インドネシア独立記念塔(モナス)

モナスとはジャカルタ中心部に堂々と聳え立つ独立記念塔のことである。インドネシア語の『Monumen Nasional』の略語らしい。

モナス…何ともマヌケな語感であるが、塔自体は非常に気合が入った造りです。
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スカルノ元大統領の音頭の下で建造された高さ137メートルのこの塔の外装は白い大理石製。頂上部の台座の上には高さ14メートル、直径6メートルで重さ14.5トンの青銅製レリーフが設置され、『永遠に燃え続ける炎』として独立戦争中のインドネシア国民の漲る闘志を象徴しています。

定礎式が1961年8月17日に行われ、1975年7月12日から一般公開されています。
塔の地下は歴史博物館になっていて、原始時代~大航海時代、オランダによる植民地支配、日本軍占領、終戦後の独立戦争から単一国家になるまでの過程が計48のジオラマで表されています。博物館からはエレベーターで頂上まで登ることができ、頂上展望台からジャカルタの景色を360度見渡すことができます。

暑いので早く中に入りたかったが、塔の根元まで行ってもどうも入り口が見つからない。
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普通、塔の一階部分に入り口があると思っちゃいますよね…でも見つからない。辺りを見回してもそれらしきものが見つからず困っていると、一人の現地人が英語で話しかけてくれました。

現地人『お困りでしょうか?』
私『助け舟ありがとうございます!この塔の入り口が見当たらないようなのですが…』
すると現地人は何故かテンションバカ上がりして入り口まで連れていってくれることになった。彼の名はアンディー・スッシュアンディー。苗字と名前が繰り返しのようになっているのは彼の出身地である西ジャワの人たちの名前の特徴だそうだ。凄くご機嫌に色々と教えてくれる。これは後で何か買わされるパターンか法外なガイド料金を請求されるパターンだなと本能的に警戒心が発動。歩いて2分程で入り口に到着。

これです。
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平べったっ!!このムチャクチャ広い公園の中でこんな入り口って…遠くからだと花畑にしか思えない。

階段を下り、トンネルを通りぬけます。
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ジャカルタでは敵軍からの攻撃に対する防御の意味でもトンネルが重要であること、そして『forced labor (強制労働)』を意味するインドネシア語は日本語から来ていること等々のうんちくを高~いテンションで教えてくれるアンディー。いつの間にかちゃっかりガイドになってます。こりゃ案内料がっつり取られるぞ~。

トンネルを抜けた先が博物館へのエントランスとなっていて、ここでRP 3,500 (≒35円)を払うのだが、何故かアンディーが私の入場料を肩代わり。知らない人に払って貰うのは気が引けるのと後で何十倍の額を請求されるのか恐ろしかったので自分で払うと申し出るも、『My pleasure!』とか言って払わせてもらえない。そして、いざ入館しようとすると…『It was nice meeting with u! have a good time! (会えてうれしかったぜ!楽しんできてな!)』と言い残し、来た道を引き返していった。何者!?アンディー疑ってごめん!!貴殿の行為は忘れないさ!

さて、そんな好青年の善意の行動を疑ってしまった自分を恥じつつ、博物館に入ります。
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冷房が効いてて涼しい。

床と壁はぴっかぴかの大理石。
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広さ80メートルx80メートルの周囲にジオラマが展示されているのですが…
暗い!物によっては全然見えない物もあり、皆さんガラス越しにべったりくっついて覗き込んでいました。折角の展示物が…インドネシアクオリティーです!!

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インドネシア人の先祖様。石器を使って何かしているようですが、暗くて良く見えません(苦笑)

7~13世紀:スリウァヤ港
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南スマトラにあるこの港がインドネシア-中国-インド貿易で経済・文化の中心都市として繁栄します。

824年:
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中央ジャワに仏教徒と多くの民衆の協力でボロブドゥール寺院が建設されます。今や世界遺産の一つ。

14世紀:インドネシア最後のヒンドゥー教王国であるマジャパヒト王国。
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領土が拡大されるにつれて国土防衛の必要性も高まり、軍艦整備を整えます。

14世紀:イスラム教寄宿学校。
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生徒はインドネシア全土から集まり、教育機関として重要な役割を果たしました。生徒は卒業後に故郷に戻り、宗教指導者になったり自分の学校を建設したりしました。

16世紀:スンダケラパ(Sunda Kelapa)
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1522年、ポルトガルはジャワを支配していたヒンドゥー教国家スンダ王国と政治経済協定を結ぶ。イスラム教国との争いに際してポルトガルが軍事協力をする代わりに香辛料の自由貿易をするといった内容である。然し、1527年、ファタヒラによってポルトガル軍は駆逐されてしまう。

1817年:
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ポルトガルが退いた後にインドネシアを統治していたオランダに対して暴動を仕掛けるインドネシアの民衆。

1825-1830年:ディポネゴロ王子の反乱。
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15000もの兵士を失い、手を焼いたオランダ軍は和平交渉をすると言ってディポネゴロ王子を誘き寄せて捕えてしまいます。

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インドネシアで相次ぐ反乱抑制の為に財政状況が悪化したオランダ。農地耕作の重労働を課すなど経済的搾取の動きを強めます。

1879-1904年:カルティニさんが民族主義運動と女性解放運動を指導。
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彼女の生誕日であった4月21日は今でもカルティニの日として各地で記念行事が催されています。

1908年5月20日:インドネシアで初となる民族主義団体・ブディウトモ結成。
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知識人たちが立ち上がりました。ブディウトモとは最高の英知という意味だそうで、ジャワ人の下級被支配層の社会的立場の向上が主に目的であり、穏健的な活動団体だったそうです。現在のインドネシアでも塔団体の結成日である5月20日は民族覚醒の日として祝日になっています。凄い名前の祝日ですね…

1920年-1927年
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西ジャバで発生した反オランダ闘争が中央ジャワ、西スマトラまで波及したが、オランダ軍により制圧される。13000人が政治犯として逮捕され、後の副大統領ハッタや首相シャフリルを含むその内の1300人は辺境の島・ディグル(ニューギニア島)への流刑に処された。生きて還ることが保証されない遠い瘴癘の地・ディグルは植民地の安寧と秩序を維持する上で有効であったが、急進的なナショナリストからは「聖地」と崇められ、今日でもディグルはナショナリストの犠牲の地のシンボルとなっているようだ。

1928年10月27日
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インドネシアにおいて民族主義運動が高まりを見せる。1928年10月28日には『One Country, One Nation and One Language INDONESIA』を合言葉に愛国心溢れる若者が集結。インドネシア青年会議において「青年の誓い」が採択された。
1.われわれインドネシア青年男女は、インドネシア国というただ一つの祖国をもつことを確認します
2.われわれインドネシア青年男女は、インドネシア民族というただ一つの民族であることを確認します
3.われわれインドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用します
ここに至り、独立を求める人々はオランダ領東インドの国名として「インドネシア」の名を選び取り、この地域に住む様々な民族をインドネシア人として統一し、独立を達成するという決意を内外に示した。

1942年3月、オランダが旧日本軍に降伏。
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暗すぎて何も見えませんが(涙)インドネシア国民は建物や軍事基地、飛行場、道路、橋などの建築に従事させられ、過酷な強制労働の果てに多数のインドネシア人が犠牲になられたそうです。強制労働従事者のことをインドネシア語でromusha(労務者)とも言うそうです。その一方でオランダ植民地政府に軟禁されていた民族主義者を開放し、現地人を官吏に登用するなど、オランダの弾圧政治とは一線を画した統治方針を打ち出します。

1943年
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旧日本軍により郷土防衛義勇軍が結成される。組織的には旧日本軍から独立していて、インドネシア人指揮官がみずから率いる民族軍として構想された軍隊であり、日本敗戦後、初期のインドネシア国軍の基幹戦力を構成し、インドネシア独立の原動力となった。

1945年8月17日
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第二次世界大戦での日本の敗北を受け、インドネシアは独立を宣言する事を決意。スカルノが宣言し、横にハッタがいる。両名とも現在のスカルノ・ハッタ空港の名前の由来となった人物です。

1945-1949年:インドネシア独立戦争
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スカルノの独立宣言を容認しないオランダは再植民地化に乗り出して、インドネシアの独立をかけた真の戦いが勃発します。日本の世界大戦の大義名分が東亜新秩序の構築であったことから、2000人以上の日本の将兵が日本敗戦後もインドネシアに留まり、インドネシア独立の為に戦い、命を落としました。

1949年:
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オランダはインドネシア軍の粘り強い抗戦と国際連合の政治的圧力に屈し、ハーグ円卓会議の席で遂にインドネシア連邦共和国を独立・主権国家として承認することが決議され、ここにインドネシア独立戦争が終結します。

ここで面白い話。12世紀にインドネシアの後世を予言していた人物がいたそうです。彼の名は当時東ジャワの勃興したクディリ王国のジョヨボヨ王。彼はこう予言しました。
『我らが王国は、白い人びとに支配される。彼らは離れたところから攻撃する魔法の杖を持っている。
この白い人の支配は長く続くが、空から黄色い人びとがやってきて白い人を駆逐する。
この黄色い人びとも我らが王国を支配するが、それはトウモロコシの寿命と同じくらいの期間だ。』

それは彼らの子孫が400年以上に渡って近代的な軍事装備(=魔法の杖)を有した白い人々(=オランダ人)に支配され、やがて黄色い人々(=旧日本軍)がオランダ軍を駆逐するという構図にぴったりすぎます。

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インドネシアは独立獲得後も紆余曲折あったものの、今や首都ジャカルタは人口1000万のアジアを代表する大都市となるまでに発展しました。

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おっと、これはジオラマではなく本物の人間です。ガラス部屋に入って携帯画面の一点を見つめて微動だにしないので紛らわしい…

さrw一通りジオラマを見終わり、頂上の展望室へ向かいます。RP 5,000(約50円)を払ってエレベーターで上がるのですが、人が殺到していて約1時間待ち…

それもそのはず。
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エレベーター一基かよ!!ドアが閉まって上に到着するまでは丁度1分でした。

ひだり みぎ
ひだり みぎ
残念ながら開放時間が09:00~16:00なので夜景を楽しむことはできませんが、昼間でも東南アジア有数の大都市ジャカルタを一眼に見下ろす絶景はたまりません。

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コメント

  1. 旅行好きサラリーマン

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    >masahiro020さん
    純金メッキですか~。やはり国の威信をかけたシンボルだけあって金を突っ込んでますよね~。是非、入口とエレベーターにももう少し資金を回して頂きたかったですwww

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