需品だったようです。『欲しがりません勝つまでは』『贅沢は敵』『足りぬ足りぬは工夫が足りぬ』戦時体制に刃向う者は非国民とされました。当時の方々の忍耐力には頭が上がりません。

当時のラジオ放送を聞くこともできます。

『兵ニ告グ』を試聴。2・26事件の参加兵に対する戒巖司令官からの投降勧告です。文字だけでは伝わってこない緊張感まで痛いほど感じ取ることができる。以下、内容。
『敕命が發せられたのである。既に天皇陛下の御命令が發せられたのである。 お前逹は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從して誠心誠意活動してきたの であらうが既に天皇陛下の御命令によつてお前逹は皆復歸せよと仰せられたので ある。 此上お前逹が飽く迄も抵抗したならば夫は敕命に叛抗することになり逆賊となら なければならない。 正しいことをしてゐると信じてゐたのにそれが間違つて居たと知つたならば徒ら に今迄の行き懸りや義理上から何時までも叛抗的態度を取つて天皇陛下に叛き奉 り逆賊としての汚名を永久に受けるやうなことがあつてはならない。 今からでも決して遲くはないから直に抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。 さうしたら今までの罪を許されるのである。 お前逹の父兄は勿論のこと國民全體もそれを心から祈つて居るのである。速やか に現在の位置を棄てて歸つてこい。』

そして運命の8月15日がやってきます。


『民の禍見るに忍びず』

戦後は国民生活の逼迫ぶりが極限に達します。

衣服の不足を訴えるポスター。引揚者とは、戦前に海外に送り出されていた女性や子供などの非戦闘員で、日本敗戦後に本土に帰還された方々のことです。中には帰還できずに海外戦地で生き別れになった親子も多数おり、小生が中国に来てからも少なくとも3名の残留孤児の方々にお会いしました。

国鉄や私鉄の駅前では闇市取引が横行。

新宿には敗戦後五日目にして闇市が誕生し、配給機構や公定価格を無視した闇取引がバラック木造長屋スタイルのマーケットで行われていた。

その後、高度経済成長の波に乗り、庶民の生活は著しく向上しました。

何だこれ!?と思ったら『パーマ機』だそうです。生活の質が改善されたことから人々の美容意識も高まっていきました。

最後に、1950年代~60 年代の中産階級の住宅モデルで当時の日本人の生活に思いを馳せることができます。

我が国の江戸以来の歴史がびっしり詰まっていて、感動モノ。江戸・東京の生活の雰囲気を体感し、思わずその時代に引き込まれてしまいました。文字の羅列をひたすら暗記させられた学生時代の授業よりもよっぽどタメになりました。お勧めの博物館の一つです。

東京江戸博物館

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最寄駅:JR総武線 両国駅西口下車 徒歩3分・都営地下鉄大江戸線 両国駅 A4出口 徒歩1分
開館時間:09:30~17:30 (土曜日は09:30~19:30)
拝観料:600円

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